生きてるうちに自分の墓穴を掘っておく~『肌寒い』のあとがきに代えて

(以下にアップする文章は2014年の10月に自分のブログにアップしたものです。以前にアップにしたnoteよりも前に書いたものなので、この中ではまだ猫は存命中です。

今回読み返してみて、拙作『肌寒い丘の上をきみと歩いていく』のあとがきとしてこの文章がふさわしいのではないかと判断して、ここに再アップします。もちろん小説未読の方でもそのまま読んで頂いて大丈夫です)

盆すぎに、うちの飼い猫の様態が急変した。
ここ十七年、仕事から帰ってきたわたしを猫が出迎えてくれるのが日常になっていたのだが、よたよたと倒れかけながら玄関に歩みよってくる猫の姿を見たときは、血の気が引いた。昨日までは元気に跳んだり走ったりしていただけに、その急変は悲しみよりも先に恐怖とパニックの感情をもたらした。すぐにひっつかんで病院に行き、一ヶ月の投薬のあと、いまは小康状態を保っているが、なんとなくこのままずっとつづくのではないかと呑気に思っていた猫との蜜月が、いつか終わりがくるものであることを思い知らされ、そのことが頭から去ることが無く、ペットロスの前払いのような、気の晴れない日々がつづいている。理不尽だとは思うが、こればかりは仕方がない。猫の命を思いっきり愛おしむ日々を(わずかかもしれないが)与えられて、感謝したい気持ちでいっぱいだ。あのまま急死でもされていたら、二度と立ち上がることができなかっただろう。

この件に関しては、Twitterに経緯を書きまくったこともあり、いろんな方からご心配と励ましのおことばをいただいた。
そのうちの一人、自身も先に愛猫を亡くしたという、知人のことばが忘れられない。
「最近、やたらとあちこちで同じような話を聞くんだよね。みんな二十代の頃に、いっせいに猫を飼いだしてさ、深い考えもなしに。それが同じように老けていって、いっせいに亡くなっていくの。あんただけじゃないんだよ」

ああ、と腑に落ちるものがあった。
知人との会話のあとで、うちの猫の血統書を開いてみた。
1997年10月24日生まれ。
1997年がどんな年だったか。
1993年頃から始まった不況が四年目を迎え、うちの猫が生まれた一ヶ月後には山一証券が破綻する。
だけど、いまではあの事件を終わりの始まりと見る人よりも、「不況って云いながらあの頃はまだ余裕があったなぁ」と述懐する人の方が多いのではないか。まさか不況などという世界の動きが、自分の内懐まで切りつけるなんて思いもよらず、可処分所得はいまよりずっと多く、バブルがはじけたはじけたと騒がれながら、どこか余裕があったあの日々。

オウムと阪神淡路大地震から二年、酒鬼薔薇聖斗が紙面を賑わせ、この世界はヤバくなっているんじゃないか、というのが前提ではなく仮定でしかなかったあの日々。

ファイナルファンタジー7が発売され、ドラクエ7のプラットフォームであることも決定した初代プレイステーションの出荷台数が500万台を突破し、それでもわたしを含めた熱心なセガ者は、プリンセスクラウン、カルドセプト、ソウルハッカーズ、ゼルドナーシルト、初代ギレンの野望、AZELといった、いま思い返しても魂が震えるような傑作をつぎつぎとリリースするセガサターンの勝利を信じて疑わなかった。

そういえばたまごっちブームがあったのもこの年で、同年放送の「踊る大捜査線」が作中でさっそくそれを取り上げたりしている。

マンガの世界では「うしおととら」「ダイの大冒険」という、すさまじい終盤の盛り上がりを見せた傑作二本が前年に連載終了し、自分の中ではちょっとした狭間の時期だった。おかげでこの年のマンガのことはおぼろげにしか覚えていないが、ONE PIECE連載一回目の「あのコマ」のインパクトだけは未だに強烈に残っている。

CDバブルがはじまり、華原朋美が三作連続でミリオンセラーを叩きだし(信じられない!)、GLAYのベストアルバムが450万枚(!)を売りさばいて、ベストアルバムブームが始まった。

なによりもうちの猫が生まれたのは、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』の公開の三ヶ月後だ。

それはサブカルチャーにとっては盛夏の候だった。傾きかけた世界をよそに、「セカイ」は花盛りで、話題には事欠かなかったと云っていい。

わたしたちには猖獗を極める(変な表現だが他に思い浮かぶことばがない)コンテンツの乱れ撃ちを、すべて受け止めるだけの経済的余裕も時間的余裕もあった。なかったのはコンテンツの豊穣の海に溺れる自分を省みる俯瞰的視点だけだった。エヴァの謎本は山ほど本屋に並んでいたが、コンビニのレジでファイナルファンタジー7を受け取ることのできる世界の謎については誰も解き明かしてはくれなかった。

バブルがはじけたばかりだと云うのに、わたしたちは性懲りもなく、この豊穣がずっとつづくと「なんとなく」思っていた。
ビューティフルドリーマーの「終わらない文化祭」は、エヴァの「終わらない夏」へと引き継がれ、ごく自然にオタクの一般的心象風景として認知された。死は認める。老化は認めない。変化はありえない。そんな世界観。

いま思えば、だが。わたしが猫を飼ったのも、蕩尽をきわめたコンテンツ消費のひとつだったと云えなくもない。
エヴァの謎を考察するほど深くには、わたしたちは自分の孤独をつきつめて考えてはみなかった。
無限に湧き出るコンテンツで内面の空白を埋める、というスタイルはすでにその頃には完成されていた。
ペットショップで一目惚れしたアメリカンショートヘアーに七万円を出すだけの経済的余裕がその頃のわたしにはあった。
その猫と十七年にわたる付き合いになるとは思いもよらないし、代替可能な消費的コンテンツではなく、自分の分身と思えるほどの存在になるとはまったく考えていなかった。

そしてその猫が、ふいに消えてなくなるのではなく、劇的な死を迎えるのでもなく、ゆっくりと老いていき、目の前で死に向かってゆっくりと一歩、一歩、死へと近づいていく様を見せられるとは夢にも思わなかった。
セカンドインパクトで地軸が変化し、永遠の夏がつづく世界ではそんなことはありえなかったから。

熊代亨 『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』を読んだ。
昨今はファスト風土流行りで、Twitterでもそれに関するツイートを頻繁に目にする。三浦展さんの『ファスト風土化する日本』は、いくぶん強引なデータの結論への結びつけ方も含めて、大好きな本で、それ以降出るファスト風土論も目につく限りは手にとるようにしている。

が、熊代さんのこの本は、サブタイトルに反して、ファスト風土に適応した昨今の若者の風俗その他に言及するよりも
多くのページを、いまや中年を越えて老人へと片足を踏み込んでいる、シニア世代のオタクの今後の身の振り方(著者曰くの“軟着陸”)に割いていて、事前に予想していたものとはだいぶ違う読後感となった。著者自身があとがきで述べているように、ずっと第一線のアーケードゲーマーとして張ってきた自分が、反射神経の衰えにより「引退」を決意せざるを得なくなった、その苦い経験が本書をタイトルとはだいぶずれた、歪んだ方向へと導いている。その歪みが人間くさくてわたしは好きだ。なにより著者の経験の裏打ちがあるから説得力もある。


「終わりなき日常」「終わりなき夏休み」といったフレーズが流通していた90~00年代の頃は、人生の春や夏にも終わりがあるという事実は多くの人に忘れられ、いつまでも夏休みのような、モラトリアムな暮らしが約束されているような錯覚のうちに過ごすことができました。(略)しかし人生においても、社会においても、夏は終わりを迎えようとしています。金銭的余裕や思春期モラトリアムによって棚上げされ続けていた諸々の現実が、四半世紀を経た今、私達を迎えにきたのです
    熊代亨 『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』157ページ


わたしに取って、「迎えにきた現実」とは、玄関にむかってよたよたと歩いてくる猫の姿だった。わたしと、猫と、サブカルチャーは、十七年のあいだに、それだけの齢を重ねた。
わたしだけがそれに目を背けていた。現実に目を背けられなくなるその日までは。

だからわたしにとって猫とサブカルチャーは、同じように目を塞いで生きてきた日々の同士なのだ。
だから、この文章の冒頭を、こんな風に置き換えてみてもいい。

ここ十七年、仕事から帰ってきたわたしをサブカルが出迎えてくれるのが日常になっていたのだが、よたよたと倒れかけながら玄関に歩みよってくるサブカルの姿を見たときは、血の気が引いた。
昨日までは元気に跳んだり走ったりしていただけに、その急変は悲しみよりも先に恐怖とパニックの感情をもたらした。
なんとなくこのままずっとつづくのではないかと呑気に思っていたサブカルとの蜜月が、いつか終わりがくるものであることを思い知らされ、そのことが頭から去ることが無く、コンテンツロス(なんだそれ)の前払いのような、気の晴れない日々がつづいている。
理不尽だとは思うが、こればかりは仕方がない。
サブカルの命を思いっきり愛おしむ日々を与えられて、感謝したい気持ちでいっぱいだ。

そういえば先月、日本で発売されたばかりのXBOX ONEを買った。
メガドライブ、サターン、ドリームキャスト、XBOX、XBOX360……とつづいたわたしの楽しい負けハード人生に語りはじめると長くなるので割愛するが、いままでのXBOXシリーズに比べてもONEの本体はひたすらに重く、GEOからの帰り道、筋肉の衰えはじめた両手に抱えたONEの重さが、別の意味をもって感じられた。
それはたとえていうなら、ピンク・フロイド「ドッグ」の歌詞の一節のような。
年を取って南へ逃げた男が、自分の背負った石の重みに耐えきれずに死んでいく……。
現実問題として、マイクロソフトが次のゲームハードを発売したとき、そのときのわたしにはハードの箱を自宅まで運ぶ握力は残っていないと思う。
自分がいつか死ぬのは仕方がない。
しかしジ・エルダー・スクロールシリーズの次作をプレイする前におっ死ぬかと思うとさすがに無念だ。
おお、遙かなるエルスウェアーよ。カジートの大地よ。
未知なる冒険に彩られた、高画質の世界が目の前に広がったとき、わたしの目は老眼で、ゲームなどできないかもしれない。
うちの猫が死んで、それから先遠くない未来に、わたしは目尻の皺を涙で埋め尽くしながら、コントローラーを静かに置くだろう。
それでも……いままで親しんできた物語の中で、老人たちの世界がそう描かれてきたように、若き日の記憶が、昨日のことのようにはっきりと蘇る、そんな世界が老人のものであるならば。
わたしは楽しみにしているのだ。
メガドライブで大戦略をプレイして、「PC98版より出来が良い!」と驚いた記憶や。
コンビニの店先で立ち読みした「うしおととら」のトンネルの話に背筋が震えたあの記憶や。
明かりを消した部屋の中でThe Smithsのファーストを聴き、モリッシーの声に癒された記憶が。
鮮やかに蘇ってくるならば、そんな老後も悪くないじゃないか。

フリードリヒ・フォン・シラーは鼻で笑うだろう。ひとりの友の友になるという成功を成し遂げなかったわたしを。
ひとりの妻を勝ち取るという勝利を得なかったわたしを。
歓喜の輪から泣きながら去っていけと、石を投げてわたしを追い払うだろう。
知っている、理由はわからないけれど。
聖ペドロはきっとオタクの名前を呼ばない。

福岡に承天寺という寺がある。施餓鬼棚の由来のある寺で、江戸時代の飢饉の記録が標示に記されていたのだが、
なんの飢饉かは忘れたが、三十年に渡る飢饉があったと知って、愕然とした記憶がある。
世界に生まれ、腹一杯にごはんを食べるという経験をいちどもせずに死んでいった人がいる。
どんな感覚かは想像もできない。冬の時代に生まれた人々だ。
世界に生まれ、誰にも触れ合わず、コンテンツだけを消費して死んでいくわたしたちがいる。
どんな感覚かはわたしたち以前の世代の人々には想像もできないだろう。ただの幸運で夏の終わりに生まれたわたしだ。

映画でも、ゲームでも、アニメでもいい。
もはや若い人たちのようにアンテナを鋭く張って、最先端のコンテンツを強欲に追い求める体力はわたしには残っていない
それでもわたしは自分のことを、いま、最前線に立つ人間だと思っている。
コンテンツ消費が当たり前になった世界を真っ先に享受し、真っ先に老いに直面し、真っ先に墓に入る人間だと。
もちろんわたしより前の世代で「趣味に生きた」人はいただろう。かっこよくディレッタントと呼ばれる人々だ。
だが彼らは趣味の世界に生き、その生活に首まで浸かって死んでいくことについて、何の教訓も残してくれなかったように思う。
渋澤達彦は、最後に書斎にならんだ蔵書や資料を眺めながら、なにを考えていたのだろう。
いまでも気になっているのだけれども、野田“大元帥”昌宏の膨大なSF雑誌の蔵書はどこかにアーカイヴされているのだろうか?
彼らはわたしたちの日々を豊かにはしてくれたけれども、老いていくその先の日々の過ごし方について教訓を与えてはくれなかった。

だからわたしは、「死んでいくオタク」の最先端に立つ人間として、これまでコンテンツを消費してきたのと同じくらいの情熱を持って、コンテンツに埋もれた自分を埋める、墓穴を掘ろうと思うのだ。
誰かの愛情を勝ち取ることを知らなかったわたしたちは。
愛するものの寝息に耳をそばだてながら眠ることの安息を知らなかったわたしたちは。
せめて自分の愛した、情熱を注いだコンテンツを自分とともに葬るための墓穴を掘るのだ。
タヒチでは死者のために穴を二つ掘るそうだ。屍骸を葬るためと、その死者の罪を葬るため。
自らの屍体の処理なんて自分じゃどうしようもないから、わたしたちはせめて自分が愛したものたちの墓穴を生きているうちに掘ろう。

シラーが門の前で唾を吐いてくる天国に入れなかったなら、
わたしたちは忘れられたコンテンツ、捨てられたコンテンツ、世に出なかったコンテンツが眠る、最後の物たちの国に行こう
棚にならんだ山ほどのDVDやゲームソフトやマンガや小説の記憶とともに、夕暮れの旅に出よう。
そんなに死に急ぐことはないけれど、その準備だけでもしておこうじゃないか。
人生の先達として、らしいことはなにひとつ若い人たちにしてあげられなかったから。
せめてその死に様でも見せておこうじゃないか。

中学生の頃にノートの片隅に書いたこの世にはない世界の地図や。
90年代に富士見書房に山ほど送られてシュレッダーのエサになったファンタジー小説や。
日本で三人くらいしかタイトルを知らないゾンビ映画の記憶とともに。

奇妙な道だとしても、ぼくらはそちらの方へむかうよ(Strangeways, Here We Come)。

(了)

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