わたしがとても「気持ち悪い」ことについて。

 わたしには魔法がかかっている。
 こう書き出して笑いだしそうになってしまうが、つづけてみよう。べつにウソはついていないし。

 わたしは子供の頃、醜い大人が大嫌いだった。大人というのはなによりもタテマエを大事にする。自分が若い頃の思い出の中だけに生きている。ものすごく頭が固くて若い世代が「いい」と思うものを何一つ理解しない。
 そんな大人が大嫌いだった若いわたしは、「あんな大人になりたくない!」と強く願った。そういう願いはむなしくも叶わないのが普通である。もしも叶ってしまったらそれは魔法と云っていいだろう。

 それが叶ってしまった。
 最新のマンガに熱狂し、Twitterに感想を書き散らかし、劇場で最新の映画を観て、NetflixにもAmazonプライムにも入っている。「むかしの映画が良かった」「マンガの黄金時代は過ぎてしまった」。そんなことはかけらも思わない。マンガも映画もドラマもいまがいちばん面白い。あと二ヶ月でわたしは五十三歳になる。老年だ。寿命もあまり残っていない。フィクションで描かれる五十三歳は甘い夢想から覚めて地道な現実だけを視界に置いて生きているものではないのか。シャークスキンの上着を着て山で山菜でも採っているもんじゃないのか。あるいは若い頃の思い出に浸り、40年前のヒット曲メドレーをワゴンカーに流して、孫を後部座席に乗せて塾へと送り迎えしているのではないのか。最近の若い者の考えることはさっぱりわからない。そう愚痴りながら。わたしにそんな様子はかけらもない。

 さいきんわたしは小説を書き上げた。Twitterでその感想をみかけた。読んだ人はわたしの作品のことを「とても瑞々しい」と褒めてくださっていた。ありがたいし、とてもうれしい。でも五十三歳の人間が「瑞々しい」感性を保っているって。それってなんだ、とても、とても……。

 気持ち悪くないですか?

 わたしはわたしが気持ち悪い。ここで何をしているんだろう。ここはわたしの居場所じゃないのに。碁会所で碁を打ちながら、キャンディーズのラストコンサートの話なんかを同世代の仲間と懐かしく語っているべきではないのか。どうしてTwitterでチェンソーマンのリファレンス元を本気で“考察”したりサイバーパンク2077のスクショをTwitterにアップしたりしているんだろう。身の丈にあっていない。何かが不自然だ。とても気持ちが悪い。
 そして奇妙なことに、わたしのように「気持ち悪い」老人たちが、いまの世界の半分を牛耳っている。

 じゅぺさんのこの映画感想を読んだときにとても嬉しかった。

 若い観客が、遥かに年上の監督、プロデューサー、配給元の古びた感性で映画が作られることを本気で憂えている。わたしのようなおじさんは若い人が「古びた感性」を切り捨てるのを見ると歓声をあげたくなる。そうだよね! これからは若い作り手がどんどん自己主張しなきゃ。そういう時代にならなきゃ。
 でも悲しいことに「そういう時代」は遥かに遠い。

 ミキが2017年にM-1決勝戦に進出したとき、ネタは「スターウォーズとインディージョーンズと暴れん坊将軍と水戸黄門」だった。
 えー。
 水戸黄門が最後にテレビ放送されたのは2011年だ。そろそろ干支を一周するくらいの昔だ。インディージョーンズにしても最後の映画が公開されたのは2008年だ。若い彼らがネタにするにしては古すぎないか。エラく40~50代にやさしいチョイスだ。もっとトンガった(!)20代にしか名前が通じないような映画やドラマを出したっていいはずなのに。

 わたしが10代のころ、北斗の拳や聖闘士星矢に熱狂していたころ、誰も「スポーツマン金太郎」や「のらくろ」の話なんかしていなかった。そういう一昔前のマンガに熱狂した子供たちは大人になってとうにマンガを捨てていた。いまでもマンガを捨てた大人は山ほどいるだろう。それでも「いまどきスポーツマン金太郎の話なんてする人はいないよ」と云うように「いまどき北斗の拳の話なんてする人はいないよ」とはならない。むしろいっぱいいるだろう、そんな大人は。

 わたしたちはいつ「年貢を納め時」を迎えるのだろう。もういいや。大人になろう。そう思えるのはいつだろう。そしてそんなオトナコドモをあやすように、テレビはいつまでドラゴンボールととなりのトトロの話題をつづけるのだろう。もちろん物理的な限界はくる。老眼。アルツハイマー。糖尿。その結末としての死。だがぶよぶよに太った糖尿病の老人を指さして「大人になった」とは云わないだろう?

 この世界が生まれてからずっと「現実」は過酷なものだった。だがわたしたちは他方で無制限に「夢」を与えられ、二次元ポルノを与えられつづけていて、その供給は止まることを知らない。モンスターエナジーを毎日3本飲み続けていればいずれ倒れるだろう。「夢」の摂りすぎで倒れるのはいつだろう?

 そうしてわたしはいつ「気持ち悪い」ことをやめるのだろう。人生に脇道などなくすべての行動についてわたしたちは寿命というコストを払っていく。ならば「まるで現実などなかったように振る舞うわたしは気持ち悪い」と思い続けることがわたしの現実なのだろうか。

 あるときはそんな人生を肯定したくなり、あるときは否定したくなる。わたしはそんなことを繰り返しながら今日も死という唯一確かなエンディングに向けてひたはしっているのだ。

(了)

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