空の牛乳瓶に差したコスモスの花について

 わたしはかつてビル管理員という仕事をしていた。
 とあるオフィスビルの空調・電気・水道などの設備を管理し、保守点検をするのがメインの仕事だけれども、電球の交換やら蛇口の水漏れの修理などの軽い仕事でも呼ばれる何でも屋である。当然、ビルのすべての部屋に出入りすることができる。そうでないと仕事にならない。ノックスの十戒に『ビル管理員を犯人にするな』という項目はなかった気がするが、このコンプライアンス厳守のご時世、重度のセキュリティに守られたクリーンルームやサーバールームにでも気軽にできるこの職は、やろうと思えばありとあらゆる犯罪に手を染められる立場でもあった。もちろん、やりませんでしたが。

 わたしの胸に残るとある光景がある。
 ビルの地下にはエッセンシャルワーカーの詰め所がまとめて設置されている。ビル管理員の仮眠所の隣には複数の清掃業者の事務所があり、わたしはよくそこに軽いメンテナンスや蛍光灯の交換で顔を出していた。わたしはそこの仕事が好きだった。気前の良いお姉様方が仕事の“ご褒美”によくお菓子をくれるからだ。
 清掃員のお姉様方は女性ばかり。平均年齢は70歳。六畳間ほどの詰め所に2~3人のお姉様方がリラックスした様子で座っておられる。その部屋のあちこちにわたしの目を引くモノがあった。

 たとえば空の牛乳瓶に差したコスモスの花。
 たとえば食卓代わりのダンボール箱の上に敷かれた綺麗なランチョンマット。
 半年前のカレンダーの綺麗な湖の写真をわざわざくり貫いて壁に貼ってある。
 清掃員の詰め所なんてモップやら着替えやらでごちゃごちゃとした殺伐とした場所である。そこに花を飾る意味がわたしには理解できなかった。「ずいぶんと無駄な抵抗をするんだな」と思ったものだ。目をつむり、鼻をつまんで黙々と仕事をこなし、帰り着いた自分の部屋を飾りつけた方がよっぽどよくないか。女の人って変わっているな、というのが当時の率直な感想だった。

 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読んでいる。
 その中で塹壕で砲撃を避けている女兵士の話の話が出てくる。
 女達は塹壕の中で土竜のように身を潜め、そして瓶に飾った花を愛でていたそうだ。状況は天と地ほども違うが、清掃員の詰め所をコスモスで飾っていたお姉様方と心持ちは同じだろう。

 十七歳の少女の話も出てくる。その少女は行進中、真夜中にシロツメクサが敷き詰められた野原を通り、その美しさに驚嘆する。そしてどうせ死ぬならばこの光景のなかでいま撃たれて死にたいと願うのだ。

 大岡昇平『野火』に花の描写はあっただろうか? 思い出せない。

 性差だけにすべての答えを求めてはいけない話なのだろう。繊細で過敏で、戦場に咲いた花の美しさに心を打たれた男の兵士だってきっといただろう。だがそんな男の兵士だって、戦場から帰ってきて語るとなればどうしても“大きな物語”を語ってしまうのではないか。

 わたしたちは戦争という大きな物語に子供の頃から親しんできた。あるときはワクワクして。あるときはうんざりして。だがその中に夜露に濡れたシロツメクサの話がいくつあっただろう。牛乳瓶に差したコスモスの話があっただろうか。そう思えば「もうこの世に語るべき新しい物語なんてひとつもない」なんて言説が嘘っぱちだとわかるだろう。

 わたしたちはこれから新しい視点から見た新しい物語を山ほど持てるのだ。南Q太の視点から見た『プライベート・ライアン』が読める。いくえみ稜の視点から見た『遠すぎた橋』が見える。Adoが歌う『大脱走』のテーマだって耳に出来るかもしれない。なにが「新しい物語なんてない」だ。わたしの目にはいま広大なブルーオーシャンしか見えない。

 わたしの部屋にいま花はない。わたしのような独身男性には見えないレイヤーで女の人は世界を見ているのではないか。そしてそれはより世界を美しく深く見られるものなのではないか。わたしにはそう思えて仕方がないのだ。

(了)

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