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非合理な特殊解9

昨日のクリスマスも、いつものように昼は会社へ行き、夜は銀座のお店へ出勤した。
お店ではお客様の席へ着かせてもらうことは無くなった。待合の席に一人佇む日がもう1週間ほど続いていた。弥生のお客の山本から、退店や引退が近くなるとこうなると予め教えてもらっていなかったら、きっと落ち込んでいただろうと律は思った。

この1ヶ月、律はお世話になった方々へお礼をして回った。律のお客様へはほぼ終えたが、宮本からは返信が無かった。ルールでは宮本からメールがあった日に一度だけ返信することになっていた。宮本が入院して以降、一度も何の歌も送られてこなかった。そこで先週、律はこの歌を送った。

田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
(宮本さん、あなたのいる病室からは富士山が見えますか。雪が降り積もって美しい富士山が。)

宮本からの返信は無かった。

昨日は、いつも着物の出勤日にお世話になった貸し着物屋さんの、いつもの着付師さんへ会いに行った。腰の曲がったその着付師の老女は、最初はとても意地悪な人なのかもしれないと思った。
その人は最初、変にシミのある着物や、古い擦り切れそうな着物などを涼しい顔で律に着せた。どんな変な組み合わせだと思ったとしても、律は感謝して着るようにした。何も知識が無かったので、最初はそれがいかに変なのかが分からなかったが、何度かお願いし続けたある日、その人は律にこう言った。
「あなたね、されるがままにされるんじゃないよ。地味なのばかりだとか、この着物にこの色の帯はあり得ないとか、こんなボロいのは着たくないとか、言いたいことが無いのかい?」
着物を畳む丸い背中がピクリと止まり、振り返った。

「はい。言いたいことはありません。お店の先輩には変と言われますが、お客様は面白いって。地味は全然構いませんし、タブーもしていきましょう。私を実験台で。」
律が弾んだ声で答えると、そんなときめいた表情の律を見てその着付師は呟いた。
「あなた、変な子ね。」 

そんな事があってからは、色合いも柄も選ばれる着物が変わった。この1、2ヶ月は帯を2、3本の中から律にに選ばせた。その度に「どうしてそんな帯を選んだの?」とその人は言った。そんなわざとらしい棘のある言葉を聞く度に、律は、「センスを磨きなさい」と言われているような気がしてならなかった。
昨日もその着付師の老女へ今までのお礼を言うと、
「え?辞めるからお礼に来たの?そう。変な子ね。」
とその人は言った。そしてこう続けた。
「あなたは大きな柄(の着物)が良いわよ。元気でね。」

「似合ってたわよ。着物また着てみなさいよ。」
律にはそう聞こえた。雑に閉まる戸に深々と頭を下げた。

今日は、お店の下の階のバーのマスターへ会いに行った。
早く美容室と着替えを済ませ、更衣室が混み合う前に、店を抜け出した。裏口の階段を一階下り、バーの裏口の戸をトントンと2回叩いた。
色々すぐに帰れない事情があった時、裏口から帰る時、変装するのにマスターの上着を借りて帰った時、どの日もこの戸を叩いた。
「マスター。」
「あ、りっちゃんか。入って。」
笑うと目が無くなる50代の男性が顔を出した。
マスターはカーペットの掃除中のようだった。
「いよいよこのお仕事を辞める日が来ました。お世話になりました。」
律は、カーペットの無いカウンターの内側に立ち、深々と頭を下げた。
「そう。りっちゃん、良かったね。おめでとう。」

「マスターの夜ご飯のおにぎりで作ってくれたお粥、何度もいただきましたね。胃潰瘍になる度に来てたような。薬より効いていたかも。沢山お世話になりました。ありがとうございました。」
「こちらこそ。いつもお客さんと来てくれてありがとう。来てくれた時はいつも店員みたいに動いてくれて、こんな1人でやってる店だから助かったよ。さびしくなるな。」
律はいつの間にか自分が泣いていることに気づいた。慌てて涙を拭い、元気な笑顔を作った。
「マスター元気でね。」
「うん。りっちゃんもね。」
マスターは律の頭を撫でた。

お店の営業が始まると、律はまた今日も来ない出番を待ちながら、携帯を見ていた。スケジュール管理を開いた。年明け1月6日の欄にある予定を選択した。「新しい仕事ここから」という文字が見えた。律は、昼の会社での出来事を思い出した。


昼休み、夏子は知らない番号の書かれた紙切れを片手に、電話をかけていた。
その紙切れは、会社の自分の机の中身をカバンの中へ移し替える時に、はらりと舞い落ちた。拾い上げながら、夏子は
「あ。」
と呟いた。

4回目の発信音の途中で男の声が聞こえた。
「誰?」
「こんにちは。エマの友達です。エマの職場の方ですよね?急にすみません。」
「何?」
不機嫌なんだろうか。その男はとても無愛想だった。しかし、夏子は聞きたかったことを質問してみた。
「エマは退職したがっていますが、どうして何ヶ月も退職できていないのでしょうか。」
「え?」
数秒間の沈黙の後、急に男の電話口の声が明るくなったような気がした。
「退職できるよ。俺は何も言われてなかったよ。あの子が仕事辞めたがってるなんて分からなかったよ。」
「え、そうなんですか?」
夏子は、エマが電話口で仕事を辞めたい趣旨の話をしているのをみたことがあった。おそらくこの番号に話していただろう。それなのに知らない?夏子はそんなはずはないと思った。
「それより、君もウチの仕事しない?」
「私がですか?」
エマが辞めたい理由は、日本を離れるからだけじゃないのかもしれない、と夏子はなぜか急に思った。
「エマさんから仕事の内容聞いてる?」
「少しだけ聞きました。データ入力ですよね?時給はいくらですか?」
そういえば、データ入力って何?夏子は電話で話しながら自分に問いかけた。
「データ入力。そうそう。昼は2000円、夜は2500円。どちらがいい?」
疑問も違和感もあったが、もう数日で無職になる夏子にはありがたいとだと思った。
「深夜でお願いします。年明けからで良かったら宜しくお願いします。」
「じゃ、いつから来れる?」
「1月6日はいかがですか?」
「いいよ。履歴書持って午前0時に来て。場所はあの子に聞いてみて。」
 「はい。宜しくお願いします。」
「それから、エマさんに、今月で退職していいよって言っておいてね。荷物はいつでも取りに来ていいよって。」
「はい。」
「では。」
すぐにガチャと電話が切れた。
携帯のスケジュール画面の年明け1月6日の欄へ、1件予定を書き加えた。そしてエマにも電話をかけた。今月で辞めていいという話をした瞬間の喜びの声が、その1秒後には少し項垂れたため息になった。
「まさか、夏子が代わってくれたの?」
「代わり?」
夏子は何か良くない予感がしてきた。電話口のエマの悲しそうな声に、明るく答えた。
「そう。身代わり。でも私、もうすぐ無職になるから、ありがたいと思って。エマ、気にしないで。私が選んだの。もうすぐ昼休み終わるから、またね。」
「夏子ごめん。じゃあ夜にね。」
「またね。」


電話を切った後もエマの「ごめん」と「身代わり」が気になった。
一人お店の待合席にいる間も、エマの「ごめん」と「身代わり」が頭に浮かんだ。
そんな一人だけ待合席に残されている光景は、お店にいるどのお客へも、律がお店をもうすぐ辞めるのだということを知らせていた。誰も律へはなしかけなくなった。

退勤後、夏子はエマの家へ向かうために新橋駅へ向かった。駅のトイレで巻き髪の中の十数本のヘアピンを抜いていった。抜きながら、明日はいつもの美容師さんに今までのお礼を伝えに行こうと思った。
 

律は、銀座のお店のお仕事にはもう思い残すことは無くなった。


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