小説 雨上がりの博物館 4

静かな無数の足音が重なった、博物館の中のこの無数の人の静かな気配が好きだ。
振り返ると、先程まで見ていた薬師如来像の周りには、それぞれ以外に多くの人集りがあった。足元に彫られた見事な蓮を熱心に見入る人もいれば、薬師如来の手先や、お召し物の美しい畝りを食い入るように見ている人もいる。


こういう時にいつも思うのは、みんなの考えていることが、吹き出しのようになって見せてもらえたらな、という事だ。同じ薬師如来像を観ていても、考えている事、イメージしている事がきっと誰もが違う。とても面白そうだ。


そんな事を思いながら次の部屋へ足を踏み入れると、先ほどよりは明るい空間に様々な身構えや表情をした像が並んでいた。それぞれがとても特徴的だ。


まずは部屋の入り口近くのある童子の像。杖を体の正面に突いて、片手で杖を握り、もう片方の手は杖の上に乗せて、そこに顎を当てて、どこか苦々しく監視しているような、そんな眼差しでこちらを睨みつけている。しかし離れて観ると、見開いた目と可愛い坊主頭が、不謹慎にもほんの少しだけひょうきんさも感じて不思議な気持ちになった。


このお顔には、昔の上司の倉本課長の顔が浮かんできた。


私のデスクの左斜め前がその上司の席だった。名前を呼ばれて顔を上げると、倉本さんはたまに太い油性ペンを握って顎に当てながら、アドバイスをくれた。
「もうちょっと、明るく言ってみたら?無駄に笑うんだよ。電話じゃ表情見えないんだから。」
「なるほど。ありがとうございます。」


私はこの頃、広告関係の営業のお仕事をしていた。
営業電話も難しい。前職のコールセンターの淡々としたトークが抜けきれず、声の表情を作るのを当時は難しく感じていた。


得意なことがこれと言って無い私は、真面目に業務をこなす事くらいしか能が無かったが、そんな私が一度、命令に反いたことがあった。

たまに神様がいて、こんな下手な営業電話でも、ご説明をさせてもらえるお時間をくださるお客様がたまに現れた。


ただし、お客様とお約束が出来ても、社内規定で、必ずしもご案内にお伺いできるわけではなかった。本部長のチェックが入り、OKが出ないとお客様の所へお伺いすることができないことになっていた。


部長にお客様の状況を説明し、チェックをお願いした。
数分後、部長から
「決裁者と確認が取れず、許可できない。」
というメールが入った。


私はこのお客様とは何度もお電話でお話ししていたので、何となくの人となりも分かるような気がしていた。きっとご案内するサービスは気に入ってもらえるだろうと多少自信もあった。それに、とても温かみのある声だった。

許可されなかったことが悔しくなったのは初めてだった。

帰り道、家までとぼとぼ歩きながら、やはりそのことが頭から離れなかった。お約束は明日の午前14時半。このために普段より1時間ほど早くお店へ来てくれると言っていた。

やはり、お約束を反故にしてしまったら、私が後悔してしまうような気がしてきた。何とかしてお伺いできる方法を考え始めた。

次の日、今日は鞄の他に大きな紙袋と共に出勤した。
紙袋の中にはもう一つ鞄が入っていた。
会社へ着くと、オフィスに入る前にトイレへ行き、紙袋から紙を取り出して紙袋に貼り付け、洗面台の下の扉を開けて文面が見えるように置いた。

掃除のおばちゃんへ
すみません!
今日の13時に使います。
お願いです。捨てないでください!
(株)◯◯◯◯ 佐々木良子

そして、13時20分くらいまで何食わぬ顔で通常業務をした。
13時半から上司達は会議になる予定だった。


心の中で、
「早く会議室行って!」
と願った。
しかし、中々行かない。

流石に、13時28分になると、課長どもは会議室へ入って行った。それを見届けると、すぐにトイレへ向かった。13時35分の電車に乗りたかったので、あと7分しかない。不自然に見えない程度に、急いで向かった。

トイレの洗面台の下のドアを開けると、カバンはそのまま置いてあった。
ホッとしながら包みを取り出すと、袋に貼り付けた文面がこうなっていた。

掃除のおばちゃんへ
すみません!
今日の13時に使います。
お願いです。捨てないでください!
(株)◯◯◯◯ 佐々木良子
                                               あいよ!頑張って!


おばちゃん、ありがとう。
紙袋の脇に立てかけてある、掃除担当のチェック表から、三上さんという方の「あいよ!頑張って!」だということが分かった。が、電車の時間まであと5分しかない。猛ダッシュでエレベーターホールへ向かった。

運良く割と早く早くドアが開いた。乗り込もうとすると、勢いよく出てきたおじさんがいた。部長だった。あ、まずい、とは思ったが、努めて表情を変えずにエレベーターへ乗り込み閉じるボタンを押した。
その瞬間、ドアの外から
「あっ!おい佐々木!」
と聞こえた。

とりあえず、帰社するまで忘れとこう、そう考えながら駅まで走った。

電車に乗ってすぐに、課長からの着信が鳴った。
「今出られません」
とメッセージを送っても、間髪入れずに着信がなる。


お客さんの最寄駅に着くと、仕方がないから電話に出た。すると開口一番に
「契約取れなかったら分かってんだろうな?」
と、凄んできた。一応、たくさん怖がろう。
「いいえ、分かりません。どうなってしまいますか。」
「俺もわかんねえ。こんなことした奴いないから。」
「そうでしたか。でしたら、今日、分かりそうですね。」
とても真面目に答えた。
「もうすぐお客さんのお店に着きますので失礼します。」
「お、おいっ、、」
私は上司の声を遮るように電話を切った。

「部長はああ言ってるけど、まあ、頑張ってこいよ。」
とか言ってくれるのかと、ほんの少しだけ期待したけど、そんな事は無かった。
今の私を応援してくれるのは、掃除のおばちゃんの三上さんだけだった。


1時間後、お客様へのご案内が無事終了した。
契約の確認の電話が会社から入り、お客さんのお店を出た。

いつもは至って真面目に仕事をしている私は、自分のお客さんのお店以外、滅多に寄り道などしない。しかし、今日はすぐに退社したくなかった。パフェか何か食べてからじゃないと、全然帰社する気になんてなれなかった。

1時間ほど前の、課長からのちょいパワハラ電話を受けながら、目に留めていたカフェの前で足を止めた。シャインマスカットのパフェが美味しそうだ。決めた。

その時、また課長からの着信があった。
「あっ、すみません。まだお客様先で、失礼します。」
と言って、一言も聞かずに電話を切った。
パフェは本当に最高だった。

カフェを出て、少しだけ小走りに50メートルほど進んでから、忙しそうな雰囲気で課長に電話をしてみた。
「遅くなりました。すみませんでした。」
「おつかれ。おめでとう。」
「ありがとうございます。あ、私どうなりますか?」
「特にない。」
「そうですか。私は課長にすごく言いたいことがあるので、後ほど。」
そう言うと、また何も聞かずに電話を切った。

帰社すると、課長は太い油性ペンを顎に押し当てながら、どんどん近づいてくる私を少し苦々しそうな表情で目で追っていた。
他の島の同僚の何人かからの
「おめでとう。」
にお礼を言いつつ、自分のデスクに着いた。
無言の数分間の後、課長が急に立ち上がって言った。
「言いたいことって何だ?」
私は努めて努めて真面目に言った。
「あの、、、忘れました。」
みんなの前で、小さいですよ!とか言わないから安心して欲しいなと思った。


次の日
トイレに行ってみると、掃除中の札がかかっていた。
中に入ると、嫌そうな顔をしたおばちゃんが、
「もうすぐ掃除終わるので、もうちょっと待って。」
と掃除用具をカゴに詰めながら行った。
おばさんの胸の社員証に「三上佳子」とあった。
今日はラッキーだ。

私は胸にかかった社員証を見せながら、
「昨日は、「あいよ!頑張って!」をありがとうございました。佐々木です。」
「あなたなの。で、どうだったの?」
「おかげさまで上手くいきました。何とか。」
「あーそう。良かったね。で、どこだったの?」
「所沢です。」
と私が言うと、三上さんは妙に驚いて言った。
「え、所沢?そ、そう。で、どんなの着て行ったの?」
「今日とあまり変わりませんけど。」
「あら、地味じゃない?」
三上さんは私を上から下まで舐めるように見ながら言った。私も自分の格好が気になり始めて、
「毎日黒いスラックスにシャツとジャケットですけど。普通こんなもんじゃないですか?」
と言うと、三上さんは、いかにも信じられないと言うような表情で、
「合コンにこんな服で行く?まずスカートでしょう?」
「合コン?おばちゃん、私、会社抜け出して合コン行ってないですよ。」
「え、あの荷物、可愛い服だとか靴とかじゃなかったの?」
「違いますよ。ははは。」
とんだ勘違いだった。
私は昨日の経緯を話し、おばちゃんの、頑張って!、へのお礼をした。
確かに勘違いだったけど、昨日はとても心強かった。

「でもさ、あんたさ、運良く昨日は上手く行ったけどさ、もし契約取れてなかったらどうなってたの?」
「そうですね。こーんな顔して上司の方々のお叱りを聞いていたと思います。」
と言って、私は俯いて悲しそうに顔をして見せた。すると、
「あー、それじゃまだ甘いよ。これぐらいしないと。」
そう言うと、おばちゃんも神妙な顔をした。これは完全に笑っちゃうほど大差の負けだと思った。いや、笑っちゃった。大爆笑。流石だ。
おばちゃん曰く、表情も大事だけど、不規則な呼吸が大事らしい。勉強になる。
私も負けじとトライしてみたけど中々難しかった。
何度かトライした後、やっとおばちゃんから
「まあいいでしょう。」
をいただいた。
これで、これからも何とかなりそうな気がしてきた。


不覚にも、この静かな博物館の中で、思い出し笑いが堪えきれていようだった。近くの老夫婦がじろりとこちらを見てから離れて行った。

この童子の像の解説を読んでみた。大変立派な神様だそうだ。
「めんなさい。課長なんか思い浮かべちゃって。」
心底お詫びをしてから、次の人だかりの中にある像へ進んだ。


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