ギシギシ、、、ゔゔっ、、、、ギシギシギシギシ、、ギシギシ、、、。

たまに呻き声の混じった酷い歯軋りで、良子はどうしても眠れなかった。

まだ辺りは暗い。

隣で眠っているおじいちゃんは、汗をかきながらずっと夢にうなされていた。

私はトイレへ行きたくなったが、暗いのとおじいちゃんの呻き声で怖すぎて、布団から出られなくなった。

おじいちゃんがいつも寝るこの部屋には仏壇があり、ひい爺ちゃんやひい婆ちゃんの大きな写真がいつもこちらを見ている。たまに屋根裏からカサカサ、トトトト、、、という音がする。ネズミがが走っているのだろうか。

しばらく経ってもおじいちゃんはまだ夢にうなされていた。私もとうとう我慢の限界になり、おじいちゃんを起こすことにした。

「おじいちゃん。」私は強く揺すった。歯軋りは止み、返事はしたが、まだ眠っている。

「おじいちゃん、トイレに行きたい。」今度は大声で叫んだ。すると、おじいちゃんは何も言わずにすっと立ち上がり、私の手を引いて連れて行ってくれた。

トイレから出ると、おじいちゃんは、暗い中、水をごくごく飲んでいた。コップの水を飲み干すと、そのコップにもう一度水を注ぎ、またごくごくと飲み干した。飲み干したグラスを流し台に置くと、窓の外の遠くの方をじっと見ていた。

「おじいちゃん、怖い夢を見たの?」

「あ、ああ。まんじゅうのな。」いつもひどく無口なおじちゃんがそう答えた。

「そうなんだ。」そう答えながら、8歳の良子は怖いまんじゅうの顔を無理やり想像した。そんな様子を見て、

「まんじゅうじゃない。満洲。」と言うと、また布団に向かって手を引いた。

「マンシュウ?」知らない言葉だった。

「ああ。戦争だ。」

「戦争?」

「敵だけが敵ではない、、、。まあいい、寝ろ寝ろ。」

おじいちゃんはまた眠ってしまった。私はこの知らない言葉でまた眠れなくなった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

20年後

良子は今日の訪問先の金井葬儀社へ向かっていた。社長夫婦と従業員1人の小さな葬儀社だ。

この頃、良子は都内のWeb広告企業の法人営業をしていた。

今日のこの会社との契約で、今月の達成目標の売り上げを超える。これで、気持ち良くおじいちゃんのところへ行ける、そんなことを考えながら駅からの道を歩いていた。

金井葬儀社へ着くと、社長が出迎えてくれた。

「この度は弊社のサービスをお選びいただき、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」

私は入り口近くで深々と頭を下げて言った。

「宜しくね。それから、コーヒー、どうぞ。」

今日は社長がコーヒーを入れくれた。これまではいつも社長の奥さんだった。

「奥様は今日は、、?」そう私が訪ねると、

「私いるよ。隣の部屋。もうちょっとで終わるから。」という奥さんの声が飛んできた。

「佐々木さん、見てみるかい?」

社長はそう言うと、今いる事務所の隣の部屋の入り口で手招きをした。

社長が隣の部屋へのドアを少し開けた。冷気がかすかに流れ込んできた。

「今、メイクをしているの。」

先ほどより大きな声が聞こえた。

隣の部屋には、火葬までのご遺体を安置しておける保冷庫が5庫並んでいた。その一つの前の寝台に棺が乗っていた。

「もう直ぐ終わる。ちょっと待ってね。」

一瞬こちらを見て微笑むと、また奥さんは黙々と棺の中の手を動かしていた。そして程なく、

「このおばあちゃんも、こんなに綺麗になった。」と奥さんは晴れやかな顔をした。

私は、その笑顔から後光が放たれているような、そんな不思議な気持ちになった。

◆◆◆◆

契約書類の手続きも終わり、隣の事務所で3人でコーヒーを飲んでいた。

「実は今日の明け方、私の祖父が他界しまして。」私はなぜか、ごくごく自然に言っていた。

「えっ、なんでここに来たの?早く行かなきゃでしょう!」奥さんが驚いて言った。

「いいんです。この前の日曜日、祖父に呼ばれて、というか、呼ばれた気がして会ってきたばかりで。ここ数年、ずっと寝たきりで。電話がかかってきたとかそんなんじゃないんですが、虫の知らせというか、なぜか、急に来てと言われた気がしたんです。」

「じゃ、おじいさんとお別れが出来ていたんだね。」社長が言った。

「それが、お別れという感じでもなくて。数日前、病院で祖父の手を握った時、急に目を見開いて上半身だけ起き上がったんです。その時、一緒に行っていいか?、と祖父から聞かれた気がしたのです。私は、歩けないから一緒に来るのは難しいよ、と言ったのですが、その時、祖母がお茶を用意して病室に入って来まして。目を開いて上半身が起き上がっている祖父を見て、祖母は驚いてお盆ごと全て投げ出してしまって。1年以上、会話もほとんど通じない状態だったので、無理もないのですが。」

「不思議な事だよね。私たちもこういう仕事だから、よく不思議な話も沢山聞くしね、よく出会すこともある。何か分かる気がする。」社長が言った。

「はい。気がついたときには、眠ったようになっている祖父に戻っていて。でもその日から、いつでもずっと祖父がすぐ近くにいるような、そんな気がしているのです。今も。今日、私の母親から祖父の訃報を聞いた時も、すぐに帰省しなければなんて正直思えませんでした。だって、もうすでに一緒にいる気がしていましたから。」私は、少しどんよりしている窓の外の空を横目に見ながら言った。

「何となく、分かる気がする。亡くなった方が自分に生きづく、というような感覚。」奥さんが言った。

「生きづく?」初めて聞いた言葉だった。

「うん。表現が難しいけどね、、、親しい人が亡くなった時にしばらくの間感じるような気がするのだけど、ふとした時に自分の体の中に、その人が居るような、そんな感覚になるのよね。」奥さんは、言葉を絞り出すように言った。

「なるほど。金井さん、ありがとうございます。祖父は金井さんに会いたかったのかもしれません。そして、私に今のこの話をして欲しかった、そんな気がして来ました。金井さん、ありがとうございます。なぜか分からないけど、すごく嬉しいです。」

「そうそう、そんな感覚。病院でおじいさんは佐々木さんに生きづいた。きっとそうよ。」

◆◆◆◆

会社への帰り道を歩きながら、今にも雨が降り出しそうなどんよりとした空に向かって呟いた。

「一緒に来てもいいけど、いなくなるときは何も言わなくていいよ。本当に寂しくなるから。」

おじいちゃんに届くような、そんな気がした。

◆◆◆◆

その日、実家へ着いた時には夜21時を過ぎていた。

遠方に住んでいる親戚もほぼ集まりつつあり、私の遅すぎる帰宅に母は不機嫌になっていた。それでも私はあえてそれに気付かないふりをした。理由を話しても、到底分かってもらえない。話すだけ無意味だからだ。

葬儀の日でも寂しい気持ちがあまり無かった。まだおじいちゃんはそばに居る気がしていた。

おじいちゃんのお友達の大宮さんが見えた。昔、おじいちゃんと大宮さんのお家へは沢山遊びに行った。ある日は、大宮さんの家のお庭の石の近くにモグラを見つけた。庭石の近くを沢山掘ったら石が傾いてしまって、凄く怒られた。怒られた時は凄く怖かったけど、今は少し小さなおじいさんになっていた。面影が懐かしい。私は大宮さんと話さなければならないような気持ちになった。


私が側へ行くと、大宮さんはすぐに気づいてくれた。笑うと目が無くなってしまう、懐かしい笑顔。これは変わってなかった。

「茂雄(祖父)さんには、何も敵わなかったよ。本当に優秀だった。」大宮さんが言った。

「いいえ。そんな事はありません。20年以上前の事だから、おぼろげな記憶なんですけど、祖父が話していました。確か、祖父は小学校時代、春の田植えの時期と秋の稲刈りの時期は3ヶ月ずつ学校に行けなかったと。やっと行けるようになると、毎回勉強が全然分からなくなっていて、その度に大宮さんがいつも、進んでしまった勉強を教えてくれたって。本当にありがたかったって。祖父は大宮さんに出会えて、本当に幸せでした。」私は深々と頭を下げた。

「懐かしい。そうなんだよ。茂雄さんと一緒に学校で過ごせたのは、1年の半分だけ。いない時期は、茂雄さんが戻ってきた時に教えて見せられるように、俺も勉強を頑張れた。でも、教えてあげたなんて、そんなたいそうな事じゃないんだけどね。」大宮さんは色んなことを思い出しているのか、遠くを見ながら、少し微笑んだり、真顔になったりした。そして続けた。

「茂雄さんはね、戻ってきて1ヶ月もすれば、教室の中で一番勉強ができるようになってた。どんな大変な状況でも屈しない、それが茂雄さん。俺こそ、茂雄さんがいたから頑張れた。戦争の時も、お互い生きて帰ってこようってね。」

「そうでしたか。」

私は自分でも訳が分からないくらいの涙を流していた。自分の体が自分のじゃないような、おじいちゃんに動かされているような感覚になった。

「本当にありがとうございました。」

私はおじいちゃんが大宮さんととても話したがっていたのかなと思った。お手伝いが出来たような気がした。そして、こういうのを友というのかと、私にも死ぬまでにこんな友が出来たらなと思った。

◆◆◆◆

火葬の間、おばあちゃんは、おじいちゃんから昔聞いた戦争について話していた。

「うちのじいさんは、割と長く満州に行っててね。前線へ物資を輸送する部隊にいたんだって。死体はそこら中にあったって。任務の度に空爆される車が増えていって、目の前で一つまた一つと爆破されていく。仲間が燃えているのが見える。それでも進まなくちゃいけない。止まればやられてしまうから。」

私は夢にうなされていたおじいちゃんを思い出した。

「戦況が厳しくなるに連れて、自殺したり、味方にも狂って銃を乱射したりしたって。うちのじいさんの上官も狂ってしまって、怒ると部下に酷い拷問をしたり、最悪撃ち殺したり。よく生きて帰ってきたよね。」

極限状態になると、狂うのか。味方も味方ではなくなるのか。

◆◆◆◆

次の日、親戚が泊まっていた部屋の片付けをしていた。日頃はあまり使わない部屋。久しぶりに入ると、子供の頃よくしていた、かくれんぼを思い出した。座敷の奥にある古い引き戸の棚。私はこの中によく隠れていた。

20年ぶりくらいに、その棚を開けてみることにした。

中には、額に入った天皇皇后両陛下の写真や、おじいちゃんが若い頃のの写真のアルバムがあった。軍服の写真も2枚あった。

天皇皇后陛下の写真を取り出すと、その下に四角い青い缶があった。他のものと比べると、これだけやけに新しいように感じた。

缶の中には私や兄弟の写真が沢山入っていた。

バケツに入った3歳くらいの私、山でブランコで遊んでいる5歳くらいの私、蒟蒻の生えたところにちょこんと座る2歳くらいの私。

そういえば、おじいちゃんは蒟蒻を自分で作って食べるのが好きだった。二人で山奥の蒟蒻が沢山生えているところ行って蒟蒻いもを掘ってきてた。そして2日がかりで蒟蒻にする。

こんにゃくを作る日は、夜までずっと焚火をした。

私も蒟蒻芋をすり下ろしたり手伝いたかったけど、子供は皮膚がかぶれるから触るなと言われて、触らせてもらえなかった。だからじっと黙って、おじいちゃんを何時間も焚火のそばで眺めていた。

こんにゃくを作っているある夜、おじちゃんが言った。

「大きなタオル、持ってきて敷け。犬寝せてやれ。」

私は頷くと、焚き火から遠くない私が座っていたところの近くにタオルを敷いた。そして当時飼っていたコロという犬を連れてきた。コロは苦しそうにヨロヨロと歩いた。お腹が大きい。出産が間近だった。

私はコロのお腹をさすりながら、おじいちゃんを眺めていた。


家の方から、かすかにおばあちゃんの声が聞こえたような気がした。

「おじいちゃん、私が男の子だったら嬉しい?」私は唐突に聞いた。

「何で?」おじいちゃんは私に一瞥もせず黙々と手を動かしながら言った。

「この前、学校から帰ってきた時、お母さんがおばあちゃんに、女しか産めてないって言われてたの聞いたんだ。お母さん悲しそうだった。お母さんが喜ぶなら、男の子になろうかなって。おじいちゃんは、私が男の子になったら嬉しいかなって思ったの。」私は凄くいいアイデアだと思っていた。

「何言ってんだ。」

おじいちゃんはそう言うと、また一瞥もくれず、手洗い場へ行った。

程なくして戻ってくると、おじいちゃんは手招きをして膝に座るよう合図した。

私が近寄ると、おじいちゃんは私を抱きかかえて膝へ座らせてくれた。

「いや、良子は女でよかったよ。戦争へ行かなくて済む。」

おじいちゃんは、苦しそうにしている、もうすぐお母さんになるコロを見た。

「そりゃ、大変なこともある。でも、女でよかったと思ってる。気にするな。」

そう言うと、石鹸の香る大きな硬い手で、私の頭を撫でた。

◆◆◆◆

気がつくと、座敷には夕陽が差し始めていた。写真の束をまとめようと取り出してみると、缶の底に手紙が2通見えた。広島県の方からのと静岡県の方からの手紙だった。

まず広島の方からの手紙を開けた。正直、達筆すぎて読めなかった。「有難し」と「感謝」は何となく読めた。

静岡県の添田さんという方の手紙も開けてみた。今度は、漢字とカタカナだけで書かれていた。私は古典がとても苦手だった。古典的文章を見ると拒否反応が出てくる。でもこの時初めて、もっとちゃんと、古典の勉強をしとくべきだったと思った。

再会出来ずに人生を終えることになるということ、そして、あの時の恩は忘れないというような事が書かれていた。どうやら、おじいちゃんは必死で上官をなだめて、身を挺してこの添田さんを庇ったようだった。50年くらい前の恩。会えなくても忘れることのない恩。

きっとこの添田さんを庇った時も、おじいちゃんは死を覚悟していたのだろう。敵ばかりが敵じゃない。極限状態では人は変わってしまうのかもしれない。でも、変わらないものもあるのかもしれない。こういうのも友というのだろうか。憧れがさらに強くなった。

そして、極限状態の中でも友を守れるような、おじいちゃんのような人間に、私はなれるのだろうか。そんな事を考えていた。

◆◆◆◆

それから1週間が経ち、一昨日から通常出社の日々がまは始まった。あの2通の手紙は一緒に持って行くことにした。おばあちゃんに聞いたところ、おじいちゃんが寝たきりになってから届いた手紙だから、返事を書いていなかったらしい。

そこで、私が返事を書くことにした。と言うより、またおじいちゃんに書いてと頼まれているような気がしてならなかった。

生きている間も、誰かのために生きていて、死んでからも誰かに生きづいて、何かができる。個人と個人の間には、思っていたより境が無いような気がした。そして、もはや時空にも境がないような、そんな気もした。


私がおじいちゃんの代筆で書くこのお返事を、誰が読んでくれるのだろう。お手紙をくださった方本人はもう他界されている可能性が高い。それでもその人に届いて欲しい。生きづいた誰かに届いて欲しい。

そんな事を思いながら、書き始めた。


手紙を書き終えたら、おじいちゃんはどこか遠くへ行ってしまう気もした。それでも私はいいと思った。ずっと大好きなこと、そして、言葉では表せない最大限の感謝を込めて、笑顔で送り出したい。そう思っていた。


「ありがとう。

おじいちゃんのようには出来ないかもしれないけど、私なりに頑張ってみるよ。遠く離れても、見守っててね。」

深夜1時、窓の外に見える上弦の月に、私はそう呟いた。


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