小説 『あたらしい街』


 陽の光にすべてが暴かれているような街だった。なにもかもが過剰にあからさまになっている。だからわたしたちの街にはぜひとも隠れ家が必要だ、とうちの店長は思ったらしい。入り組んだ路地の奥に小さな隠れ家的な居酒屋をつくろう、と。避難所(シェルター)だ。その意気は見上げたものだと思うけれど、“入り組んだ路地”なんてものがそもそもこの街にはない。夏になればあたり一帯をシロツメクサが覆う荒野に一件だけぽつんと建った居酒屋は、やはり過剰に晒されていて、隠れ家というより灯台に見えた。夕方になって自転車でバイト先に向かうときには、坂道のてっぺんから遠くに店の灯りがよく見えた。海へといたる視界を遮るものはショッピングモールと商工会議所の建物くらいしかなかった。
 それでも意外なことに、意固地な信念というのは伝わる人には伝わるものらしい。地元の常連客がしっかり居着いて事は収まるべきところに収まった。もとより観光客や商売人が足繁く訪れる街でもない。新顔の客なんて滅多に現れなかった。わたしとしても見知った顔だけを相手にするのは気が楽でいい。苦学生としては週に三食、賄いが完全無料でついてくるのもありがたかった。客の回転率なんてお高く計算している店ではないから、店長はそういったところではひどく気前が良かった。
 そんな日々の繰り返しだったから、水曜日の夜にその男が店の入り口に立ったときには、鶏小屋に首を突っ込んだ孔雀くらいにはよく目立った。
 いらっしゃいませ、とわたしは云えただろうか。たぶん蚊の鳴くような声でそう云ったのだろう。記憶にはないけれど。
 男は縦にも横にも大きかった。身長は190センチはある。肩幅も広々として堂々とした体躯だ。その体格にきっちりと見合った仕立ての良いスーツを身につけている。わたしの顔より大きいてのひらをだらんと両側にぶら下げて、好奇心に満ちた大きな瞳だけがぐりぐりとよく動いて店の中を見渡していた。
 独りなのですが、と男は云った。小声のつもりだったのかも知れないが、店の隅々までよく通る声質だった。席まで案内してもらますかな、お嬢さん。
 黒無地の制服に身を包み、くたびれたエプロンをつけたわたしをお嬢さん、と呼んだのはその客がはじめてだった。
 こちらへどうぞ、とわたしは云った。ちょうどサラリーマンの四人連れが帰って、テーブル席がすべて空いたところだった。常連組はほとんどカウンターを占領している。テーブルの方が気易いだろうとわたしは男を窓側の席に案内した。
 小さな椅子は男が座るとほとんど見えなくなった。身体が大きいせいだろうか、男はスン、スン、という奇妙な鼻息をずっとつづけていた。すでにどこかで飲んできたのだろうか。顔が少し赤い。びっくりするくらい太い首の肉がきっちり糊の効いたシャツのカラーにのっかっている。わたしは男の胸元に手を伸ばし、ネクタイを緩めてシャツの第一ボタンを外す様を想像した。酔ってはいたが男の外見にはまるで乱れたところがなかった。
 自分を落ち着かせるためだけに、わたしはセルフの水をわざわざ注ぎに云って、男の前にコップを置いた。男はこちらを見ずに軽く頭を下げた。テーブルに立てたメニュー表を持ち上げて、男はその輪郭をゆっくりとなぞっていた。この街の特産品はなんですか、と訊いてくるかもしれない。季節によって答えは変わる。牡蠣、わかめ、メカブ、海栗、ホヤ……。
 だが男はメニュー表を指で弄んでいただけだった。男は焼酎のお湯割りと焼き鳥を頼んだ。つくねと皮と軟骨を三本ずつ、塩で。びっくりするくらい平凡な注文だ。一瞬ぽかんとして、わたしは慌てて注文票を取り上げ、男の頼んだものをそこに記した。少々お待ちください。わたしは男に頭を下げる。
 わたしはカウンターに向かって注文を読み上げる。店長はこちらを見ずにうなずいた。カウンターの角の席ではランドセルを背負った姉がにこにこ笑いながらわたしを見上げている。その頭を撫でるフリをして、わたしは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、姉の前にコップを置いた。姉は微笑を大きくした。その背中できちんと嵌まっていないランドセルの金具がかちゃかちゃと鳴った。
 焼酎のお湯割りを持って男の席に戻る。男はカウンターに座ったトクさんと大きな声で野球談義に花を咲かせていた。驚きを顔に出さないようにするのに苦労した。トクさんが外の人間と親しげにしているのを初めて見た。カウンターの上で身をよじって真後ろを向き、上機嫌に笑っている。トクさんは自称漁師だ。もう十年も漁に出ていない。海が怖くなったのだそうだ。
 わたしはさりげなく他の常連客の様子を伺う。金井洋品店の志保姉さんはまったくの無表情で手羽先を焼酎で流し込んでいる。トクさんとふたつ離れた席にいる佐々木さんはいつものように悲しそうな顔をして無言でコップと会話を交わしている。
 焼き鳥の皿をテーブルに置いたとき、男がわたしの顔を見上げた。
 失礼だが、お嬢さんはこの街の生まれかな? 男はわたしにそう訊いた。すうっと首筋のあたりが冷たくなる気配がした。そこを皮切りにした会話がどこに行き着くか、容易く想像がついたからだ。仰々しく歪められた顔。同情に満ちたお悔やみのことば。他人に分かるはずもない、わたしたちが積み重ねてきた年月に対する安っぽい労り。
 だが、わたしの想像はあっさりと外れた。
 そうですか。やはりこの街の出身なのですな、なんとも羨ましい! 男は膝を叩いてそう云った。昼間、車でこの周りを回ってみたのですが、なんとも云えず素晴らしい、と男はつづけた。
 この街は、なんというか、あたらしいですな。
 締まりのない笑い声が店を埋め尽くした。その中にわたしの笑い声も混ざっていた。姉でさえも幼い声で笑っていた。男の反応はまったく予想外だった。ありていに云って、そんな形容詞で自分の街が語られたことなんて記憶にない。人は予想外すぎる事態には笑ってしまうものだ。男は上機嫌に笑っていた。
 わたしはここからずっと南の、埋め立て地に出来た新興住宅地の生まれでしてな、と男は云った。物心ついたときにはだだっ広い土地に建っているのはわたしの家だけでした。母はずいぶんと心許ない思いをしたようですが、幼いわたしには自分の街の清潔さが自慢の種でした。敷いたばかりのアスファルトの臭いがする道が、東西南北にどこまでも広がっていたものです。自転車でどれだけ走ってもセイタカアワダチソウの咲き乱れる野っ原しかなかった。それがあなた、わたしの背が高くなるのにあわせて、どんどんと空き地が家で埋まっていくのですよ。まるで家が家を生んでいるようだった。ネズミみたいにね。それがどれも我が家と規格が同じな似たような家ばかりでしてね、わたしはそのことにすら誇りを感じたものです。なんと秩序のある、清潔な街だろうと。信号機もガードレールも新品でぴかぴかに輝いていた。真新しい街路にはゴミひとつ落ちていなかった。そんな生まれのせいでしょうか、わたしはいわゆる都会というやつの、無秩序ぶりが我慢できないのです。路地裏に路地裏が連なり、ビルの隙間にビルが建ち並び、どこにも秩序と云うものがない。それどころかそこに住んでいる連中はその無秩序さに誇りすら持ち、汚れた路地裏に痰を吐き、コンビニの傘をそっと盗むのです。
 それに比べてこの街は素晴らしい!
 起伏もなく、どこまでも平たい道。真新しい信号機にガードレール。水平線の見える清潔な街。この街には未来しか見えません。あの広々とした新しいショッピングモールは素晴らしいですな! 計画的に建てられた新しい公園も美しい。清潔で……何も無い! 陰湿な因習の陰なんてどこにも見えない。まるで目に見えないフタで人間の暗い部分を覆い尽くしてしまったようだ。素晴らしい!
 ……いつの間にかトクさんは男から目を背け、正面を向いていた。唇を噛んで両手に包んだコップを見つめている。わたしは何も云わず黙って男の顔を見つめていた。姉の姿はいつの間にかどこかへ消えていた。
 たまりかねたと云うように、佐々木さんが勢いよく立ち上がった。真っ直ぐ男の目の前まで進み、その胸元を掴み上げる。
 佐々木さんの固めた拳が振り下ろされる寸前に、わたしは両手で佐々木さんの腕にしがみついた。
 そりゃそうだ。志保姉さんが押し殺したような声で呟いた。そりゃそうなるよ。
 佐々木さんの身体からはもう力が抜けていた。虚ろな瞳がただ前を見つめている。わたしは佐々木さんの腕から手を離し、呆然と立ち尽くしている男の手を引いて店の外に出た。男はまったく抵抗しなかった。ただぽかんと口を開けて茫然自失の体だ。
 店から数歩歩いたところで、わたしは男の手を離した。帰ってください。わたしは云った。これ以上傷つく前に。
 なんの話をしているのかね? 男はゆっくりと首を振った。わたしはまったく傷ついてなんかいない。
 あなたの話なんて誰もしていない。わたしは云った。あの店にいる全員が傷つくんです。
 いったい何の話を……言いかけた男の胸を、わたしは軽く押す。お代のことなら気になさらないでください。店長が持ちます。店長が払わないというならわたしが自腹を切ります。
 きみにそんなことをしてもらう覚えはありませんな。男は心底不可解そうにわたしを見つめる。説明してもらえませんか。
 説明?
 そうですとも。わたしがこの店で受けた理不尽極まりない仕打ちを、合理的に説明してください。
 説明! 叫びながらわたしは笑った。説明! 説明! 説明!
 笑いが止まらなかった。説明だって。誰にそんなことができる。何が起き、何を失ったのか、何を感じたのか。そんなことを理路整然と口にできる人間なんてこの街にはいない。
 嵩上げされたこの土地に埋まったものを、黒い土の下にあるものを、過去のすべてを……黒い祈りとともに呼び戻しでもしない限り。
 さようなら。わたしは云った。この先の旅の安全を祈っています。こころから。
 呆然と立ち尽くした男に、わたしは構わず背を向けた。
 店の中に入ると、気の抜けたような流行りの曲が静かに流れていた。店長が気を利かしてラジオをつけたのだろう。常連客たちの顔をわたしは見られなかった。
 姉の姿は消えたままだ。空っぽの席に置かれたコップには、満杯にオレンジジュースが注がれていて誰かが手をつけた跡もない。
 わたしはそのコップを取り上げて厨房の中まで進み、水を流してジュースを流しに捨てた。
 姉のことなら心配いらない。彼女はずっとここにいる。ここ以外のどこにもいけない。
 今日は早めに上がって良いよ、やさしい声で店長が云った。
 わたしは自分の部屋のことを思う。あたらしい街に建ったあたらしいアパートの一室を。ジーンズをだらしなく脱ぎ捨てたわたしの男は、わたしに構わずもう寝ていて、わたしが布団に潜り込むと、おまえの足は冷たいなぁ、と寝ぼけた声で笑うだろう。
 わたしは寒さに震える声で云う。今夜はヘンな客が来たのよ。本当に変わったお客だった……わたしの男は寝言のように何かを呟いて、そのまま眠ってしまうだろう。
 いまは冬だ。
 じきにまた3月がやってくる。

(了)

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