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【善】

高校時代や予備校時代に、電子辞書を使ってギリシャ神話に詳しくなった人は、おそらく私だけではないだろう。電子辞書はときに人生観をガラリと変える銘文と出会わせてくれることがある。

【善】
ぜん
good 英語
bon フランス語
das Gute ドイツ語
 広義には、肯定的評価の対象となる価値をもつものがすべて善である。しかし、狭義には、行為および意志の規定根拠が善である。この二義はときとして混同され、多くのものが「善(よ)い」とよばれる。たとえば、すべて「値うちのあるもの」は「善いもの」である、といわれるが、この意味では「見るによいもの」も、「用いるによいもの」も、なんらかの意味では善である。しかし、それらは「美」であり、「有用なもの」であって、本来の意味では「善」ではない。善は本来の意味では、これらの値うちのあるものにかかわる行為が選択される場合の根拠なのである。したがって、善は本来、行為外的に、事物に付着する性質として、「観照」の対象をなすものではなく、行為内的に、意識の自己還帰を構成契機とする「実践」の場面において、実践を成立させる根拠として自覚されるものである。一つの行為は多くの可能な行為のなかから、「いま、なすべきもの」として選び取られるが、この選択の根拠が善である。したがって、善は自由において自覚されるものであって、自由の根拠である。[加藤信朗]ー日本大百科全書(ニッポニカ)ー

この文章を読んだ時、憶えてはいないが、震えたと思う。
未だにこの文章を読んで思うが、この文章の第一印象は表現の美しさへの感動だった。自分の中で曖昧なものだった【善】というものを定義し、さらにそれが自由という要素にも結びつく。なんと美しい文章なのだろうか。
それ以降、私の人生の根幹は「善く生きること」になった。

善は自分の行動の根拠として自分の内面に宿る。
人が何かをするときに、その行動が本人にとって「まさに今この時に、しなければならない行動」だと考える根拠になるのが善であり、その行動の結果がどうあろうとも本人がそれが"よい"と思って行動したという根幹は揺るがない。そして、人が善だと思って行動を現実のものとして実行した段階で、その善は永遠のものとなり、これが覆ることは二度とない。そして、その行為を選択しうる余地として、行為選択の自由はその前提となる。
(その意味で、善と正義は全くの別物であるといえる。)

しかし、「善く生きる」のは難しい。
どうしても、「正義か不義か」、「利己的か利他的か」、「正しいか不正か」といったような、表面上は「善か悪か」に重なる要素に惑わされがちになる。
そんなときに私が基準としているのが"後ろめたい"という感情である。この感情を発生させ得る行為はなるべく行わないように、そう意識するようにしている。少なくとも、他人との関わりにおいては特に。

それでもなお、悪を犯すことは多い。
例えば、赤信号だけど車がいないから横断歩道を渡ってしまったり。
こういった、自分の善性への背信となる行為は特に犯しがちである。
(この例に関しては社会規範も犯しているのだが。)

日々の生活で常に「善であるか、否か。」を意識しているわけではないが、それでも「善く生きる」ことを目指すことは大切であると思う。
少なくとも、自分自身に嘘がつけない以上、後ろめたいことはなるべくしないように生きたい、そう思う。



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