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絵本日記DAY27「まちねずみのジョニーのおはなし」/都会のジェントルマンと田舎の紳士

みなさまこんにちは。あっという間に四月も半ば、いかがお過ごしですか。私の住む家の目の前は小学校、校庭にぐるっと植えられた桜がいままさに満開で、とても綺麗です。もうすこし経つと、うちの玄関の前は桜の花びらでいっぱいになることでしょう。

さて今日は、おそろしくぼろぼろな、机に置いたままになっていたちいさな絵本を手にとって読んでみたところ、おどろくほどおもしろい物語でしたので、日記にのこしておくことにします。
ピーターラビットでおなじみビアトリクスポターの、「まちねずみジョニーのおはなし」という物語です。

みなさんは、都会と田舎、どちらが好きですか?

私は東北の田舎生まれ、育ちも東北です。東京は遊びに行くところ、お買い物をしに行くところ。子どもの頃はよくディズニーランドには遊びに行っていましたので京葉線のおそろしさだけは知っていました。それで大学もとてもではないけれど東京には行かれない、と考えたのでした。もちろん東京という場所がいかに刺激的であたらしいものに溢れていて、たのしいところかはわかっているつもりです。だけれども、その熱量やスピードにのまれて、埋もれてしまわないかの自信が、私にはなかったのだと思います。はっきり言ってしまえば野心がなかった。それからイルミネーションのなかで、一人で生きていく勇気も。

話しがすこし大袈裟になってしまいましたが、「まちねずみのジョニーのおはなし」は、言ってしまえばそういう物語です。

偶然か必然か、毎週土ようび、街と田舎のやさいばたけを行き来する運送屋さんのかごでうっかりお昼寝をしてしまったチミー・ウィリー。彼は何時間も馬車に揺られ、とつぜん大都会へたどり着いてしまうのでした。
街の描写も、とてもおもしろい。

けれど、あたりはしずかになるどころではありません。なん百だいものばしゃが、いえのそとをいったりきたりしているようです。
いぬはほえ、おとこのこたちはおもてで口ぶえをふいています。コックさんは大ごえでわらい、こまづかいのセーラはかいだんをかけのぼったり、かけおりたりしていました。そして、カナリヤが1わ、じょうききかんしゃのようにうたっていました。

カナリヤが蒸気機関車のように歌っているなんていささかオーバーでは、と笑ってしまうのですが、都会の喧騒を豊かに羅列しているところが、ポターらしい愉快な表現だなと感じます。こわくてこわくてしにそうだ、とまで書かれています。子どもたちにもわかりやすく伝わるはずです。

そしてコックさんの家で火かき棒でつつかれそうになるところをすばやく交わし、チミーが逃げ込んだ穴の先は、パーティーをしている街ねずみジョニーのテーブルの上。
この新たなねずみの登場シーンもたのしい。
面白いのは、ジョニーは独身貴族なのではないかと思われるところです。
のちに一人で田舎ぐらしがどんなものなのかふらりとやってきますし、チミーも街の屋敷で暮らすほかのねずみのことを「あなたのおともだちは おかわりありませんか」と尋ねているためです。友達と都会ぐらしをたのしむ、ふらりと一人旅もする。そういうところにジョニーの余裕や自由さをにおわせている。これもうまいキャラクターだなぁと唸らずにはいられません。

さて、全体を通して、この物語のポイントだと言いたいことはふたつです。

一つめは、デティールのこまやかさ。それはつまり、ごまかしが利かない、矛盾がゆるされないということを意味しています。
どういうことかと言いますと、まずもうはじまりからそうなのです。
畑のかごにもぐりこんでお豆などたべているうちに眠ってしまう、なんていかにも起こりうることだし、名前もすごくイギリスにいそうな名前、チミー・ウィリー。けっしてねずみのチューちゃん、などという名はポターは使いません。
そこで子どもも、そして大人も、ひっかかりがなくすっと物語のなかに安心して入っていく。これがとても重要なことなのだと思います。
ここで少しでも、子どもだましなやり方で、物語にひきこもうとすると、「そんなの無理じゃん」「これ嘘のおはなしなの?」と、子どもにばっさり一蹴されることは目に見えています。こういう時の子どもの正しさには、敵いません。

街についてからの、道端の喧騒や家の様子の描写も、ありありとその情景がイメージできます。
パーティーをしている都会のねずみのジョニーですが、「どのごちそうもたっぷりはありませんでしたが、とてもじょうひんでした。」(あぁとてもすてきな訳!)とあります。なぜかというと、彼らのお給仕の若いねずみが、猫に追いかけられながら命がけで台所から失敬してきたものだからです。
ちゃんと、ごまかしなく、こと細かに暮らしの様子を描いている。ぽん、と突然ごちそうが現れるはずなどないのですから。
田舎の暮らしも都会の暮らしも、矛盾なく、それぞれの素晴らしいところやリスクも、フラットに描かれています。

物語が進んでいくと、先にも触れましたが、チミーが街でのことを忘れかけたころ、きちんとした身なりのジョニーが、田舎へたずねてきます。都会の暮らしにはなじめずに、畑へ戻る空っぽのかごに乗ってもどってきたチミー。街ではたいへんに親切にしてもらいましたから、ここぞとばかりに田舎の暮らしを満喫してもらおう、「わたしは、きっと、あなたが、まちへはもうかえりたくなくなるとおもいますよ」とまで言っています。

ジョニーはお屋敷でゼリーをすすめてくれましたが、チミーは”やくそうのプディング”でもてなします。薬草のプディング、たべてみたいなぁ。ここの二人、じゃない二匹の会話もコントラストがくっきりと表れていておもしろいので、ぜひ読んでいただきたい。

馬車やうるさいカナリヤにまいってしまった田舎のチミーと、芝刈り機や牛の鳴き声におどろく街のジョニー。そしてジョニーは、ここは静かすぎると、チミーとおなじやり方で、今度は野菜をつめたかごに乗って、街へと帰っていくのでした。
チミーが片手に花をもって見送るところがなんとも、胸がきゅう、となる挿絵です。

そして最後の、作者からのことば。

あるひとは あるばしょがすきで、また べつなひとは べつなばしょがすきです。わたしは どうかといいますと、チミーとおなじように いなかにすむほうがすきです。

これが、この物語の主題、ずーっとうしろのほうで、ちいさいボリュウムで流れつづけている旋律です。そして大事なのは、これの答えを子どもにすぐに問いたださないことです。答えが出ることと、感じることは、まったく別のことだからです。ポターがしたいのは、(訳者の石井桃子氏もおなじと思うのですが)、この物語をとおして、田舎と都会、どちらが好きかを決めてほしいのではなく、ユーモアを通して感じてほしい、ただそのことだけでなないかと、私は思います。
だって、どちらもいいもの。田舎に住むものはどうしたって都会に憧れるし、都会に住むものは田舎で羽根を伸ばしたくなる。大切なのは、大人になったとき、じぶんはどちらが好きなのか、”知っていること”、そのことのみだと思うのです。

そして、述べたいポイントふたつめ。
それはこの物語に出てくるキャラクター誰もが、紳士である、ということです。
チミーとジョニーのお互いを慮りつつも、それぞれ自分の暮らしの豊かさを伝えようとする会話。みすぼらしいチミーの姿に目をとめつつも、それはそれ、と尊重することのできるジョニーの友人たち。素晴らしいではありませんか。ポターの作品で一番滑稽に感じるのは人間です。そこも、私たちは美しく忠実な挿絵によって動物側になって物語を楽しんでいるからなのですが。

先ほど流れている主題を旋律、と述べましたが、たとえるなら、まちがいなくクラシックだろうと思います。ショパンよりはモーツァルトのような、柔らかくやさしい調べ。
この絵本は、3歳くらいの子どもには、少し長いように感じるかもしれません。でも、飽きはしないのではないかしら、と私はふんでいます。
物語がテンポよく展開されていきますし、くりかえしますが描写がこまかく丁寧なのでわかりやすい、こっちの暮らしはどうなのかしら、あら素敵!とその詩的な表現に大人もうっとりできるからです。

もしこのくらいの年齢のお子さんがいる方がこの記事をお読みくださっていたら、実際に読んできかせたお母さんの感想を教えていただきたいくらいです。
私にはまだ子どもはおりませんが、きっと、我が子を膝にのせてこの物語を読んだら、あたたかく優美な時間になるにちがいないと確信しています。
もちろんそれは、子どもが内容を完全に理解していたり、「ぼく将来住むなら田舎がいいな、だって空気がきれいだもん」などと感想を述べたりすることが大事なのではないことはお分かりいただけるだろうと思います。
お母さんの膝の上で、このクラシカルな美しい物語を感じることが、すべてです。
それが、絵本をとおして私たち大人ができる、種まきです。

長くなりましたが、美術品をみるような心持ちで、大人にもこの物語をおすすめしたいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
花盛りの春、花粉症に負けず(この記事を書きながら私はものすごい量のティッシュを消費しています)、たのしみましょうね。それでは、また。


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