小説 三階女子トイレのトシオさん

 ママはわたしが素直で真っ直ぐな女の子に育ったと褒めてくれる。
 自分より成績の良い子はだるい。自分より可愛い顔の子はうざい。自分の親より金を持ってる家の子はもっとうざい。“素直で真っ直ぐ”な感じ方ってそんなもんだと思うんだけどこれってそれほど褒められたもんなんだろうか?
 よくわかんないけどひとつ確かなことがある。素直で真っ直ぐなわたしの感じ方は“普通”ってこと。
 世の中の11歳の女の子を集めて順番にならべていったら、わたしはど真ん中の平均ラインの上に立っている、きっと。
 だからこの歳まで友達がいなかった瞬間はないし、「○○ってうざいよねぇ~!」と叫ぶとまわりのみんなは笑ってくれる。人の輪のなかでは浮かない。コツなんて簡単。黙るべきときは黙る。みんなが誰かに石をぶつけはじめたら一緒に石を投げる。まったくもって普通。だからって苦労がないわけじゃない。ヤバい事情アリアリの状況でいざみんなの輪のなかから抜け出ようとしてもそう都合よくはいかないんだ。
 昼休みの終わりかけ、なにかを我慢しているような顔で相沢瑠璃がわたしの席に向かってきたとき、わたしはてっきりトイレにでも誘われるのかと思った。予想は半分当たって、半分ハズレだった。全部ハズレの方がまだマシだった。
「穂乃花。ジョレイをするから。手ぇ貸して」
「あ。入り口の消毒アルコール切れた? 先生から中身もらってくるよ」
「除菌じゃねぇよ、バカ。除霊だってぇの」
「はぁ?」
 わたしは意味がわからず間の抜けた返事をし、それからゆっくりと自分の顔がこわばっていくのを感じた。わたしの顔に恐怖が広がるのを見て、瑠璃は満足気にうなずいた。
「そう。トシオさんをお祓いする」
「ばっ!」
 ……かじゃないの、と叫びかけたとき、わたしたちの背後で紙くずキャッチボールをしている男子が大きな笑い声を立てた。わたしは声をひそめる。トシオさんのことはクラスの男子には秘密だ。これは女子だけに伝わる怪談なのだ。
「……バカじゃないの。わたしたち、子供だよ。相手は大人の男だよ。勝てるわけないじゃん」
「男ってか、化物でしょ」
 瑠璃は吐き捨てた。手の中に隠していた折りたたんだA4のプリントアウトを、わたしにだけ見えるようにそっと開く。SNSの画面のスクリーンショットだ。
「ツイッターに落ちてた。トシオさんを祓う方法。成功率45%だってよ」
「低っく」
「相手は化物だから簡単にいかないって。だからわたしたちも奥の手を用意したから」
 奥の手?
 瑠璃はもったいぶった様子で振り返る。そこには瑠璃の取り巻きの恵麻と由衣がいて、そのうしろに遠慮がちに柳田花子が立っていた。
 花子。どんな風に頭が沸けば、かわいい自分の娘にそんなキモダサな名前を付けられるのか。
 花子はいつものように身体に合っていないモサッとした服を着て、途方にくれたような様子で立ち尽くしていた。キモダサな名前の呪いなのかなんなのか知らないが、顔立ちは整ってるくせに花子はパッとしない。他の女の子のように可愛らしい服やアクセを身につけようとしない。下手をするとそこにいることにも気づけないくらい存在感が薄くて、クラスの陰キャグループのさらに後ろに隠れているような子だ。親が金持ちで(死ね)いつも小洒落ていて髪の毛サラサラで、キラッキラな瑠璃とは好対照だった。
 ぐいっと瑠璃が肩を組んできた。
「棚田は除霊ができるんだってよ。霊能力者なんだって」
「そんなわけないじゃん。マンガアプリにログインしすぎて脳がお花畑になった?」
「マジだって。2組の後藤が見たんだって。柳田、こいつさ、誰もいない理科実験室で写真を見ながら一人でブツブツ呪文を唱えてたってさ」
「生まれてこの方、おまえの話はわけがわからん。そんな激ウスな根拠で危ない橋渡れるわけないじゃん。わたしがそんなやっすい女に見えんのか。ナメんな。ママのお腹からやりなおしてこい」
 ……というのはわたしが頭の中で考えたセリフ。口には出してない。
 ママお墨付きのわたしの良い子センサーがピピっと働いて、わたしは反射的に曖昧な微笑を浮かべた。
「へぇ、いいじゃん。面白そう」
 わたしの口から出たのはそんなセリフ。瑠璃は満足そうにうなずく。
「だろ。放課後、人が少なくなったら女子トイレの前に集合な。穂乃花には柳田の護衛をやってもらうから。なんか武器用意しとけよ」
「護衛マ? なんでわたしが」
「穂乃花は、クラスの衛生係だろ。じゃあ放課後な」
 衛生係ったってアルコールを入れ替えたり、黙食啓発のポスターを貼ったり、そんな地味な仕事しかやってねぇ。だいたい幽霊相手に有効な武器ってなんだよ!
 ……などと言い返す間もなく、瑠璃は取り巻きを連れてさっさと踵を返して遠ざかっていく。
 ぽつんと取り残された柳田花子は親にはぐれた迷子みたいだ。チラッとわたしの方を見て、黙ってひとつ頭を下げた。何か云いたげだったけれど、わたしはわざとそれを無視して窓の方に顔を向けた。
 マジか。トシオさんを。
 光が丘小学校校舎三階女子トイレに出る女装した男の幽霊を、わたしたち子供だけでなんとかしようってのか。

 ことのはじまりは三重県にある古い木造の小学校校舎だったと云う。
 和式トイレがならぶ二階の女子トイレにトシオさんははじめて現れた。
 トシオさんは女装した男の幽霊だ。ラグビー選手みたいないかつい肩幅をして足にはすね毛が生えている。毛玉だらけのボロボロのセーターと、風呂敷みたいなスカートを履いて、生足を見せつけるようにしてトイレの個室の中に立っていたそうだ。
 伝説によればトシオさんは野太い声で「ねぇ、わたしって女よね」って訊いてくるのだという。女だ、と答えると口紅の跳ねた口でにっこり笑ってハグをしてきて絞め殺される。男だ、と答えるとトイレの床に押し倒されて悪戯をされる。
 パニックはたちまち学校中に広がった。三年生の女の子のうち何人かが過呼吸で倒れ、救急車が駆けつける騒ぎになった。当然、地元の新聞にも小さい記事が載った。
 だけどその記事のどこにもトシオさんのことは書かれていなかった。たぶん訪ねてきた新聞記者は男だったんじゃないかと思う。三重県の女の子たちは反射的にこう思ったのだ。このことは男に話してはいけない。大人の男も、ましてや同い年の男も、信頼できない。女子トイレといういちばん無防備で安心できる場所に異物が侵入してくる強烈な恐怖を、きっと連中は理解できないって。
 その日からトシオさんのことは全国の小学生女子だけが抱える秘密になった。
 トシオさんは次に滋賀県に現れ、その次は大阪府堺市に現れた。まったく神出鬼没で出現パターンは予測できなかった。ありとあらゆる通信手段で、全国の小学生女子たちは連絡を取り合い、トシオさんの出現情報を共有し、その異物に対する曖昧な対処方法――除霊の方法を模索していった。
 そのトシオさんが三日前、ついにうちの学校に現れたのだ。それもよりにもよってわたしたち高学年が使う三階のトイレに。
 最初の目撃情報が出てすぐ、わたしたちは自主的に三階の女子トイレを使用禁止にした。用を足すたびに階段を降りて下級生たちのトイレを間借りするのは屈辱だった。上級生としてのシメシがつかない。だからなんとかトシオさんを追い払いたいという瑠璃の気持ちはわかる。
 だけどいままでトシオさんの除霊が成功した話なんてうわさにだって聞いたことがない。そんな美味い話があったらトシオさんはこんな風に全国的な有名人になっていなかったに決まってる。
 トシオさんへの恐怖はわたしたちの日々を暗くした。ただでさえつい最近まで強制的にマスクをつけさせられて学校行事は次々と中止になり、息苦しい日々にわたしたちはいろいろと限界に近づいていた。おなじ5年生の別のクラスでは自殺しちゃった子もいる。べつにトシオさんのせいだけでもないけれど、なにかがほころびるように学級崩壊が相次いだ。わたしたちのクラスも二ヶ月前まで手のつけられない荒れっぷりだった。若い女の担任教師(名前も忘れてしまった)はこころの病気になって退職していった。
 代わりにやってきたのは仁ノ前という代任教師で、これが定年をとうに迎えたお婆ちゃんだった。腰が曲がりかけた婆さんに暴風みたいなわたしたちが抑えきれる訳がない……と思っていたらこれがなかなかのツワモノで、仁ノ前先生はことばを荒げることもなく、むろん体罰なんてひとつも使わず、なんとか教室を沈静化することに成功した。深い皺に囲まれたその顔には得体の知れない迫力と威厳があって、わたしたちは先生には逆らえなかった。だからと云って休み時間になるたびにナヨナヨした生徒に取り囲まれて人気者になるなんてこともない。端的に云って仁ノ前先生はこの学校の腫れ物だった。
 その日の日直はわたしだった。放課後、学級日誌を手にして職員室を訪ねると、たまたま部屋にいたのは仁ノ前先生ひとりだった。机に座って、何かの書類を読んでいる。綺麗に白一色に染まった髪が邪魔して、表情は見えない。
「せんせー、日誌を持ってきました」
「ご苦労様」
 仁ノ前先生は嗄れた声でそう云う。こちらに顔も向けない。
 それ以上、話すことはないはずだった。
 わたしは血迷ったんだと思う。相手が男ではないという安心感と……この変わり者の教師がトシオさんについてどう考えるか訊いてみたくなったのだ。帰りかけていたわたしはその場でくるっと半回転して仁ノ前先生に向き直った。
「先生は幽霊って信じたことありますか?」
 わたしは云った。
「昔はね。無知な子供の頃には」
 少し考えなきゃいけなかった。それがナメた返事だと云うことに気づくのに時間がかかった。
「それ、いま子供のわたしをバカにしてます?」
 皺だらけの顔がはじめてこちらを向いた。微笑している。
「子供って本当に厄介」
 仁ノ前先生は薄い唇をひらいて低い声で笑う。
「とことん無神経なくせに、感じることだけは一人前ときた」
 仁ノ前先生はこんな感じの話し方をする人だ。はっきり云ってわたしは苦手だった。
「先生の知り合いに霊媒師っていませんか?」
「霊媒師?」
「トシオさんが出るんです……三階の、女子トイレに」
 もうその時には自分がとんだおバカで口が滑りすぎたことは自覚していた。でも後戻りはできない。わたしはトシオくんの伝説と、その怪物がこの学校に現れたことについて説明することになった。
 わたしの話を聞いているうちに、仁ノ前先生の顔は険しくなっていった。
 片肘をついて顎をのせ、深く思い悩んでいるように瞳を半分閉じている。
「本当に厄介だ」
 怒られるのかと思った。だけど仁ノ前先生は深い深いため息をついただけだった。
「子供なんて嫌いだね。大人が見て欲しくもないような世界の暗い半分にだけ首を突っ込んで」
 先生が何のことを云っているのか、わたしにはわからなかった。先生はわたしに目を向けないままで喋りつづけた。
「わたしが子供の頃にもそんなことがあった。整形に失敗した若い女が夕暮れの街に出るという噂だった。レインコートを着て、長い髪を垂らし、顔が隠れるような大きなマスクをして、わたし綺麗、と訊いてくる。綺麗だと答えるとマスクを外してこれでも綺麗か、と訊ねてくるのさ。マスクのうしろには整形に失敗した無残な顔が隠れている。退治するにはべっこう飴をぶつけるしかなかった。わたしは登下校のときにはいつもポケットに隠したべっこう飴を握りしめていたよ」
「先生は怖かったですか」
「そうだね、とても」
「いまはどう思ってます」
「後悔している」
 先生は真顔だった。
「子供の自分の無邪気さと無神経さに。あの頃のわたしがべっこう飴を投げつけようとしていたのは、未来のわたしだったからね」
 わたしはびっくりしてしばらく声も出なかった。
「先生、整形してたんですか?」
 仁ノ前先生は静かに微笑って首を横に振る。
「そんな話じゃない。怪物を怖がっていた女の子がやがて成長したときに、目の前に立ち塞がったのは整形に失敗した哀れな女なんかではなかったってことさ。怖がる気持ちを持つのは悪いことじゃない。でも自分が誰かに知らずに操られて怖がっているんじゃないか、疑うこころを持った方がいい。敵を見誤らないようにね、手島穂乃花さん」 
 先生はそう云い、学級日誌を手に取り、その表紙を指先でなぞった。

 職員室の前で柳田花子が待っていた。
「どうしたの? トイレに集合じゃなかったの?」
「……瑠璃さんに、穂乃花さんを連れてこいって云われて」
 花子はそう云って口をつぐんだ。とんだ茶番だ。陰キャがオカルトイベントで日の目を浴びるなんてよくあることだけれど、主役のはずの“霊能力者”がパシリに使われているようじゃこの子の未来は暗い。
「あんたそれで言いなりになってるの?」
「断る理由もなかったから」
 花子の返事にわたしは何も云わず、ただ歩き始めた。花子はわたしのあとを付いてくる。
 遠慮したような花子の足音にすら、なぜかわたしはイラついた。
「あんた、霊能力者じゃないんでしょ、ホントは」
 わたしは云った。
「……うん。瑠璃さんは誤解してるだけ」
「誤解だってちゃんと云ったの?」
 花子は黙っている。
「あんたさ、いつまでもそれじゃダメだよ。イヤなことはイヤって云わないと。ナメられっぱなしじゃつまんないじゃない」
 花子は黙っている。
「べつにさ、わたしは本当はトシオさんのことなんてどうでもいいんだ。除霊したからってどうなるの。毎日の満員電車で、コンビニ帰りの暗い道で、どっかで怖い思いすんのは変わんないんだからさ。ゴキブリを一匹踏み潰すみたいなもんだよ。この世界から逃げ出すわけにもいかないじゃん」
「……みんなどうしてトシオさんを怖がるんだろう」
 わたしは足を止めた。振り返り、花子の整った、それでいてどこまでも地味な顔をまじまじと見つめる。
「あんた、頭おかしいんじゃないの。女子トイレに出てくる男なんて怖いに決まってるじゃないの」
「男じゃないかもしれないよ。こころの中では女なのかも」
「そうやってそれを言い訳にしてね、女の子に悪戯をしようとする悪い男が、世の中にはゴロゴロいるんだよ。星の数ほど。ママがそう云ってた。絶対にそんなこと許しちゃいけないって」
「穂乃花さんはそんな人に会ったことがある?」
「あるわけないでしょ」
「そうだよね。そういう身体と違うこころを持った人ってね、人口の0.6パーセントしかいないんだって。滅多に会えないよ。それなのにみんな怖がってる。みんな目にもしてないものを怖がってるんだよ」
「見直したよ。云いたいこと云えるじゃない、あんた」
 わたしは上ずった笑い声をあげる。
「あんたさぁ、この話の根本的に間違ってるところを教えてあげる。トシオさんはただの女装した男じゃない。幽霊だよ。それもなぜか女子トイレを狙って現れる悪質な幽霊だよ。トシオさんは化物だ」
 柄にもなく頭に血が上ってわたしは叫んだ。
「化物だ! 化物だ! 化物なんだよ!」
 肩で息をしているわたしを、花子はただ悲しそうな目で見つめていた。
 わたしたち以外誰もいない廊下に、わたしの荒い息の音だけが響いていた。
「……わかった。もう行こう」
 花子はそう云って、わたしより先に歩きはじめた。
「なんのために行くんだよ」
 わたしはまだ怒りを隠せない声で云った。
「あんた霊能力者じゃないんでしょ。何の役にも立たないじゃん」
「やりたいことがあるんだ」
 花子は云った。

 女子トイレの前までやってくると、もうすっかり除霊の準備は整っていた。
 二人のクラスメイトが、階段と廊下の奥を監視している。終礼のチャイムが響いてずいぶんと経っている。学校の中に残っている生徒はもう多くないだろうが、いつ先生が顔を出すかわからない。
 トイレの中に入ると、壁際に3つ並んだうち真ん中のブースで、瑠璃と取り巻きの二人が中腰になってせっせとトシオさんのための祭壇をつくりあげている。奥に向かって開いた個室のドアの前に、瑠璃たちは扇形にぐるりとトシオさんを呼び出すための呪具を並べていた。それはどれもトシオさんが好ましいと思うはずのものだ。
 まずはディズニープリンセスの二人組。エルサが描かれた筆箱とラプンツェルの人形。マイリトルポニーのぬいぐるみ。瑠璃がママの化粧棚から抜き取ってきた濃い色の口紅。由衣がお姉ちゃんからもらったネイルキット。
 女の子になりたいトシオさんが、欲しくて欲しくてたまらないもの。
「遅かったじゃん。武器はもってきたのかよ」
 瑠璃が不機嫌さを隠そうともしない声でそう云った。わたしは瑠璃を無視してかたわらの花子の肩を叩く。
「柳田花子は自信があるんだってさ。どうしてもやりたいことがあるって」
 わたしの声は意地悪く歪んでいたかもしれない。それでも周りの女の子たちはおーっとざわめいた。
 周りに肩を押されるようにして花子は前に踏み出す。瑠璃は花子と由衣と、由衣は瑠璃と恵麻と手を繋いで横並びになった。
「じゃあ、呼ぶよ。トシオさんが出てきたらあとはあんたが頼りだからね、柳田」
 瑠璃がそう云った。
 トイレの中に一瞬だけ静寂が漂い、それから声を合わせた女の子たちの祈りが響き渡った。
「トシオさん、どうかお出でください」
 何も変化はない。ドアを開けっぱなしにしたブースの中には何も異常がない。
「トシオさん、どうかお出でください」
 蛇口から落ちる水音がやけに大きく響く。
「トシオさん、どうかお出でください」
 唐突に。
 幾つもの目が注視するブースの中に、人影が現れた。
 尖った肩甲骨が最初に目に入った。わたしが見つめているものは痩せた女の背中だった。
 女? 男?
 わからない。
 明るい色に染めた髪がその背中に垂れている。だが髪も、背中も、人影そのものが半分透明で向こう側のトイレの壁が透けて見えていた。
 発狂した猿の叫び声のようなものがいくつも響いた。少なくとも年頃の娘さんにふさわしい悲鳴じゃなかった。誰も彼もが一斉に逃げだそうとしてあちこちで衝突を繰り返していた。わたしは大口を開けて叫んでいる瑠璃の顔を2センチの距離で見て、その直後に衝撃とともに暗闇と星を見た。
 クラスメイトたちは悲鳴を上げながらてんでバラバラに逃げ去って行き。
 残っているのはわたしと花子だけだった。
 花子は叫びも泣きもせず、ただ黙って突っ立ってトイレの床を見つめている。
 瑠璃たちが丁寧に並べた祭壇はぐちゃぐちゃにはじけ飛んでしまっていた。
 わたしは瑠璃と正面衝突した拍子に尻餅をついて、そのままトイレの床に座り込んでいた。
「意外だったな……」
 花子は穏やかな顔をしたまま微笑んだ。
「穂乃花さんは真っ先に逃げ出すもんだと思ってたけれど」
「わたしだってそうしたいよ」
 できれば今すぐにだって。情けない話、わたしは腰を抜かしてしまっていた。
 わたしの返事を花子は聞いていなかった。ただひたすらにトシオさんの背中を見つめている。
 トシオさん……それがトシオさんなのだとすれば、想像した姿とはずいぶんと違った。
 トシオさんは撫で肩でみるからに華奢な四肢を持ち、ヒールから伸びたくるぶしは羨ましくなるくらいにすっと細かった。
 あの体格で小学生の背骨を折ったりできるわけがない。女の子を床に押し倒す力があるようにも思えない。
 胸の下あたりで色のわかれたバイカラーのワンピースを着て、袖は可愛く広がっていて、大きく開いた背中にも足にもムダ毛のひとつも見当たらなかった。そのすべてが薄く透き通っている。まともな状況じゃなかった。
 わたしはトシオさんの肩が小刻みに震えていることに気づいた。
 怒りなのか。
 哀しみなのか。
 その肩を震わせている感情がなんなのか、わたしには想像もつかなかった。幽霊が感情を持っているのだと想像してみるだけで恐ろしかった。
「なんとか……」
 声が掠れた。
「なんとかしてよ、花子。あんた、やりたいことがあったんでしょ」
「ぼくはただ、トシオさんと話したかっただけ」
 花子はそう云うと、ためらわずトイレの床に腰掛けてあぐらをかいた。
「……ねぇ、トシオさん、ぼくはずっとトシオさんに会いたかった。憧れてたと云ってもいいかな」
 いったい何を云いだしたんだこのトンチキは。
 ……などと茶々を入れることができないくらい、花子の声は真剣だった。
「ぼくはトシオさんの話が聞きたい。うわさ好きの女子がするひそひそ話なんかじゃなく、トシオさんの声で。どうしてトシオさんは現れるの? トシオさんは何がしたいの? ぼくらに云いたいことが何かあるの?」
 トシオさんは無言だった。肩を強張らせて小刻みに震えながら、トシオさんは空気そのもののように何の音も立てなかった。
「……そうか、何も云いたいことはないんだね。それとも喋れないのかな。だったらぼくの話をしようかな」
 軽快に喋っていた花子の顔に急に影が差す。
「ぼくはね、こころとからだがねじくれちゃっているんだ。どうしてこんな自分に生まれたのかわからない。望んだわけでもないのにね。でもそうやって生まれてきて、そのことにフタをして生きていくのはイヤだったんだ。どうしても。やりたくもないことをやれと云われるのが苦痛だった。自分がいるべきじゃない人たちの中にずっといるのが耐えられなかった。でもそんなぼくのことをお父さんもお母さんもわかってくれなかった。ぼくを医者に連れていっただけだった。ぼくのことを理解してくれたのはお婆ちゃんだけだったよ。お婆ちゃんが亡くなったとき、ぼくのこころも死んじゃった。でも寂しくて、ときどきお婆ちゃんの写真に話しかけてるんだ。学校の子にはそれを見られて、あいつは霊能力者だなんてうわさを立てられたけれどね」
 あ、と声が出るのをわたしはようやく抑えた。
「ぼくは生まれてからずっと、ここはぼくのいるべき場所じゃないと思ってきたんだ。トシオさんはどうだったのかな。トシオさんにとって女子トイレは自分が居るべき場所だったのかな。死んでしまって幽霊になってからも、トシオさんが帰りたい場所はここだったのかな。それともこの場所を恨んでいるからここにやってくるのかな。ぼくにはわからないけれど……」
 花子は大きく息を吸う。
「ねぇ、わかって欲しいんだけれど、トシオさんがこの場所に居ることを喜ばない人が大勢いるんだ。ぼくにはどうすればいいのかわからない。ひょっとしたらいまじゃなくてずっとずっと先の未来には、ぼくやトシオさんがありのままに居たい場所にいられる世界がやってくるのかも知れない。それとも未来永劫やってこないかもしれない。この世界はやさしさに欠けた場所だから。だから、ねぇ、トシオさん……」
 花子は何か大きすぎる感情を湛えた瞳で、トシオさんの背中を見つめる。
「一緒に行こう、トシオさん。つれて行ってよ。ここじゃない何処かへ。遠くの別の世界に。ぼくやトシオさんが誰にも疎まれないそんな世界に。トシオさん、つれて行ってよ」
 瞬きした一瞬の間に。
 トイレのブースの中からトシオさんの姿は消えていた。まるで最初からそこには何もなかったかのように。
 腰を抜かしていることも忘れてわたしは即座に立ち上がった。ブースの中に入り、トイレのフタを開け、天井を見つめ、床を見つめ、意味も無く壁を触る。トシオさんの姿は完全に消えていた。
 ぞくりと背中が寒くなるような感じがした。ある予感を抱えて、わたしは個室の中で振り返る。
 数秒前までそこに座っていた花子の姿は、もうどこにもなかった。

 警察や校長先生には、同じ話を何回もした。
 わたしや瑠璃たちは“ちょっとした悪ふざけ”をするために放課後に女子トイレに集まった。そのなかに柳田花子もいた。トイレにいた時間は15分ほど。わたしたちは何事もなく校門前で別れ、それっきり柳田花子の姿は見ていない。行方については見当もつかない。
 新聞記者が学校にやってきた。こんどもまたトシオさんの名前は新聞に載らなかった。わたしたちの学校にいる女子は誰一人として口を割らなかった。柳田花子の顔写真が載った看板が街のあちこちに貼られた。
 やがて三学期になり、仁ノ前先生は学校を去った。若い男の教師が担任になり、わたしたちの教室は花が砂漠に飲み込まれるようにまた荒れていった。机がひっくり返るようなケンカなんて日常茶飯事で、休み時間になるごとに誰かのペンケースが教室のうしろのゴミ箱に捨てられた。
 6年生になってすぐ、わたしと瑠璃はささいなことで仲違いをした。それをきっかけにすさまじい苛めがはじまった。夏休みになる前には、わたしは身体もこころもボロボロになって、小さな子供みたいに泣きじゃくる下着姿のわたしの動画はネットの海に放流された。
 わたしは生まれた街から遠く遠く離れた場所で中学生になった。最近になってやっと笑えるようになってきた。それでも中学で初めてできた友達にはこう云われた。あんたどうしてそんな卑屈な顔で笑うの、って。
 いまのわたしは14歳の女の子の平均値のラインの上には立っていない。わたしはもう、素直、でも、真っ直ぐ、でも、普通、でもなくなった。でもわたしを本当に傷つけるのはそのことじゃない。苛烈な苛めの記憶ですらない。
 そんなことじゃない。
 あの事件のあと、クラスメイトたちは深刻ぶった顔をして、しきりに花子に同情して見せた。可哀想な子だったって。わたしたちの代わりに犠牲になって死んでしまったって。笑わせる。
 あの日、花子とトシオさんは旅立ったのだ。何処かここではない世界に向けて。自分たちの居場所がある、もっと良い世界、もっと素晴らしい世界に向けて。この繊細さに欠ける残酷な世界に後ろ足で砂を掛けて。
 わたしたちはこのドブみたいな世界ごと見捨てられ、置き去りにされたのだ。あの二人に。そのことが悔しくて悲しくてたまらない。
 他人から見ればきっと平凡で華やいですら見えるだろういまのわたし。だけれどときに心臓に氷の杭を打たれたように凍えあがる瞬間がある。
 学校の更衣室で、温泉の脱衣所で、女子トイレで、ふと瞬間に湿っぽい視線を感じて、わたしは震えながら振り返る。
 でもそこにはトシオさんはいない。その場所には誰のものかわからないため息のような空気が漂っているだけ。そのことにいちばん傷ついているわたしは、きっとどうしようもない愚か者なのだと思う。
 それでもわたしの日々はつづいていく。トシオさんがいようがいまいがこの世から恐怖は無くならない。わたしは怯えながら生きていく。
 こうしてひとつの事件は終わりを告げた。
 でも。ねぇ。みんな。
 ひょっとしたらトシオくんは次はあなたが住んでいる街にあらわれるかも知れないよ。

(了)

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