かつて本と出会うためには“冒険”が必要だった。

先日タイムラインに流れてきた、このツイートに胸を打ち抜かれた。

 ちょっと自分でも面食らうくらい感動して、いますぐ長野県に飛んでいきたい!と涙ぐんでしまった。そこまで動揺した自分に戸惑った。
 どうして、ここまでこのツイートが響くのか。

 AmazonがKindleを開始したのは2007年の11月。わたしがKindleのタブレットを入手したのはたぶん2014年あたり。それからのわずかな年月はわたしにこんな傲慢なツイートを呟かせるに至った。

 当時頂いたリプライによれば電子書籍化されないのは山岸先生御本人の意向らしいのだけれども、それはこの際、いい。わたしはいつから「いざとなったらKindleで読めばいいや」「Kindleで出さないなんて商売っ気ないな、山岸先生ww」の人になったんだろう?
 世の中にはbookish(ブッキッシュ)と呼ばれるひとたちがいる。あるいはビブリオマニアとも書痴とも云う。本の内容よりも本そのものが好きな人。自分の本棚に並んだ本の背表紙を眺めることに快楽を眺める人。本の重さが、手触りが、紙の匂いが大好きな人。自分はまったくそんなタイプではない。
 が。
 いつの間にわたしは本とのあいだに交わしていた密約を破棄していたんだろう?
 「おまえを手に入れるためならおれはなんでもする」そんな密約を。

 わたしが思春期を過ごしたのは佐賀県の佐賀市。時代は80年代。当時の都心と田舎の情報格差は凄まじかった。ジャンプは数日遅れで届く。なんだったらTV番組だって数日遅れになる(若い方には信じられないだろう。わたしは伊丹空港のロビーで見た子供向け特撮番組を、翌週に佐賀のTVで観て愕然とした記憶がある)。書店の窓口で注文しないと「この県には一冊も入ってこない本」だってある。それなのになぜか「ぴあ」は売っている。「ぴあ」の誌面を埋め尽くした映画と演劇の8割は地方都市在住の自分には無関係。どんな内容なんだろう。観たら何を感じるんだろう。想像するしかなく。そんな自分がやるせない。

 テレビゲームは誕生していたが、まだわたしの生活のすべてを覆い尽くす魔力は発揮していない。となれば娯楽のすべては本に傾く。
 本! 本! 本! この世のすべての本を手に入れたいのに、それが叶わない。そんな財力はない。せめて本屋でめくってみたいけれど、佐賀駅のデイトスにある本屋にはそもそもそんな本は一冊も入荷しない。松田聖子の写真集ばかり……。

 お年玉をもらったらパニックだった。その何ヶ月も前から「欲しい本リスト」を完成させておく。SFマニアだったわたしのリストにはハヤカワの青背(海外SF文庫)が並んだ。ああ、ハインライン! クラーク! アシモフ! ディック! ベスター! ティプトリー! すべての本を手に入れたいのにそれが叶わない。ならばどうするか。

 冒険だ。
 当時まだ国鉄だった佐賀駅から電車に揺られ、久留米にむかう。中学生にとっては大冒険だ。「隣の大きな市のいちばん大きな本屋にむかう」は古代のオタクの定期巡回コースだった。わたしたちにとっていちばん最初の聖地は「大きな本屋」だったのだ。
 いまでも忘れない。
 西鉄久留米駅の駅ビルにあった本屋で、本棚にル=グゥインの「ゲド戦記」三部作がならんでいるのを見つけたわたしは泣きだしてしまった。
 これだけ名高い本が、近所のデイトスの本屋には売っていない。並んでいるのを観たことがない。久留米ってすごいな。魔法の街かな。久留米に住んだらなんでも手に入るのかな。久留米の子供になったら、ふらっと寄った近所の本屋でゲド戦記が買えるんだ。なんてうらやましいんだ。おれは久留米の子になりたい。

 学校を卒業し、社会人になったわたしが最初にやったことは「久留米に引っ越すこと」だった。理由は「近所でいちばん大きい本屋があるから」
 わたしは嘘をついていないし、冗談も云っていない。
 住む場所による本の入手難度には、当時それくらいの差があったのだ。
  「取り寄せをたのめばいいじゃないか」と思ったそこのあなた。
 表紙もあとがきも見ることができない、タイトルと著者名くらいしかわからないすべての本をぜんぶ取り寄せる度胸と財力が10代や20代の若者にあるとお思いで?

 わたしは久留米の街でもうひとつの楽しみを見つけた。古本屋巡りだ。
 都会と田舎では本屋の在庫に差が出る。となれば古本屋の質にも違いが出るのは当たり前。久留米には良質な古本屋が何軒かあって、わたしは幻の「銀背」(ハヤカワSFシリーズ)を手に入れて感涙にむせんだりしていた。よく泣くなこいつ。

 何年か経ち、わたしはかつてあれほど感動した久留米の本屋の品揃えに不満を感じはじめた。文庫には欠品が目立ち、出版社によってはまるごと入荷しないことも多かった。どうしても手に入れたい「幻の」本やマンガの数は増えていくばかり。
 どうしたか。ロールプレイングゲームなら次の展開はどうなるか、考えてみてほしい。
 結論はひとつしかないはずだ。目指すは《王都》である。

 はじめて神田・神保町の古書店街に立ったわたしは感涙に咽び泣き……
 はしなかった。むしろ大いに失望した。
 この気持ちは地方から東京を目指した、多くの学生・社会人が共感してくれるはずだ。

 神保町とは、菊池秀行の小説にでてくるような魔法の空間ではなかったのか!?
 そこではこれまでに出版されたすべての書籍が並んでいて、ハリーポッターの秘密のお店のように怪しげなオーラを放っていなければならないのではないか。
 それが意外と品揃えが甘い。なんとびっくり神保町に「ない本」もある。そんなばかな。
 わたしは神保町に大いに失望してスタージョン「コズミック・レイプ」を5000円で購買してその地をあとにした。
 答え合わせができるのはずっと後だ。お昇りさんがたった数時間その場にいて、その土地のなにがわかるのか。東京のビブリオマニアは何日も、何回も、古書店に足を運び、たった一回の僥倖にすべてをかけるのだ。わたしがパッと見で断罪していいものではなかったのだ。

  神保町とは反対に、わたしを感激させたのは国会図書館だった。
 この世のすべての書籍がそこにはあるという……実際には徳○書店とかおさめてない出版社もあるらしいのだけれど。
 そして実際、そこにそれはあった。
 中学生の頃から何年も、名前だけを耳にして気が狂いそうに恋焦がれた本。
 そのジャンルでは定番とされているのに入手不可能でうしろめたさと劣等感で身を焦がした本。
 とんでもないマイナージャンルで、全国からその本めがけてやってきたのはどう考えても自分一人だろういう本。
 あらゆる本との出会いがあった。図書館の重々しい雰囲気が良かった。あの日、あの場所で、コピー代にいくら使ったのか覚えていない。

 ついに物語は「この国でいちばん大きな街」の「いちばんたくさん本がある場所」に至った。
 それでも冒険はまだ終わらなかった。書店を回り、古書店を回り、偶然の出会いを信じて、繰り返し、繰り返し……。
 本屋の夢を見たことだって何千回もある。「やっとあの本を手に入れた!」と思ったことだって。でもただの一度も夢から本を持ち出せたことはないのだ。

 かつてわたしと本との関係はそのようなものだった。
 本が主でありわたしは従。わたしはどこまでも本に付き随う。さしだせる最大額の金と最大限の時間を差し出して、後悔なんかしない。
 後悔なんかしない。

 冒頭の蓼科親湯温泉の写真に戻ろう。あの写真の本たちは「待っている」。絶対に取り寄せなんかできるはずもなく、図書館のように気軽に立ち寄ることもできない。あの空間に対価を払った者だけが、あの空間と本を共有できる。そんなルールがわたしには痛烈に刺激として刺さったのだ。あそこには「本の従者」しか立ち寄れない。「顧客」では入れないのだ。

 ワンクリックで、カード引き落としで、スマホダウンロードできる。
 いつの間にか本というのはそのような安全な、牙を抜かれた「情報」に成り下がった。

 だが、あの泥まみれになって本の足元に跪いた、あの日々を覚えているわたしは、ふたたびあの愛欲の日々に戻ってみたいという誘惑を抑えきれないのだ。

 もう一度、冒頭の写真を見つめてみて欲しい。
 この本たちのニンフのような微笑が目に入らないだろうか。本たちは誘っている。ここまで会いにこいと。対価と時間を支払えと。活字に溺れるためにリスクを払えば、恍惚の時間を約束してやると。

 本はやはり「情報」じゃない。わたしにとってはもっと肉感的な何かだ。

 コロナが終わったら、わたしは蓼科に行くと思う。

(了)

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