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燃えるステーキ屋のパラドックス
ご無沙汰してます。お元気ですか? わたしはしばらく鬱で伏せっておりました。尾を引きそうなので現在連載中の『今夜、片親クラブで。』のつづきはしばらくお待たせすることになりそうです。申し訳ありません。代わりと云ってはなんですが、ひとつ小咄でも披露してみましょう。
注意:以下に書き記すのはただの寓話であり、作者本人を含めいかなる実在の人物もモデルとしていない。特定の特性、属性、性別、階級、店舗などを揶揄する意図は一切無い。
ひとりの男がいる。
彼はとても貧しくて恵まれない暮らしをしていて、着ているものも粗末だし、家賃が突然急騰するのではないかという懸念が目下最大の悩みだ。
そんな彼に突然の幸運が舞い降りる。親切な隣人が近所にあるステーキ屋の無料招待券を恵んでくれたのだ。彼は喜び勇んでステーキ屋に足を運ぶ。鶏むね肉以外の肉なんて口にするのはひさしぶりだ。
彼のテーブルにじゅうじゅうとプレートの上で音を立てるステーキが運ばれてくる。肉汁がしたたり、とても美味しそうだ。
彼はぎこちない手付きでナイフを操り、指の震えを抑えながら肉片を口に運ぶ。
彼の瞳はみるみるうちに潤み、一筋の涙が頬を伝う。震える唇から謎の方言がこぼれだす。
「あ、ありがてぇ……ありがてぇだぁ、おら、こんな美味いもん生まれてはじめて喰っただ。恵んで貰えてうれしいだ。生きててよかっただ」
そして無料券をくれた隣人に感謝し、そっと両手を合わせる。
……なんてことになるわけが無い。
ナイフを持つ前に、彼はポケットからスマホを取り出す。そしてステーキの写真を撮ってInstagramに上げる。そしてこんなキャプションをつける。
「最近はカロリーの高いものは健康のために避けてたんだけど、たまにはチートデイも悪くないね。味は……この手の店にしてはまぁ及第点かな」
彼にはどんな種類の余裕もない。それなのに、いやそれだからこそ誇りだけは余るほどある。彼は無料券をくれた隣人に感謝なんかしない。むしろ積極的に忘れようとするが、ぼんやりとした怒りがそれを遮っている。彼の中には隣人に哀れまれ、侮辱されたという暗い恨みが巣くっている。
(なるほど! それが「燃えるステーキ屋のパラドックス」なんですね! 救いを必要とする者は救いたくなる形をしていない。誰でもプライドはあり、不用意な同情は相手を傷つけることがある。それが教訓なんですね!)
ぜんぜん違う。
男の斜め後ろの席に、べつの男が座っている。
朝には三本の指で支えたスターバックスのタンブラーだけを持って出勤するような男だ。オフィスは快適で清潔で、暮らしにも仕事にも不満はない。
その日は彼の行きつけの地元のオーガニックレストランが店休日だった。サンドイッチ店に向かうと彼が好きな全粒粉のパンにアボカドを挟んだものが売り切れだった。昼休みの残り時間がどんどん減っていく。彼は仕方なく近くのステーキ屋に向かう。
そこでたまたま、さっきの男がやった一部始終を目撃してしまう。彼は呆れてため息をつく。
斜め前の席にいる男の見た目やマナーに欠けた素行などから見て、恵まれた暮らしをしているとは思えない。それならばなぜ意味の無い見栄をはる(目撃者たる彼の主観によれば嘘をつく)のか。恵まれない暮らしをしているならせめてしおらしく、大人しくしていてくれればこちらも多少の共感を見せるのにはやぶさかではないというのに。だがステーキを食べたあとに席にふんぞり返るあの尊大な態度はどうだ。だいたい星つきでもない大衆的なステーキ屋で撮った写真をInstagramに上げるって……飽和脂肪酸やコレステロールまみれの低俗な食べ物を食べたことがそんなに嬉しいのか。彼には男の見せる行動のすべてが不条理で場当たり的に見える。その動機がまるで理解できない。そんなに自慢がしたいのならもっと稼いでまともな収入を得て、本物の美味しい料理を出す店に行けばいい。なぜその努力ができないのか。
後ろの席の男はスマホを取り出し、そこで見た一部始終をXに書き記す。最後にこんな一文を添えて。「きっとこんな男がネットで女叩きなんかやっているんだろうな」、と。
(なるほど! それが「燃えるステーキ屋のパラドックス」なんですね! 生存者バイアスや世界公平仮説によって、恵まれた立場にいる人間は貧しさにとどまっている人間のことを理解できない。相手の立場を想像できることが本当の多様性なんですね!)
ぜんぜん違う。
人の話は最後まで聞きなさい。
だいたい、まだ何も燃えてないじゃないか。
突如、ステーキ屋の厨房から火の手が上がる。
一次消火活動をする暇もなく、料理人たちは火に包まれて絶命する。フロアマネージャーも、たまたまそこに居た店のオーナーも次々に焼死する。
二人の男はやおら立ち上がり、業火の中で必死に救命活動を行う。他の客たちを誘導したり、動けなくなった女性を激励したり、泣いている子供を抱えて出口まで運んだりする。この寓話のこの部分だけは絵空事ではない。向社会性のある援助行動の事例は世界中で見られる。たとえばタイタニック号の事故では社会的地位のある多くの男性が貧困層の女性にボートを譲った。
やがて店の中にいるのは二人の男だけになる。入り口も窓も、いや店のすべてが炎と煙に包まれている。もう助かる見込みはない。男たちは互いの瞳を見つめる。すべてを男たちは見て取る。見栄、不寛容、傲慢さ、善を求める気持ち。二人の男たちは許し合い、静かに抱き合う。直後に屋根が崩れて男たちは潰されて死ぬ。
ずっとずっとむかし、ペルシャの王様は地平線まで埋め尽くす自分の大軍勢を見下ろし、百年も経てばここにいる人間は全員死んでいるのだ、と涙をこぼしたそうだ。
それから数千年が経った。
いったいいつになったら学ぶのか。なぜ緊急時だけでなく、明日、今日、たったいま、他人の命を尊び互いに赦しあうことができないのか。
それが燃えるステーキ屋のパラドックスだ。
(了)