放課後の国から、ずっと。

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 この屋上と渡り廊下に見覚えはないだろうか?

 「ある」と即答した人はかなりの日本映画・ドラマ通か、さもなくば2009年以前に栃木県足利市で女子高校生だったという人だろう。

 写真に写っているのは足利市の旧足利西高校だ。2009年に廃校が決まったが、新市長の方針で撮影のロケ地として残され、様々な撮影に貸し出されてきた。足利市は「映像という視点を街づくりに生かした」映像のまち構想を推進していて、「映像のまち推進課」のホームページには綺羅とした撮影実績がならぶ。
 ドラマなら「今日から俺は!!」、「荒ぶる季節の乙女どもよ。」。映画なら「のぼる小寺さん」、ちはやふる三部作、「君に届け」、「一週間フレンズ」。邦画好きなら胸躍らずにはいられないラインナップだ。
 高校を舞台にした映画は邦画の華だ。路地裏にひそやかに咲く小さな花ではなく、花屋の正面にどんと飾られたゴージャスな花。コロナ禍で劇場の新作ラインナップはずいぶんとさびしくなってしまったけれど、それでも高校生を主人公にした映画はこれからも撮られつづけ、足利市のホームページでは撮影実績が更新されていく。

 旧足利西高校よりも派手な実績を誇るのが神奈川県の三崎高校だ。
 こちらは惜しくも2016年に解体されてしまったが、閉校からの12年でなんと500本以上の映画・ドラマのロケ地となった。「悪の教典」、「貞子3D」、「リアル鬼ごっこ」……こちらの方はどうやらJホラーの聖地だったらしい。
 ロケの日程を考えれば、12年ものあいだほぼ毎日、三崎高校には美術さんが用意した制服に身を包んだ“高校生”が通いつづけたことになる。チャイムが鳴り、授業が行われ、校庭では野球部の掛け声が響き、屋上ではきっと青春の“主役”たちが物憂げに何かをつぶやいてドラマを演出してきただろう。12年。ずっと。
 そのことを考えると、わたしはとても奇妙な気分になる。

 わたし自身の高校生活を思い返すと、そこには曖昧な思い出しかない。
 自分自身の母校よりも、好きな青春映画のワンシーンの方がより明確に思い浮かぶ――そんな人は映画好きには少なくないと思うのだけれど、どうだろう?
 わたしの高校生活はそれは悲惨なものだった。いじめられていたわけでも高校史に残る壊滅的な劣等生だったというわけでもない。数人だったが友人も居た。それなのにどうしてあれほど息苦しく、惨めな気分で毎日を過ごしていたのだろう?
 わたしが高校の三年で得たものと云えば、ハヤカワの青背と創元推理文庫とサンリオSF文庫を年間300冊ほど読んで残した読書感想ノートと、数篇の小説だけ。それもいまではどこかに散逸してしまったし、“それ以外”のものが何も残らなかったのだとしたら、それはまたなんと惨めな青春だろうか。
 とにかく神経を張りつめていたし、常に自分と他人を比べて劣等感に溺れていた。誰かに自分を全否定された経験はとくにない。それなのにあれほど毎日自己嫌悪に溺れていたのは何だったんだろう? ヒマだったのかしら?

 慌てて書き添えておくが、わたし自身は「高校生活をやり直したい」と思ったことはまったくない。冗談じゃない! 「十八歳の頃を思いだすと臑毛の生えた肉団子が脳裏に浮かぶ」と云ったのは誰だったか。あの気忙しい、汗まみれの日々をわたしは二度と送りたくない。それに惨めではあったが自分の青春をそれほど後悔しているわけでもない。授業中にルーズリーフに書きためた小説はたしかに現在の自分に真っ直ぐに繋がっている。あの頃読んでいたSF小説だって、少女マンガだって、確実に“自分”を作ってきた。たぶん何度青春をやり直しても、わたしには同じ青春しかなかっただろうともいまなら思える。

 それなのにこの微かなうしろめたさは何なのだろう? 
 わたしは三年間、高校という場所に裏の通用口から通い、裏の通用口から出て卒業したような気がしているのだ。
 何か自分が決定的な“経験”を逃したような気がしている。
 何度も云うが何度やり直してもわたしは同じ青春しか送れないだろうと思う。それなのに。
 どうしてわたしの脳裏には(どこの学校だって絶対にカギが掛かっているはずの)屋上で、フェンスにもたれて空を見上げた記憶があるのだろう。
 どうしてわたしの脳裏には親友の漕ぐ自転車の後部座席で、学校の前の坂道(いや、そんなものうちの高校にはなかった)を猛スピードで下りながら歓声を挙げた記憶があるのだろう。
 どうして文化祭の前日に学校に泊まりこんで部室(そもそも部活をしていなかった)で親友(親友多いな)と語らった記憶があるのだろう。
 ここまで概ね男性視点で文章を書き連ねてきてますが、女性の場合はどうなんでしょうね。
 学校帰りのファミレスで彼氏にティファニーのオープンハートをプレゼントされた記憶とか。
 ロッテリアで女友達と語らっていたら、たまたま憧れのサッカー部の先輩が通りかかって「ポテトくれよ」とか云ってすぐ隣に座られた記憶とか。
 寒空の下でぼんやり校内対抗球技試合を見ていたら隣に座った彼氏が上着を掛けてくれてその温かさにどぎまぎした記憶とか無いんでしょうか。
 そして無かったとして、自分の青春に悔いなしとすべての女性が胸を張れるもんなんですかね?

 歳を取って良かったと毎日思う。
 怒る機会がどんどん減っていっている。他人や世の中の不条理に喰ってかかることも減っていっている。性欲に振りまわされることもだいぶ減った。恥を知り自分の限界を知り、他人に優しくなれたと思う。
 過去のどの時代の自分より、いまの自分が最強だと思う。
 19歳も、25歳も、34歳も、39歳も、どの時代の自分も自分なりに愚かで偏狭だったし、痛い目にもあったけれど、それほどの悔いはない。やり直したいとは思わない。
 それなのに高校の3年間だけは、悔いがないと云いきれない。自分が享受すべき3年間をすべて味わったと断言できない。
 恐らくは山ほど味わってきた小説や映画やマンガの青春と比べてきた結果だろうか。でもそもそもわたしたちは自分の青春がとうに終わったあとで、どうして他人の青春の物語に触れたいと思うんだろう。
 わたしは自分ひとりが放課後の国にいるような気がする。
  いつかチャイムが鳴って課外授業に戻る。そのタイミングを誰もいない校庭で、ひとりで待っているような気になる。

 きょうも日本のどこかの廃校でチャイムが鳴っている。
 とうに自分の高校生活を終えた俳優たちが、美術さんの用意した制服に身をつつんで、偽りの高校生活を送っている。そのことを考えるとわたしは本当に落ち着かない気分になる。
 そして最後のカットの声が掛かったずっとあとで、わたしは彼らの記録を見るために劇場に通うだろう。
 何のために?
 わからない。わたしはただ放課後の国から、ずっと彼らを眺めているだけだ。

(了) 

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