小説 雨上がりの博物館 1

「さとちゃん」
マナーモードの振動するスマホ画面を見て、すぐに出るか迷った。
駅前の横断歩道の信号が青に変わり、皆が一斉に歩き出したところだった。
私は一瞬曇った空を見上げてから、一歩遅れて渡り始めた。
渡り終えても着信が鳴り止まなかった。
もうすぐ電車が来るためか、皆早足で進んでいく。
離れていく背中を横目に、電話に出た。
「あ、お姉ちゃん、元気?」
2つ下の妹の聡子の少し甲高い声が弾んでいる。
「うん、元気。さとちゃんも元気そうだね。」
「それがね、コロナの自宅待機が終わってのこの1週間、疲れたのよ。自転車で保育園の送り迎えだけでも疲れたし、仕事が終わったらもうヘトヘト。でも私本当によく頑張りました。」
疲れたという割には、電話の向こうで自分に万歳してそうな爽快な声に、私も少し清々しくなった。
「おつかれさま。今週は雨の日も多かったのに、頑張ったね。偉い。」
「ありがと。お姉ちゃんはどうだったの。」
「いつも通り。私は全く何も偉くないよ。淡々とよ。」
そう答えながら、電車のICカードを探そうと鞄を開けると、読みかけの本の栞が鞄の底に見えたので拾い上げた。
「ねえお姉ちゃん、いつも通り、の後、何て言ったの。電車の音で聞こえなかった。」
拾い上げた栞を、本のクロージング力についての章に挟もうとしていたが、やめてそのまま本と栞を鞄に放り込んでから言った。
「淡々とよ、そう言ったの。」
「そう?まあいいや。それにしても、老いを感じたよ。まだ辛うじて三十代だけど、体力もだけど、皺もも出てきたし、白髪もね。」
「あれ、私達に大事なのは如何に頭と心を使えるかで、外見ではないでしょう。そう叔父さんから言われてきたでしょう。」
そう言いながら、それを言えるほど私は偉いのかと自分に問いかけた。

子供の頃、この叔父さんには何年もの間、私達姉妹は毎週のように勉強を見てもらった。そのおじさんはよく言っていた。
「人は外見ではないよ。大事なのは目の奥の光を失わないこと。その為には頭と心をしっかり使う。俯瞰して見て、自分だけでなく皆に多幸感のある方を選ぶ。要は、何歳になっても日々学び、良く使う、これがとても大事だ。」
この叔父さんは何歳になっても情熱を失わない。何歳になっても、理解者が周りに一人もいなくても、興味ある分野の研究論文を読んだり、学び続けている。その叔父さんの言葉だ。

「そうだね。大事なことは見た目じゃなかったね。ところでお姉ちゃん、電車乗るの?どこへ行くの。」
「博物館。今日から仏教の新しい展示が始まるの。急にふと行きたいなと思って。一緒に行く?」
「あ、大丈夫です。お姉ちゃん、すごく時間かかるんだもん、一緒はいいや。一人でゆーっくり楽しんできてね。」
「うん。また今度ね。」
「じゃあね。」

私は電話を切ると、急いで駅の階段を駆け上り、ホームへ急いだ。
急いだ甲斐もあり、閉まる間際の電車のドアに滑り込めた。

曇り空の昼下がりの電車の中はがらんとしていた。
車両の端の席に座って動悸を落ち着かせながら、妹と電話をしながら感じた違和感を思った。
「私達に大事なのは如何に頭と心を使えるか」
どうも言葉だけが浮いている。今の私は何も全く偉くない。そんな私が言えた言葉ではなかった。
そんな事を思いながら、博物館へ到着できる時間を検索し始めた。

博物館の最寄りの駅の改札を出ると、雨が降り始めていた。肩にかけていたカーディガンに袖を通しながら、駅の改札の軒先にある水溜りに沈んだ、半分切れた黄色い落ち葉を見ていた。
傘を開くと、20メートルほど先に桜の木が見えた。

あの葉も、この前までその木のどこかで青々としていたのでしょう。
短い間に、とても変わったね。そしてさようならの季節になった。

広い公園の先に小さく白い建物が見えた。ゆっくりと壮観さが増してくる。
今日私がどうして急に来たくなったのかは良くわからなかったが、不思議とこれには違和感を感じなかった。むしろ何故か当然だと思えた。

休日とは違い、雨の平日の博物館の人はまばらだ。
子供のの頃から何度も来ているが、何度来てもこの静けさと厳然たる感じがたまらなく好きだ。

入り口近くから並ぶ高僧の肖像画を一枚一枚眺めた。
絵の解説なども読んでいくうちに、今までに出会った人に何となく似て見えてくることがよくある


まず最初に浮かんできたのは福々しいお顔、私の夫の顔だった。
その肖像画は明るい色の法衣姿で鎮座し、優しさと愛情深さが静かに滲み出ている。目を閉じていてしばらく開きそうもない。何を思っているのかよく分からないが、分かりすぎていなくて、それが心地いい。私達のルールは、お互い愚痴を言わず、各々が好きな仕事をする。子供のこと以外で夫婦で細々しい相談をする事はない。長い時間をかけて分かっていけばいい。これはこれで良いようだ。
この絵に違和感は感じなかった。


その隣の肖像画の色白のお顔。小学生の時のクラスメイトに見えてきた。
その隣は誰にも見えてこなかった。こんな時は、きっとまだ出会っていない誰かだ。そう思うようにしている。
今日は割とそんな絵や仏像が多いような気がした。

最近は以前ほど何にも熱意が持てなくなっている自分に気付いてきた。そんな時は大抵何とかして気持ちを盛り上げようと努力していたが、今回はそんな気力も起こりそうにないような気がしていた。
でも、誰にも見えてこない肖像画や仏像をがいくつか続いた。私にはまだ何かが待っているのか。まだ出会っていない何か。

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