見出し画像

非合理な特殊解 4

律は宮本の車を見送ると、すぐに美容室に駆け込み髪をセットし、その待ち時間で青いドレスに着替えた。何とかギリギリ出勤時間に間に合った。

通常は客と会う前に美容室へ行くものだが、律の客は、とにかく趣味が変わっていた。店の外で合う時は、昼間の会社で着ている地味な黒いスラックスに紺色のカーディガン姿をご希望だった。

お店では、田舎では会ったことのないような美しい人に沢山出会えた。普段は歌手や音楽関係、ミュージカル俳優やモデル、アート系の仕事を本業としている女の子も沢山いて、二物以上与えられている人がこんなに沢山いるのだなと驚いたものだった。特に胸のパーツモデルの人のは、大き過ぎず、とても良い形で、本当に感動するくらい良い胸をしていた。その人に間違ってもたれかかってみたいと思った事が、律には何度あったことか。

この日のお店は開店から程なくほぼお客で満席になった。

それにしても、黒服の方々の、人の相性を見極める能力というのは素晴らしい。美人でもない地味な律でも大丈夫な客がたまにいて、それをちゃんと察知できる特殊能力を持っている。

この日最初に律が話したお客さんは、とある地方大学のトポロジーの先生だった。同窓のお友達の実業家の付き合い?で来店したらしい。

もし数学科の大学2年生のある特定の女子学生へ、先生が授業の中で愛を伝えるにはどうしたらよいか。これについて、律はその先生とに2時間も妄想し、検証し、語り合った。
実際に授業で書きそうな黒板の内容をその先生がノートに書き、愛が伝わるか伝わらないか、律ががジャッジして行った。
愛が伝わったらその女子学生はどんなサインを送ってくるのかも2人で妄想した。

律は、日頃から、巷にある掲示板の紙の貼り順の理由や、出勤途中で強く印象に残ったものが示す意味などを、何の訳もあるはずもないのに、無意識的に見つけ出そうとしてしまう癖があった。そのため、この先生との2時間の研究は、おそらく全く日常に応用できそうにもないものに違い無かったが、それでも、先生はとても満足気に帰って行った。

次に接客したのはとある省庁の外郭団体の職員だった。律が席についた時には相当に酔っていたが、それでも普段の真面目さが十分に滲み出ている人だった。
ただ、この日は、こっそり律にだけ話してしまいたい秘密があったようで、
「絶対秘密ね!」
と10回程言った後に、律に囁くような声で話してくれた。

「15年以上前になるけど、駅のベンチの隣に座っていたすごくタイプの女性に声をかけたかったけどかけられなくて、時間が無かったし無言でメアドだけ書いた紙を渡したんだ。その時、僕は結婚もしていたし、子供もいたけど、渡さないとどうしても後悔しそうな気がして。そうしたら数日後メールが来たの。」
「すごいですね!普通メールしないですよね。紙の渡し方に相当グッと来たんでしょうね。見たいな。1回やってみてもらえません?」
律はその光景をどうしても見てみたくなった。
「え、忘れたよ。」
「いや、忘れてないはず。はいこれ。」
照れているその男に半ば強引に名刺を持たせて、15年くらい前の駅でのその状況を2人で再現し始めた。

言葉とは裏腹に、この男はやはり真面目に熱演した。
こういう場面では、言葉よりも、アイコンタクトの方が多くを、しかも正確に語れるという事がよく分かった。

「どんなメールが来たのですか?」
「品川駅◯月✖️日△時●分▲番線◆車両辺り、とだけあった。」
「そこへ行ってみたのですか?」
「うん。」
「どこへ行ったのですか?」
「列車のトイレ。」
「そうじゃなくて。」
「だから、トイレ。」
「・・・本当?」
「静岡までの行きと帰りと。」
「話したりするんですか?」
「話はしないよ。相手が誰かも分からないし、向こうも知ろうとしてこない。」
「今でも?」
「うん。年に2〜3回ね。ずっと続いてる。君は軽蔑する?」
今更何かに心配になってきたようだった。不安そうに律の顔を覗き込んだ。
「しませんよ。あなたとその女の人は、きっととても幸運なのかも。」
そう律が答えると、その客はホッとしたように微笑んだ。
秘密を打ち明けるというのはよほど気持ちが良いことのようだ。とても晴れ晴れとしていた。そして何より、この人を保たせている大事な要因なのだろうとも思った。このお客も良い顔をして帰って行った。

深夜0時過ぎ、退勤後は大抵、変な人がいないようなら歩きで帰った。「変な人」というのは、意地悪な先輩ホステスが送ってくる風俗のスカウトの男だ。その男を見かけた時はすぐにタクシーに乗ることにしていた。絡まれると巻くのが面倒だから。

携帯電話を見ると、宮本からのメールにはこうあった。
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

律はこう返信した。
帰り道  月が綺麗だ 新富町 変わらず月は とても綺麗だ  
どうか長生きしてください。

律は、古典から歌を探そうとしたが、やはり等身大の現代語の短歌を返信した。返信してみてから歌は歌で返してと言われていた事を思い出した。コメントで付け加えることなんかしないで、歌だけに込めて表してということでもあったのだろう。そうだとすると、どんな歌にすればよかったのか。頭の中に言葉の帯が並び始めた。短歌もなかなか難しそうだが、それ以上になかなかな面白さがありそうだとも思った。


歩いて帰るのも、エマと電話で話しながらだと、宝町くらいまではあっという間だ。そこから茅場町まで歩いている途中で、律は夏子になって、メガネをかけた。

茅場町にある、夏子が昼に働いている会社のビルの前を通ると、オフィスの電気はまだ点いていた。森田はまだ頑張っているようだ。

箱崎の自分の部屋に帰ると、大抵部屋には、同じメーカーの同じ型番の黒いスラックスが数本、そして同じメーカーの同じ型番の紺のシャツが5〜6枚、同じ黒い靴下が5足が散乱している。それらを洗濯機に放り込み、スイッチを押して、それから大抵近所のラーメン屋へ向かう。深夜1時半過ぎ辺りだ。

店内を見回すと、テーブル席に酔った客が何人かいた。絡まれたら少し大変そうだから、その人たちから離れた席を目で探す。
奥へ進むとカウンターには楽しく酔った男女4人がいた。その4人の塊と一つ席を開けた隣には将棋雑誌を凝視している体格の良い中年の男性が座っていた。減っていない瓶ビールを目の前に微動だにしない。文字ばかりの雑誌を見ながら、おそらく空中将棋に夢中なこの人の隣のカウンター席はとても安全だと思った。

夏子はこの中年男性と、4人の塊の間の席へ座ることにした。

カウンターに近付くと、
「夏子!お疲れ!鳥越神社楽しかったね!」
と4人が手招きをした。
「こんばんは。楽しかったね!」
夏子はニッコリ笑って隣の空いた席に座った。ラーメン屋のおじさんにいつもの冷やしトマトと蒸し鶏と烏龍茶を注文して、隣に座る近所に住む30歳年上のお友達のおつまみをいくつかつまみながら自分の料理が来るのを待った。

「鳥越神社」というのは、この日の前の週末にあった台東区の鳥越神社の祭のことで、夏子は約1年前に、このラーメン屋で隣りに座っていたこの4人に神輿を担ぐグループへスカウトされたのだった。このグループは人形町周辺に住む人たちで、このグループに入ってからは、町内のどこのご飯屋へ行っても、大抵知り合いに会うことになった。
「お前大丈夫か?」
4人の中の一人のユキさんが律に声をかけた。ユキさんは近所で飲食店をしていて、猫3匹と一緒に暮らしていた。
「うん。」
格好は会社員、髪のセットもしっかり解いて眼鏡もかけているのに、ユキさんにはいつもお見通しのようだった。夏子はこのユキさんのことも大好きだった。
「ダメな時はまたユキさんちの猫にならせてもらう。またお泊まりに行っていい?」
「いいよいつでも。」
「ユキさんありがとう。」
夏子は天井を仰ぎながら、嬉しくて笑みが溢れた。
「なっちゃん、俺ん家もいいよ。」
ユキの隣に座る、酷く酔った三好さんというオジさんが話に割り込んできた。
「あのちょっと三好さん、夏子に触らないで。妊娠させんな!」
夏子の肩と首に回った三好の腕を解きながらユキが言った。
「三好さんの繁殖力すごっ!」
「なっちゃん、俺を舐めんじゃねえ。ははは。」
すると、三好の後ろに座る外山さんというご近所さんが入ってきた。
「三好さん、田舎から出てきてこんな遅くまで仕事しかしていないこのウブな娘に変なこと言うんじゃないよ。」
「そうだそうだー!」
夏子はほんの少しだけ苦笑いになった。目が合ったユキは、ニヤリと笑った。

そうこうしている間に、三好は程なく眠り込んだ。いい夢を見ているようで、寝ている顔も微笑んでいた。

「夏子、三社祭行くの?」
そう言うと、ユキは外山のコップへビールを注いでから、自身のコップへも注いだ。
「うん行きたい。みんな行くでしょう?」
「うん。暑いだろうな。」
「去年行けなかったから参加するの初めてなの。当たり前だけど祭りによって雰囲気が全然違うじゃない?楽しみだわ!」
「あんなに最初怖がって緊張してたのに、夏子、神輿ハマってきたね!」
「うん。みんなのお陰様。ここで拾ってもらったから。」
「そうだね。もう1年経ったね。」
「うん。まだこの辺りに1、2年しか住んでないけど、ここを私のホームだと思っていいのかな。」
夏子はユキを見た。ユキは夏子の肩を抱き寄せて言った。
「ふふふ。いいだろうよ。なかなか今時いないよ。ナンパされて町会の神輿担ぐ女の子。」
「ありがとう。」
夏子は久しぶりに、祖父の側で眠っている時に感じたようなほのぼのとした暖かさを感じた。夏子に2つ目のホームが出来た。出来たというより、見つけた、気づいた、というべきだろうか。どちらにしても、夏子はホームが増えたことで、生きることへの勇気のようなものが急に湧いてきているのを感じたのだった。

洗濯が終わったであろう3時過ぎ、夏子は三好を背負って彼の家まで送ると、部屋へ戻って仮眠を取ることにした。

今日、もう一つの自分のホームが出来たことを今度宮本に話そう。そう思いながら、夏子は目を閉じた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?