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★キャンピングカー生活まであと212日★「誰が為に記事を書く?」

あした何の日?

こんばんは。
私がNoteに出逢い、そして記事を書き始め、このキャンピングカー生活までのカウントダウン記事のシリーズを始めてから2ヶ月が経ちました。

最初に書き始めたのが4月2日。
Twitterか何かで「カウントダウン記事とか書いたら面白いかな?」的なことを呟いたのがきっかけで、そこから知り合いに「ぜひ書いて欲しい」との声をいただいたのが始まりでした。

早速その声をもらって、当日に記事を一つ投稿。

今までブログを立ち上げたり、中学時代にはネット小説に手を出してみたり、文章を使った活動をするも続かなかった自分が、2ヶ月毎日投稿(2回だけお休みしましたが)できたのを、まずは褒めてあげたいと思います。

文章に関わる事に限らず、継続が本当に苦手で今まで挫折することも多くありました。

今回の題名にも「誰がために」という言葉を使ったように「このシリーズは一体何のためにやっているんだろう」と迷いが生じてしまっている部分もあります。
でも、なんとしてもキャンピングカー生活を始める来年の元旦までは走り切る所存。この信念というか、一貫性、エネルギーはどこから来ているのだろうか。

意地?
そうかもしれない。

喪失感の恐怖?
一度やめたら返ってこれないかも。

「今日はサボっちゃおうかな」
そう思った日も少なからずありました。
Note以外にもやることが多い日や、ずっと人といて家に帰るのが遅い日などは執筆の時間を取ることを意識するとしんどいこともありました。
特にほぼ2日に1回のペースでやってくる仕事の日。ずっと車内で途中にある休憩時間は食事と仮眠に充てたいけれど、Noteを書くためにその時間も削り、調整し、いつも執筆しています。

「良いテーマ浮かばないな」
集中して書けるテーマでは無いときは無理やり書き上げている感があり、これなら書かない方がマシなのでは…とか思う時もあって。
だからといって仕事のように「質の良いものを書かなくては」と自分を追い込みすぎないように。
SNSなどでテーマ募集しても、回答してくれる人はほんの一握りで「やっぱり自分で考えないとダメかぁ」と思ったり。

「自分のやることは意義があるのか」
文章を書くことは識字率の高い日本においては、誰しもができることです。
しかも昨今はSNSの普及で「文字」より「画像や映像」のような視覚的なコンテンツが求められる時代。

文章生成AIなんかもこれから出てくる中で、
「自分がやっていることは時代に逆行していないか?」
「自分の文章を誰が見てくれてるんだろうか」
「あと数百日を終えた先に何も待っていないのでは」

得体の知れない不安・迷い・虚無感が自身の体内をグルグルと巡ります。

・・・

余談ですがAIや自動化のことを考えると、私は結構ストレスのようなものを感じます。
なぜなら「自分がやりたいこと、好きなこと」がAIにとって変わられそうな気がしているから。

巷でAIに取られない仕事を紹介している記事や動画もありますが、知識として理解したとしても、自分が「やりたい」と思う感情は消えないから。

それこそ、結局また我慢して働くんか?と思う。
世の中、人間が存在する限り理屈だけじゃないのに、現実を突きつけようとしてくるAIの存在にアレルギーを感じます。

マクロとして社会を潤すためのAI、それはミクロとして人々の生活を枯らすAI。
なぜ、この矛盾が成り立とうとしているのか。

・・・

「自分は誰かに見てもらえているだろうか」
別に誰かに認めてもらうためにNoteを書いているわけではない。
別に誰かから対価を得てNoteを書いているわけではない。

そう、それはつまり自己満足。
この言葉を見ると、時に虚しい気持ちを抱きます。

そして裏に隠れている、承認欲求。

自己満足じゃなかった、自己不満足だった。
自分の心は、やはり外部からの承認を求めて止まない。
そう思って書いているわけじゃないのに。

今、どう思っている?

Noteは当たり前ですが、インターネットを通じて「文字の羅列」を視覚的に認識しているに過ぎません。

そこにリアルな体温はないし、相互のコミュニケーションもありません。

自分で書きながら思うのです。
文章や言葉は好きだ。だけどどこまでいっても、自分が書いて完結する状態では100%満たされることはない。

それは文章や記事という性質が持つ一方性によるものだと。

しかし、付け焼き刃のようにいいねボタンがある。
直感的に「誰かに見てもらえている」ことが分かる。
だけどその誰かに「どう思われている」かが分からない。

その反面、SNSやリアルで繋がっている人に「Note見てるよ」「すごいね」「応援してる」と一言コメントをもらうだけで私は救われている。

あぁ、やっぱり私が満たされるのは、誰かの体温を感じられる、直接自分に向いた言葉をもらったときだ。そう気づいたんです。

それを考えると、今まで一回でも声をかけてくれた人たちのことを常に思いながら記事を書いている。

そこに今Giveが生まれていなくても、独りよがりでも、もうその人が見てくれていなくても。

私が私たる存在証明の一つにNoteを使っているのかもしれない。
確証はないが、Noteを続けていく先にさらなる自分自身を見つけられるかもしれない。

だから私は、これからも私のために記事を書く。
それが誰かのためになる、その日まで。

あなたに、ありがとう。

<<<あと212日>>>
「100%人のため」は嘘つきの言葉

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