見出し画像

存在の解釈②(終)

 結果我々は空の思想を理想に生きていくことが最も高尚なようだ。認識する、という我々の持っている脳の動きでさえ実態がないものであるということである。目の前に広がる現実は我々の認知と解釈によって出来上がったものであるが、その認知と解釈でさえ、あってないようなものなのだ。
 では生きていく中でぶつかる苦しみやハードな現実をどう処理すればよいのか。いくら空だと言っても、どうしたって辛いものは辛い。それらもないものであると信じ内面化してしまうと、感情の起伏が皆無な人間になってしまう。感動も感謝も何もない。大切なのは中道であることだと思う。二元論的な構造の中に入ってみたり、それを達観してみたり。俗性と高尚さの行き来を繰り返すことで、苦しむ人の気持ちが分かり、その対処方法も提示できるようになる。これにより、周囲の意見を寛容に受け止める器を持てるだけでなく、自分自身生き方の軸も現れる気がする。
 現場に指示をする本部は実際にそこで働く人間の気持ちがわからないし、現場にいるだけでは物事の対局を見ることはできない。両方を世界を体感することでより適切な行動ができ、利益に繋がる。会社運営の目的が経済的利益であり、そのために現場と本部が連動する。同様に、個人の目的は空を会得することであり、そのために俗と非俗を行き来する。本部と現場、俗と非俗など、結局二元論的な構造に持っていってしまうのが俗っぽいと反省する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?