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非合理な特殊解 6

夏子はいつものように渋谷駅で服装をチェックした。メガネを鞄から取り出してかけると、いつも通りの地味なOLができた。
夏子は歩き出しながら宮本からのメッセージが来ていたことを思い出し、鞄から携帯を取り出した。黒い携帯を握りながら、夏子は苦笑いになった。
「これエマの携帯だわ。」
エマの家へ戻れば確実に会社には遅刻になる。戻るのは諦めて、エマへ繋がる自分の携帯へ電話した。渋谷駅の朝のラッシュの階段を登りながら電話の呼び出し音を聞いていた。中々電話に出ない。
電車のホームに着くと直ぐに電車が到着し、開いたドアからは乗客が一斉に流れ出た。夏子は一度電話を切ろうとした。その時、
「夏子!間違っちゃったの?」
エマが予想以上に深刻な声だったので、夏子は慌てて神妙になって言った。
「そうなの。ごめんなさい。どうしよう?」
「次に会えそうなのはいつ?」
「明明後日の午前1時過ぎかな。」
発車の音楽が頭上のスピーカーから鳴り響き、夏子はうるさくて倒れそうになったが、エマに聞こえるように自然と大声になって答えた。
「そうだよね。私も直近のお仕事無い日、その日だわ。会社へ届けようか?」
「嬉しいけど、時間通りに外に出られないかも。」
目の前の電車のドアが閉まり、電車は走り去り、路線はがらんとなった。ホームの乗客の流れは右へ左へ蠢いた
「明日の午後は時間があるから、銀座のいつもの画廊に寄ったついでに、夏子の会社の近くの喫茶店か何かで待ってるよ。」
「ありがとう。ごめんね。それまでに携帯に連絡が入ったら、それぞれメッセージで伝え合おう。」
「うん。」
「じゃあ。」
夏子は電話を切り、間も無く到着した満員電車へ乗り込んだ。エマの携帯の写真フォルダを開いた。きっと今頃、エマも私の携帯の写真を見てるだろう、などと夏子は思った。私のフォルダにはエマと橋と空と神輿の日のしかない。エマの苦笑いが頭に浮かんだ。

エマが撮った写真は猫と花と空が多かった。たまに夏子がいた。つい3時間くらい前の私もあった。最低限の急所は隠れているが、顔から足先までの裸体写真だった。これまで生きていた中で消したい写真第一位に出逢ってしまったと夏子は思った。夏子は無意識にゴミ箱のマークを押した。『消去しますか?』の表示の下の『はい』を押しかけているうちに、乗り換え駅に着いてしまった。
「これはエマの携帯だった。」
そう呟いて、夏子は『はい』を押さずに携帯を鞄に仕舞い込んだ。

会社に着くと、エマの携帯にメールが来た。職場からなようだ。
「今日は出勤出来そう?」
このメッセージにはどのように返信したら良いか。エマへメッセージで聞いてみることにした。
「エマの勤務先から出勤出来るの?とメッセージあったのだけど、どう返信したら良いかな?」
数分後、エマから返信が来た。
「はい、とだけ返信してね。」
夏子はすぐにエマへ返信した。
「了解です。」
そして、夏子はエマの職場の上司のような人へ「はい」と返信した。

午前10時半。メンバーの多くがいくつかの会議に入り、ソフトウェア開発部のオフィスはがらんとなった。携帯にはエマからのメッセージが入っていた。

宮本からのメッセージの転送だった。

「秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む」

検索すると万葉集の歌だった。宮本はどこかから茅場町の方向を見ていたらしい。そして目の前に綺麗な紅葉があるらしい。宮本は一体どこにいたのだろう。

私も万葉集の歌の中から、返答のための歌を探す事にした。PCで万葉集の歌の検索をした。数分間睨めっこした後、この歌を返すことにした。

「秋の野を朝行く鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今夜か」
(いつもどこにいるのか分からない貴方に今日の夜は会えるのかな。)

エマは、この歌を宮本に送信した後、
「あなた達何時代の人?www」
と夏子へメッセージした。

夏子の持つエマの携帯には、何度もエマの職場から連絡があった。夏子はエマの指示通り、電話に出たりはしなかった。しかし、夏子はその番号を紙に控え、机の引き出しに仕舞い込んだ。

「(^^)www。ありがとう。また後ほど。みんな会議から戻ってきた(・・;)」
夏子は慌てて携帯を鞄の中へ仕舞い、次の会議の準備のために席を立った。

この日も、会社を通常よりも少し早く退社し、清澄白河駅へ向かった。いつものように駅のトイレで着替え、髪を整え、地上に出た。そして通りを歩きながら横切る路地のどこかに停車しているはずの宮本の車を探した。

いつも車がある場所を行き過ぎてしまったような気がして、夏子は来た道を戻り始めた。すると、コスモスの花壇の向こうに車の先端の辺りが見えた。夏子は花壇の花に隠れるように身をかがめて車に近付いき、車の右角辺りで急に立ち上がった。
フロントガラスの右の方に急に現れた夏子に、運転手は目を見開いて固まった。その向こうには宮本の笑顔があった。外には漏れてこなかったが、声を上げて笑っているようだ。
ドアが少し空いたので、夏子は開いて車に乗り込んだ。
「こんにちは。今日は車の鼻先しか見えていなかったから、この路地を横切って、次の路地を探してしまいました。時間が押してしまいましたね。」
宮本は少し奥へ腰をずらし、夏子の座る場所を広げながら言った。
「やあ。元気そうだね。」
「おかげ様で。宮本さんも。」 
宮本の笑顔は変わらなかった。でも一瞬だけ運転手の妙な視線をバックミラー越しに感じたような気がした。気のせいだろうか。

車は神田方向へ走り出した。
「宮本さん、実は今朝、前にお話ししていた画家の友人の携帯と自分のとを取り違えて出勤してしまって。」
「そうだったの?ではあの歌はその人が?」
「はい。送ったのは友人ですが、選んだのは私です。あなたたち何時代の人って言われちゃいましたよ。学生時代は古典なんて無ければいいのにって思っていたくらい苦手だったのに。宮本さんとやり取りしてると、古典の和歌って微妙な気持ちもしっかり伝えられる絵文字みたいに思えてきました。これで和歌を詠めるようになったら素敵ですけどね。」
「うん、そうかもね。ただ、人に見られたと思うと急にむず痒くなるな。」
「ごめんなさい。私も色々照れていると言うか苦笑いしちゃうというか。友人が撮った写真を見ていたら、私も色々むず痒くなってきました。」
「どんな写真?」
「あの例のです。体に描く絵の。大部分は私が起きている時にデジカメで撮っていましたが、絵を描かれているときは私大抵眠ってしまいます。この友人の携帯に数枚だけ、私が眠っている時の写真がありました。多分、描き終わった直後に撮ったのだと思います。」
「そうなの。」
「はい。」
「見せて。」
「どうぞ。絵が小さくて見づらいかもですけど。」
「どうなってるの?」
「多分、横向きで眠っているところを上から撮ったのだと思います。おそらく肩から腰くらいまででしょう。」
「そうか。腰の丸みで蜘蛛の足の曲がり方が立体的になってるのか。」
「はい。私が床に座っている写真も別な場所にあるのですが、蜘蛛が足を丸めて警戒しているように見えました。皮膚が引っ張られたり、弛んだりすると絵の様子が全く変るんですよ。それがとても面白いですよ。」
「へーそうなの。それにしてもこれは相当際どいね。次は花?これは欲しいな。」
「はは。やめてくださいよ。角度的に見にくいですが、牡丹なんです。」
「歪な壺だね」
「これは歪に見えますが、見る場所を変えると、綺麗な大きな唐壺なんです。本当は自分の携帯に今日お見せする写真を今朝用意していたのに。友人の撮ったただただ怪しい写真だけお見せする事になってしまいましたね。」
夏子はこんなはずじゃ無かったのになと思った。海中の絵も観覧車の絵も見て欲しかったのになと思った。
「絵もいいけど、逆にいいよ。これちょうだい。」
宮本はこんな貧相な体の写真、本当に必要なのか?宮本のそちらのお世話をする方はとてもグラマラスだったような、と夏子は不思議に思った。
「これは私には人生の中で消したい写真第一位なんですよ。」
「俺はいいと思う。」
夏子は宮本の笑顔の中に冷たく重いものを感じた。いつもと何かが違う。
「ほらほら、六義園着きましたよ。」
夏子は宮本の気を逸らした。
「いいよ、くれよ。誰にも見せないから。これだけでいいから。」
宮本は意外と本気なようだ。
「どうするんですか?」
「落ち込んだ時にでも見る。」
宮本は笑顔だが目が笑っていなかった。何かあったのだろう。何があったのと言ってもいつも宮本は話したりしなかった。どんな言葉を選べば話す気になるのか、どうしたら励ませるのかと考えた。
「宮本さん、落ち込む事あります?」
「あるよ。まあいいじゃない。いつ動けなるか分からないんだから。歩いて来れなくなった時に毎日これを見て思い出して元気出すよ。」
「もっといいがあるはずでしょう。私のじゃ残念だから嫌ですよ。」
「いいじゃん。ここで喧嘩したこととか、手を握ったりした事とか。手を繋いで歩いて、こんなに焦った女今までいなかったよ。俺を池に落とそうとした奴なんて今までにいなかったよ。いつも面白かったよ。」
「宮本さん、どうしました?どこか悪い?」
「少し。今度入院するんだ。」
「そうですか。」
夏子は、宮本の「少し」を思った。「少し」じゃない、意外と深刻なのだと感じた。そしてさようならが近いことも思った。
「お見舞いにはいけないから、じゃ、際どい写真、どうぞ。元気が出るかは分からないけど、毎日見てたら治るかも!頑張って!」
到底癒すことは出来ないと分かっていたが、夏子に出来る最大励ましだった。
「ははは。うん。ありがとう。じゃ、行こうか。」
宮本はケラケラと笑いながら車を降りると、夏子へ手を伸ばした。
「うん。」
夏子は宮本の手を握った。
秋の閉園間近の六義園には、綺麗な夕焼け空が水面に写り、庭園の木々も空も足元も美しい世界があった。この日はあまり言葉が要らなかった。喧嘩も要らなかった。渡月橋も背山も灯籠も、花の咲いていないしだれ桜も水の音もエピソードを思い出せた。その所々を通る度に顔を見合わせて微笑んだ。繋いだ手も暖かかった。

この日が宮本と会った最後の日となった。


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