猫のこと。

noteになんか書こうとするたびに身構えちゃう自分がいて、ここはそう云う場所じゃないんじゃないか「ノーメイクのわたしを見て!」な場所なんじゃないのーなどという内省により、素手で文章を書いてみることにした。「猫のこと」とタイトルをつけてみたが、何を書くかは決めていない。

うちの猫は1997年10月24日に生まれ、2017年9月15日に亡くなった。二十歳まで39日足りなかったが、それでも若い頃に実家を出たわたしにとってはすべての肉親含めてどんな人類よりもつきあいが長かった。

よくペットの飼育啓蒙として「軽い気持ちで飼うのはやめよう!」などと云われたりする。わたしはこれは眉ツバだと思う。わたしが猫を飼い始めたのが死ぬほど軽い気持ちだったからだ。29歳の忘年会の帰り、酔っ払って立ち寄ったペットショップで一目惚れして(ボーナスが出たあとだったので)7万なにがしかを現金一括で払って家に連れて帰ったのだ。これ以上ないくらい軽いノリである。この人、猫が病気になったり年寄りになったりしたら捨てたりしそう……と自分で思ってしまうが、老猫との介護の日々がその後待っていて、それを全うしてしまったのだから人生はわからない。「軽い気持ちで飼ってもいいじゃん、重い結果に耐えられるかどうかはその時になってみないと誰にもわからん」といまは思っている。

だから「軽い気持ちで飼うのはやめよう!」とは云えないのだけれど、「仔猫との生活を甘く見るのだけはやめよう!」とは云える。仔猫というのはバイタリティのみで構成された物質で、なおかつ爪や牙が伸びる成長痛を解消するためにやたらと噛みたがる、引っ掻きたがる。この時期、健康診断に行くたびに「こころの悩みとかあるんですか」と医者に云われた。猫の引っ掻き傷だらけの腕がリストカットの痕に見えたのだろう。猫を飼い始めて数年は、生傷が絶えなかった。

仔猫が遊んでいる動画を見て「可愛い」しか思わない人は想像してもらいたい。夏である。あなたは風呂から上がって扇風機の前にいる。限りなく裸に近い格好をしている。その剥きだしの背中に仔猫が飛びかかり、バリバリバリなどという擬音も生やさしいくらいの勢いで肩まで駆け上がる。そして鼓膜が破れるくらいの勢いでニャアアーと鳴くのだ。殺意が湧きますよ。仔猫が生まれて数年は、わたしは猫が憎らしくてしょうがなかった。痛い思いをしたからだ。心安らぐことなどまったくなかった。わたしも若くて余裕がなかったんでしょうね。餌はやってたしトイレの世話はしていたが、まったく心は通っていなかった。

それが……何年かして、猫が落ちついた。窓際にケツを向けて座り、ぼーっと外を眺めている。「どうしたんだい、何か見えるかい」そう訊くと尻尾を揺らす。「何か面白いものが見えたら教えてくれたまえ」また尻尾が揺れる。そんなテンポがばっちり噛み合って、猫との生活がしっくりくるようになってしまった。猫はわたしの話をよく聞いてくれた。小説のアイデアが降ってきたときなど、興奮してそのプロットを話す。猫はそっぽを向いて、尻尾だけ振っていた。それが心地良かった。

猫というのがどういう存在か。居なくなってみてそれがはっきりとわかる。「居る」こと。それが生活の中に組み合わさっていること。寝ているときに決して猫の方には寝返りを打たないこと。闇夜の中で目覚めたときは猫の位置を確かめるまで起き上がらない。戸棚を開けるときは猫を遠ざけてから開ける。ドアを締めるときは猫を挟まないようにする。これらの動作は猫が「居る」あいだにしか意味がなく、そして本人も気づかない。居なくなってはじめて生活の中の動作のすべてが猫中心に構築されていたことに気づくのだ。それは猫がいなくなってからやっと気づけたことだが。

19歳10ヶ月生きた猫が倒れたのは、17歳のときのこと。

玄関までわたしを迎えにきた猫が、途中でばったりと横倒しに倒れた。それまで病気など何一つしなかった猫だ。あわてるなんてものではなかった。ダッシュで動物病院に駆け込んだら医者が驚いた。病状の重さに驚いたのではない。「短毛種の寿命は15年くらいだよ。この猫ちゃんは頑張っていきてるねぇ」。そして基本的な診療を終えたあと、わたしにこう云った。「年寄りの猫にとってはこんな病院に来ることさえすごくストレスになる。なるべく家で、慌てず騒がず、最後まで面倒を診てやりなさい」。わたしはこの医者を名医中の名医だと思っている。わたしはこの医者のアドバイスに全力で従った。あとで死ぬほどそのことを後悔することになる。薬づけにして、あと一ヶ月でも余分に生きさせればよかったと思った。そうしたらしたで、絶対に後悔しただろうけれども。

ともあれ17歳のときに猫が「倒れてくれた」のはわたしにとっては幸運中の幸運だった。猫というのがどれほどやせ我慢する存在か、自分の不調を表に出したがらない存在か、その後の3年間で厭というほど痛感した。元気だった猫がある日ばったり倒れてそれきり死んでしまったら。わたしのこころは完膚無きまでに破壊されたろうし、こんな文章も書かれることはなかっただろう。「いつか確実にこの猫は死ぬ。それは明日かも知れない」残された3年間、わたしは毎日そう思いながら生きた。そうして3年だけでもおまけの日々をもらったことがどれほどわたしを成長させてくれたか。わたしがむかしよりも多少なりとも大人になっているとしたら、その功はすべてニャーにある。

それからの老猫との3年間はとても幸せだった。

猫は一日中、同じ場所に座りつづけるようになった。かと思うと夜中に徘徊するようになった。そのうちトイレで排泄ができなくなった。仕方なくて家のすべてにペット用シートを敷いた。干したての布団ですら猫の標的になった。わたしの部屋は365日猫の尿の匂いがしていた。真夜中に激しい鳴き声で起こされたことも数知れない。仔猫のようにまとわりつくかと思うと、飼い主を忘れた様子のときもあった。猫を置いて仕事にでかけるたびに、帰ってきたときには死んでいるかもしれないと思った。その日々のすべてが思い返すと愛おしい。「猫と共に生きた」としみじみ実感できるのは、猫が倒れたあとの3年間のほうだ。

だからわたしは仔猫の可愛さというのが未だにピンとこないのだ。YouTubeで動画を見ていればかわいいと思う。でもあんなの(!)がそばにいたらうっとうしくてたまらんだろう。わたしは飼い猫のほとんどを愛したが、仔猫時代は嫌いだった。思いだすと血と傷の記憶しかない。

わたしは幼い頃に母を亡くしている。その死に方が未だに許せない。ある日小学校から帰ってくると家の前に救急車が止まっていて、数時間後に父親から母が死んだと聞かされた。そんな死に方があるか、莫迦。「北の国から」や「ガーディアンズオブギャラクシー」で母親が死ぬシーンがわたしは羨ましくてたまらなかった。蒼白な顔でベッドに横たわり、細い手で子供の手を握り「強く生きるのよ……」などと母親が云う。わたしはそんなこと云われてもいない。母の最後の瞬間すら見ていない。

猫はわたしのすぐ隣で死んだ。死んだときのことは書きたくない。だけどはっきり覚えている。ペット葬儀社に電話して、骨にして、その骨を家に持ち帰ったところまですべて覚えている。それがどれほどありがたいことか。わたしは猫の死を3年も抱けたのだ。母の死は1日だった。だからたぶん、猫が死んだときにわたしははじめて生き物が死ぬことを実感していたのだ。葬儀の日は晴れていた。青い空を見上げながら、初音ミクの『サイハテ』を聴いて、とめどなく涙を流した。

こういうことを書くと鬼畜、とか心がない、とか云われるかも知れない。わたしは猫が死んでよかったと思う。永遠に生きていたならば、それはどこまでいっても可愛い生物だった。猫は死んで永久に解けない謎に変わった。生きる意味に変わった。その存在がいなくなっても残る愛情を教えてくれた。わたしにとって猫は、友達であり、恋人であり、そしてなによりも生涯得難い教師だった。

もう涙で前がよく見えなくなってきたので、適当に終わらせる。猫が亡くなる、半月ほど前のことだ。

わたしは絶望していた。猫はいつ死ぬかも知れず、仕事も上手くいっていなかった。唯一の脱出の手がかりである小説が、その夜、行き詰まった。天才の成果物であるはずのその作品は、その実、ただの駄作だった。本気で本気のどん詰まりだった。その夜は珍しく自分のことで頭がいっぱいだった。睡眠薬を飲んで眠ったが、二時間で目が覚めて、ベッドの上で半身を起こして、悶々としていた。そのまま姿勢をかけらも動かさず彫像のように固まって、30分ほどが過ぎただろうか。

あれ? 猫はどうした?

その頃の猫は毎夜、夜泣きを繰り返していた。夜中になれば泣き叫んでわたしは数日まともに眠れた試しがない。それなのに猫の鳴き声がしない。気配もない。

ふっと横を見たわたしはぎょっとした。闇夜の中で、猫の瞳がふたつ輝いてこちらを見つめていたのだ。30分。そのあいだ、猫はまったく鳴かなかった。気配を感じさせもしなかった。おそらくは病魔が身体を奥底まで蝕んでいたはずだ。鳴かずにはいられなかったのだ。夜の部屋をぐるぐると回らずにいられなかったのだ。

その猫が、黙って、ひたすらに、わたしの横顔を見つめていた。この世に神さまがいなくなって構わない。祈りのことばは知らなくても、あの時の猫のメッセージだけは誤って受け取りようがない。おまえは大丈夫かと。生きていけるのかと。問いかけるように猫は見つめていた。わたしを心配していた。残り半月しか寿命のない猫が。

この世には奇蹟がある。でもきっと人は、死ぬほど苦い思いと共にしか、そのことを受け入れられないのだと思う。

つまらない文章を書いた。許して下さい。

(了)


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