小説 『眠り姫の寝台』



 女子高生が我が家に泊まりにくることになった。間の悪いことだ。冷ややかな空気が漂うわたしたち夫婦のあいだで爆弾が破裂したのはほんの数日前のことだった。
 台所に置いた燃えないゴミ用のペールには、妻が恩師からもらったという薩摩切子のグラスが粉微塵になって堆積している。結婚記念の皿立てつきコペンハーゲンもだ。ゴミの回収日まではそのままだろう。うっかりそんなものを見られたらどうするつもりなのか。
 ホテルにでも泊まらせたらどうだ、そんなわたしの提案を妻は無碍にした。
「あの子が家に来たいって云うのよ」
 わたしの瞳を見ずに妻がそう云った。
「顔さえ見れば積もる話はあるし。それにいちどあなたにも会いたいんですって」
 女子高生は“親友”なのだと妻は云った。産まれてくる子供を除けば誰よりも自分の魂に近しい存在なのだと。二回り近く歳が離れた女同士がどこで交誼を深めたのか、わたしには知るよしもない。妻も教えてくれなかった。それ以上問いただそうとすると、痛っ、と小さくつぶやいて大きくせり出した自分の腹を撫でる。そうなるともうわたしにできることはない。わたしは妊娠中の妻を裏切ろうとした最低の男、ということになっているからだ。
 コロナ禍のあおりをくらったわたしが失職したのは、妻の妊娠が発覚する数週間前だった。物流会社の営業マンとして経験を積んで17年目。有無を云わせぬ感じで選ばれた早期退職者2000人のリストの中にわたしの名前も含まれていた。佐野くんのところにはまだ子供がいないから。面接のときにそう説得されたのはいま思えばどんな皮肉だろう。
 転職サイトにいくつか登録してみたが、緊急事態宣言下に職探しをするというのは小舟で太平洋を渡ろうとするようなものだ。上積みされた退職金と貯金はあるし、妻は身重の身でサーバー会社の管理職として働いているからすぐさま干上がるということはない。そもそもいまの世界では迂闊な外出をしないことが何より奨励される。妻が出勤したあと、リビングのソファで半日寝そべってスマホをいじるのが、わたしの日課となった。
 その日わたしはホーム画面をロックするのを忘れたまま、いつの間にか眠っていた。目が覚めたときにはスウェットの胸元が芋焼酎で濡れて、身体のまわりに硝子の破片が散らばっていた。妻が薩摩切子を投げつけたのだ。
 妻はわたしのスマホを手にしていた。スマホのホーム画面から右にスワイプしていくと、三ページには出会い系アプリのアイコンが山ほど並んでいる。with、tinder、omiai、MITAME、イヴイヴ、相席屋公式アプリ、Ymeetme(ベトナム人の若い女の子に日本人の男がモテモテというウワサはウソだとわかった)。
 わたしは会話履歴を削除すらしていなかった。うしろめたいことなんか無いと信じていたからだ。中年無職特有のぼんやりとした日々。身重で仕事に向かう妻は死んだ魚のような目をして帰ってくる。わたしはうるおいが欲しかった。活き活きとした若い女の子と会話がしたかった。それだけのことだ。妻はそれを信じなかった。わたしはすぐさま寝室を追い出された。昼も夜も話し相手はなく、ソファに寝そべって白猫プロジェクトとパズドラに虚しく時間を費やす日々がつづいた。
 女子高生がやってきたのはそんな折だったのだ。
 小雪のちらつく寒い日だった。東西線東陽町出口そばのファミリーマートの前で、わたしはホットコーヒーをすすり、妻はホットの烏龍茶をカイロ代わりに両手に握りしめていた。女子高生は来年こちらの大学を受ける気らしい。第一志望のオープンキャンパスに参加するために宮城から上京してくるのだそうだ。
「東京駅かせめて大手町で待ち合わせした方がよかったんじゃないか」
「昭和じゃないんだから。いまはみんなスマホにナビタイム入れてるんだから、東京で迷う子なんていないわよ」
「それにしたって……」
「ずいぶんとお優しいこと。若い女の子にはね」
 妻の声は首筋を撫でる冷気よりも寒々としている。近ごろはどんなことを話し合っていても結果はこうだ。
「云っておくけれど。“女子高生”相手に浅ましい視線なんて投げないでね」
 妻は云った。
「これからやってくるのはただの、普通の、人間。そう思って」
「それくらいのこと……」
「それくらい、なんて云えるほどあなたに信用はないのよ」
 女子高生、と聞いたとたんに目の前にヤニの染みこんだ黄色い壁が立ち上がってくる気がする。わたしがクビになるまで通い詰めていた職場の喫煙室の壁だ。シャツの袖を二回折り込んだ男たちが、うしろめたそうに背中を丸め、せかせかと煙草を吹かしながらどうでもいい戯れ事を口にする。話題はそこにいない誰かを八つ裂きにするようなものがよく選ばれた。部屋に充満した報われない虚しさがそれですこしは緩和されるからだ。韓国人や中国人に対する軽い冗談。産休に入った女性管理職についての陰口やうわさ話。いつまで経っても身の固まらない女子社員が“男喰らい”だという評判。
 女子高生――も、喫煙所では頻発するワードだった。手の届かないすっぱい葡萄に対するやっかみが、そこには大いに込められていた。若者のメッカが竹下通りから新大久保に移動していて、いまでは若い女の子が韓国コスメの店にあふれているらしい、という話は喫煙所で聞いた。いまや女子高生の七割が整形をしているらしい、という話も。そんな話に下卑たうわさが尾ヒレとしてついてきたはずだが、大概は忘れてしまった。
 なにはともあれその“女子高生”がやってくる。脳裏にうかぶのは大きなつけまつげと、おじさま、と呼ぶ媚びたような甘い声。わたしに会いたい、というのは何か買ってもらいたいものでもあるのだろう。新大久保の街を女子高生に片手を絡め取られたまま闊歩していく行く自分の姿が、勝手に浮かんでは消えていく。
 そんな甘い幻想はあっという間に消えた。
「沙耶ちゃん!」
 近づいてくる人影にむけて、妻がうれしそうに声をあげて、片手を振る。
 現れたのは牛蒡(ごぼう)にセーラー服を着せたような貧相な少女だった。どこででも中学生で通用するような小柄な体格。おそらく校則どおりに切り揃えた前髪。化粧っ気はなく、色気のかけらもない黒縁の眼鏡をかけている。この子が甘ったるい声でおじさま、なんて呼んでくれることは期待できそうになかった。
 知らない街をずっと歩いて緊張しているのかもしれない。眼鏡のむこうには気の張った鋭い眼光がある。妻の姿を認めて、はじめて瞳がすこし緩んだ。
 妻の名を呼び、ガタガタとキャリーケースのキャスターを鳴らしながら近づいてくる。沙耶と呼ばれた少女に、妻は小走りに近づいて、その身体を両手で抱きしめた。妻の方が頭一つほど大きいので、少女の身体は妻の影にすっぽり隠れてしまう。
 わたしはすっかり鼻白んでしまい、虚しい空咳をひとつ挙げた。わたしの存在に気づいて欲しかった。少女に近づいて手を伸ばすと、沙耶はこくんと頭を下げて、わたしにキャリーケースを委ねた。
「このあたり、美味しいお店もそれなりにあるんだけれどね」
 なぜか妻の方が興奮して、うわずったような声を挙げている。
「このご時世、外じゃゆっくりできないから。悪いけれど晩ご飯はうちで食べましょ」
「薬局に寄ってもいいですか。リップクリームを買いたいので」
「薬局じゃなくても、コンビニでも買えるんじゃないかな」
 わたしは云った。沙耶がわたしを見る。
「いつも使ってる、ひまし油入りのやつ、薬局じゃないと買えないんです」
 こいつはバカじゃないのか、という目線を妻がわたしに向けてくる。
 妻と沙耶がならんで歩き、そのあとをわたしが歩くかたちになった。少女がときおり振り返るのは、わたしに対する申し訳なさではなく、きっとわたしが持っているキャリーケースのことが心配なのだ。ふたりの会話は共通の友人のことがほとんどで、わたしには口を挟む余地もなかった。妻が「……そう云えばあなたもそうだったわよね!」などと笑顔で振り返ってくれないものかと思ったが、そんなことはついぞなかった。
 夕食は妻のこころ尽くしだった。サーモンときゅうりのサラダ。鍋でつくったスモークチキン(スモークチップなどどこに用意していたのか)。パンプキンソースのグラタン(モッツァレラチーズが切れていてわたしが買いに行かされた)。沙耶は小柄なわりに食欲はある方で、遠慮のない気持ちの良い食べっぷりを見せつけた。わたしたち夫婦も負けじと食べた。食後はまったりと椅子に座りこんでしまい、せっかくの点数を稼ぐ場面をふいにしてしまった。気がつくと妻と沙耶は流しにならんでさっさと皿を洗いだし、手伝おうかと声を掛けても誰からも反応が無く、わたしはすごすごとリビングに籠もるしかなかった。
 見たくもないテレビを見ていると、やがて妻に呼ばれた。妻はわたしを寝室へと誘い、手招きでベッドに座らせる。
「何だ?」
「しばらくここに居て。あの子にシャワー使わせてるから」
 気がつくと、わたしは頭の中で沙耶を裸に剥いていた。あばらの浮かんだ横腹を流れていくシャワーの水滴がありありと脳裏に浮かんだ。勝手知ったる浴室が背景なだけに、その想像は妙に生々しく、わたしは密かに興奮した。
「どんな間違いがあると思ってるんだ。馬鹿馬鹿しい」
 わたしは鼻を鳴らす。
「云ったでしょ。信用無いのよ、あなたは」
 妻は云った。
「今夜はここで寝ていいわ。床に寝袋でも敷いてちょうだい。なんだったら足に鎖だって巻いたっていいのよ」
 わたしは恨みがましい視線を込めてベッドを振りかえる。ダブルベッドを買う夫婦は別れが早くなる、と云ったのは同僚の誰だったろう?
 ひどく居心地の悪い夜になった。わたしは意地になってリビングで二人のそばに居座り、紅茶のお代わりを注いだりしていたが、二人の話はとめどもなくどこまでも続き、そのうちあくびを噛み殺しながら一人で寝室に引き込むことになった。床に敷いた寝袋の中は凍りつくように冷たく、妻への憎悪がかっと燃え上がったが、やがてそれも有耶無耶になって、寝入ってしまった。
 目が覚めたのは深夜だった。寝る前に歯を磨くのを忘れたので口のなかが妙に苦い。闇の中に妻の健やかな寝息が響いていた。
 寝室を出て、洗面所に行こうとして、キッチンの灯りがついているのにぎょっとした。
 沙耶はパジャマ姿のまま、ダイニングテーブルに腰かけていた。テーブルの上には薄い冊子が何冊も積まれている。沙耶はそのページに没入していたが、わたしが近づくとさっと顔を挙げた。
「こんばんは」
 わたしを真っ直ぐ見ながら、沙耶は云った。
「こんばんは」
 わたしは答える。妙な受け答えだと思った。
 沙耶の黒髪から、妻が使っているのと同じシャンプーの匂いが立ち上っていた。襟元のボタンを止めていないので、暖色の照明の下、鎖骨が浮き上がってくっきりと見える。
 自分が感じた衝動がとても不愉快だったので、わたしはひとつ咳をして沙耶の隣に腰かけた。わたしがむずむずとした痒みに似た感情を抱えてしまったのは沙耶のせいなので、沙耶が責任を負うべきだと思った。わたしのせいではない。
「眠れないのかい?」
 歯の浮くようなセリフだと思った。まぁ、どう思われたところで構わない。
「そうですね……興奮しちゃって」
 沙耶はひらいていた冊子を閉じて、深々とため息をつく。口元には微笑が浮かんでいた。
「御厨さんの絶版になったオリジナルをこんなにまとめて読めるなんて思いませんでした……ねぇ、どんな気分ですか? 天才とひとつ屋根の下で暮らすって」
「天才?」
「御厨珠洲香(みくりや すずか)は天才ですよ。そうとしか言い様がありません。pixivでもあれほどの字書きはいないんじゃないですか。オリジナル小説でブクマ10万叩き出すだけでもすごいですが、彼女の特徴はなんといっても文体で……」
「みくりや……誰?」
「あなたの、パートナーですよ」
 沙耶のことばには咎めるような響きがある。
「彼女はべつにpixivだけのローカル作家じゃない。個人サイト時代からそのカリスマ性は抜きんでていましたから。わたしなんかがよちよち歩きだった頃からです。いまでこそ二次創作がメインで、やっかみ半分でジャンルホッパーなんて陰口叩かれてもいますが、御厨さんの本領は誰が読んだってオリジナル物のファンタジー小説です」
 わたしは妻が寝ている寝室の方を指さし、首を傾げる。
「そうですよ、彼女です! 彼女は日本でいちばん筆力のある作家のひとりでしょう。わたしなんかただのファンなのにネットでは親しくさせて頂いて……ファンタジー小説は苦手という人も多いですが、彼女の場合は読み手を選ばないんです。日本語が読める人なら誰だって、一行目でがつんと頭をやられる。一ページ目で溢れてくる虚しさと焦燥感に心を焼かれる。それでいてキャラクターはみんな魅力的で、リアルで、まるでその世界が目の前にあるように感じられるんです……ああ、本当に、しあわせ」
 沙耶はそう云って、テーブルに置いた冊子を大事そうに抱き上げる。表紙はモノクロだが銀色の線でタイトルが綴られている。『眠り姫の寝台』。
「この本なんて、ネットでは幻の一冊として名前だけが広がっているんです。それがこうして読めるなんて。御厨さんにお家に招かれたときには、夢かと思いましたよ」
 わたしはあっけにとられていた。
 妻が小説を書いていたなんて初耳だった。それもネットではかなり名前の知られたビッグネームらしい。わたしの前で、彼女はそれらしい仕草を見せたこともない。まるでいきなり他の世界に跳ばされたような強烈な違和感を感じた。
「……まぁ、妻に充実した趣味があったって云うんなら悪い話じゃないさ。わたしの知らないことだが」
 沙耶がびっくりしたような顔をしてこちらを向く。
「……趣味?」
「まぁ、そうなんだろう? 家計の足しにもならないと云うんじゃね」
 わたしは渇いた声で笑った。衝撃を受けたせいで沙耶に対する“その気”もすっかり覚めていた。目の前にいるのはただのがりがりに痩せた小娘だ。
「子供が産まれれば、そう気楽に趣味に没頭もできないだろう。いまのうちなんじゃないかな。まぁ子育てをしっかりやって、家をゴミ屋敷にしないでくれるんなら、たまにそう云うことに熱中するのも悪くないさ。金もかからなさそうだし」
 色気の無い黒縁眼鏡のむこうから、沙耶は無言でわたしを見つめていた。ふいに居心地が悪くなり、わたしは椅子の上で身じろぎした。
 目を逸らしたあとも、わたしは頬のあたりに沙耶の視線を感じていた。
「読んでみませんか?」
 沙耶が云った。
「え?」
「この本ですよ。『眠り姫の寝台』。あなたの妻の書いた代表作です。魂のこもった一冊です」
「読まないよ」
 わたしは苦笑した。
「あいつだってそんなこと望んじゃいないだろう。いままでわたしにそんな気配も見せなかったんだから」
「そりゃあ著者本人からは薦めづらいでしょう。だからわたしが提案してるんです。一緒にこの本を読みませんか?」
 わたしの返事も聞かず、沙耶は冊子をひらいて、最初のページをめくった。
「物語の舞台は千年の都・エーリューズニル。主人公のヘリヤはその一角に棲まう女傭兵です。千年の都と云っても栄光は今は昔。川沿いには貧民街が広がっていて、ヘリヤはそこに暮らしています。なんとか大金を稼いでこの街を出たいと思っている」
 沙耶の視線は、わたしと彼女の中間のどこかに固定されている。
 その瞳にはどんなものも映っていないようだ。あるいは妻の書いたファンタジー世界にこころが跳んでいるのかもしれない。
「ヘリヤはずいぶんと荒っぽい稼ぎを重ねてきました。もちろん悪事に手を染めたこともある。それでも暮らしは立ち行かない。それで彼女はとうとう、彼女と敵対する盗賊ギルドの仕掛けている罠に掛かってしまったんです。エルムートまでの商人の護衛。簡単な仕事の割りに実入りは良かった。不自然なほどに。焦りがあったんでしょう。彼女はその仕事を引き受けてしまう。気がついたときには峠で屈強な男たちに囲まれていました。抵抗むなしく、彼女はそのまま裸に剥かれ、輪姦されてしまう」
「……なんだって?」
「輪姦、です。男たちに代わる代わる、何度も何度も、犯されたんです」
「ちょっと待てよ、ヘリヤは主人公なんだろう?」
「そうです」
「だったらそこは助かるべきなんじゃないのか」
「どうして」
「だって女傭兵なんだろう。強いからいままで生きのびてこられたんだろう。ハリウッド映画に出てくる女だってみんな強いじゃないか……ララ・クロフトとか」
「冬山で遭難したとき、生き残るのは圧倒的に女性が多いそうです。理由を知っていますか?」
 わたしは返事ができなかった。
「女性がつねに70パーセントの力しか発揮できない身体の構造になっているからです。おそらく残りは子供を育てるために残しておくべきだと神さまは思ったんでしょうね。だから女性は余力があっても身体が動かなくなる。逆に男性はそんなときに100パーセントの力を使い切り、動き回って、死ぬ。女性は現実という大地に力のいくばくかを預けて生きているわけです。死に物狂いで抵抗したって限度がある。ちなみに平均的な男性と女性では握力に20kgほどの格差があります。体格差だって大きい」
 立て板に水、といった様子で沙耶は滔々と話し続けている。
「さらに体調の問題があります。個人差がありますが女性であれば月経前症候群(PMS)と生理痛で月の三分の二は不調を抱えています。この世界にはあいにくと生理痛に効く鎮痛剤は売っていない」
「売っていない、って小説に書いてあったのか?」
「こちらの歴史で中世ヨーロッパと同等の化学力を持った世界です。リングルアイビーもエルペインコーワも錬金術師は扱っていない。そう考えるのが自然でしょう。たとえララ・クラフトだってその苦境は変わらない」
「売ってないとどうなる」
「男性と常時同等のパフォーマンスを発揮するのは難しいでしょう。ヘリヤが熟練の女傭兵だとしても」
「じゃあ泣き寝入りするしかない」
「ヘリヤは主人公ですよ。不屈の魂を持っています。そんなところでは諦めない」
「どうするんだ?」
「動けるようになると、彼女はすぐに王都・ミーミルに向かいます」
「そこに仇がいるんだな」
「いませんよ。王立最高裁判所があります。彼女はそこに暴行を訴える」
「これはファンタジー小説だろう!?」
「ファンタジー小説だからと云って、主人公が現実的な拘束に従って動いてはいけないという法はありません」
「……まぁ、いい。それで、どうなる?」
「王立最高裁判所には五人の判事がいます。全員が男性で異性愛者です。判事の一人は娘を盗賊ギルドの長の息子に嫁がせています。全会一致でヘリヤの訴えは棄却されます」
「でたらめだ! いんちきだ!」
「ヘリヤはミーミルの新聞社に訴えかけて、事件をおおやけにしようとします。名前も顔も晒されます。勇気ある行為です。ヘリヤの名前の載った号外は国中にばらまかれますが、それでも衛兵は動かない」
「なんで!」
「王宮近衛兵のトップが、ひどく歪んだ心情を守った人物だったからです。彼は――もちろん男ですが――新聞社を使って“この程度のこと”を大袈裟に騒ぎたてる女を、ひどく生意気で不快に思った。峠における性行為は、両者の合意の元に行われたとみなす。彼はそう告知します。裁判所も、警察組織も彼女の訴えに耳を貸しません。これで彼女が公的に犯人に制裁を与える機会は失われました」
 沙耶の声が微かに震えていることにわたしはようやく気づいた。
 開かれたままの最初のページに乗せた沙耶の両手は、きつく、きつく、握りしめられている。
「……それで、復讐はどうなった?」
「復讐?」
 沙耶は口の端だけで笑う。
「どうにもなりません。何も変わりません。ただ長い長い昼と夜が繰り返しヘリヤに訪れるだけ。昼のうちはまだいいんです。夜になるとどうしても考えてしまう。自分は何なんだろうって。なんでまだ生きてるんだろうって。まるで彫刻刀で彫り込まれたように、胸に、首筋に、陰部に、惨めさが刻みつけられています。それはどんなにお風呂で洗ったって、決して消えないんです。復讐。そんなことはもう頭に浮かばない。残るのは自分を責める気持ちと恐怖だけです。どうしてあの場所に行ったんだろう。どうしてあの日別の道を行かなかったんだろう。部屋がある。壁がある。それだけで話し相手は事足りる。夜になるとわたしはテディベア柄のカーテンを閉めます。そのカーテンの柄を可愛いと思った自分がもう別人に思える。たまに寂しくなると深夜放送を聴きます。オードリーとか空気階段とか。それもすべてが絵空事で遠い世界に思えて、すぐにラジオを消してしまうんです。聞こえるのは自分の吐息だけ。長い、長い時間です。高く高く積んだジェンガがひろげた自分のてのひらに積まれているみたい。いっそ壊してしまえ、という気持ちと、それだけはダメだ、という気持ちが交互に訪れます。自分と自分が血塗れになって葛藤しているうちに、夜が明けて、わたしはまた一日生き延びるんです」
 わたしにはことばもなかった。
「いつの間にか、わたしの話になっちゃいましたね」
 沙耶はそう云って、小さな声で笑った。
 奇妙な気分だった。こころはベタ凪でさざなみひとつ立っていない。それなのに深い、深い場所でなにかが蠢いている。これはなんだろう……怒りなのか悲しみなのか。
「ヘリヤは」
 わたしは云った。
「ヘリヤはどうやったら生き延びられるだろうか?」
 沙耶はしばらく考え込んでいた。
 やがて静かに立ち上がると、自分のキャリーバッグが置いてある場所に向かい、何かを取り出す。
「旅行用に買ったんですけど、縮尺を間違えてしまって」
 テーブルの上に広げられたのは江東区の2万5千分の1市街図だった。
 からん、と音を立てて沙耶がその上にサインペンを転がす。
「わたしはわたしのやり方しか知りませんけれど……二度とそんなことがないように、危険な場所を黒で塗りつぶしていくんです。大概が埋まってしまいますが……それでもどこかに安全な場所があると思うと、気持ちが落ちつくんです」
 云いながら、ことばの後半で沙耶は笑いだしていた。
「やめましょう、こんなこと。なんの意味もないことに巻き込んでしまって申しわ」
 皆まで云わせず、わたしはサインペンを取りあげてキャップを外す。
 沙耶が息を呑む気配がした。
「最初はどこだ」
 わたしは云った。
「どこを塗りつぶせばいい」
 すぐに返事があるとは思っていなかった。わたしは沙耶の顔を見ず、強張った顔をひたすら地図に向けていた。
「……大通りに面してない、小さな路地にあるコンビニとかは行けませんね。あとをつけられることが多いから」
 精緻に見る必要もなく、住宅街の真ん中にあるようなコンビニがすぐにいくつか見つかった。わたしはそこをサインペンで塗りつぶす。
「次は?」
「……その話でいくなら、当然、小さな路地は歩けません。家に帰るときなんかは、どれくらい大通りを余分に歩けるかが勝負です」
 わたしは細い線を黒くなぞっていく。黒い線で囲まれてしまったところは塗りつぶした。キッチンにたちまちサインペンの揮発臭がこもっていく。
 自転車専用道路が無いところは自転車に注意をする。すれ違いざまに触られることがあるから。
 本屋の棚のあいだに一人しかいなかったら、すぐさま人気の多い別の棚に移動する。
 閉店間際の飲食店には立ち寄らない。
 歯科医は女性の医師が営業している場所にしか通わない。
 沙耶の話は細部にわたった。わたしは彼女が語るがままに、ただサインペンを奔らせていく。わたしの視線はそこにはなかった。わたしの存在すらそこにあるのかどうか怪しいものだった。サインペンを握るわたしの右手には沙耶が乗り移っていた。わたしは沙耶の顔が見られなかった。どんな顔をしているのだろう。憎しみに歪んでいるのか、あるいは逆に浄化されたように澄んだまなざしをしているのか。わたしにはまったくわからなかった。
 わたしにはわたしの顔色すらわからない。喜んでいるのか。恥じているのか。
 昨日まで何も起きない平和な場所だと思っていた自分の街が。黒々と塗りつぶされていく。まるで異世界と重なっていくような感覚。わたしの知らない世界が開けていく。わたしの見たこともない世界が広がっていく。それは沙耶の世界、女性の世界だった。
 わたしたちは時間を忘れていた。いつの間にかとうに夜は明けて、寝室から妻があくびをしながら起き上がってきた。
「おはよう……ふたりとも早いのね」
 妻はそこでようやく異変に気づいた。
「ちょっと、この臭いなに? やだ、あんたたち、何をしてるの!?」
 わたしも沙耶も返事すらもしなかった。
 わたしの右手に沙耶の恐怖が、沙耶の魂が乗り移っていた。わたしはひたすらに塗りつぶす。世界を黒で満たす。
 やがて沙耶の声が途切れたとき。
 わたしはそのほとんどが塗りつぶされた、真っ黒な地図を見下ろしていた。
 わたしは笑って振りかえる。妻に褒めてもらうつもりだった。だが妻は恐怖に歪んだ顔をして、わたしを見つめ返してきただけだった。
「お茶にしようか、御厨先生?」
 わたしは云った。

(了)

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