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『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA)を全文公開[第五章 二つの調味料]

『おいしいものには理由がある』という本の全文公開です。単行本に写真は入っていませんが、note用に入れています。末尾に入っている動画はダイヤモンド・オンライン掲載時のものです。(写真/志賀元清 動画/志賀元清 樋口直哉)

第五章 二つの調味料

日本のウスターソース──〈ウスターソース〉 浜松 鳥居食品

 ウスターソースは和の調味料なのか、それとも外国の調味料なのか。
 ウスターソースは元々、イギリスのウスターシャー州で生まれた。今も元祖の形を残すリーペリン・ウスターソースは、アンチョビやタマリンドなどが入ったもので、さらっとしてシャープな味。
 明治時代に日本に入ってきた頃は洋式醬油と呼ばれていたソースはやがて、神戸や大阪をはじめ日本各地で製造がはじまる。関西では三ツ矢ソースやイカリソース、関東ではブルドックソース、中部ではカゴメソースが生まれ、それぞれの味をつくった。
 戦時中に海軍や陸軍食にコロッケなどの洋食がとり入れられたことでソースは日本人のなじ 食卓に完全に定着する。濃い焦げ茶色は馴染みのある醬油に似せるため、特徴的な果物の甘さは戦時中の甘味不足の反動から次第に甘みが強くなっていったという話だ。
 日本のウスターソースは濃い焦げ茶色をした甘味と旨味が強いマイルドな味で、本家本元とは似ても似つかない。日本人の好みにあうようにアンチョビを昆布に置きかえるなど して、日本独特の調味料に進化してきた。もはやウスターソースは和の調味料といっていい。外国の文化を輸入して、独自のものに昇華していくのは日本人のお家芸なのだ。
  時代は下り一九六四年、関東でキッコーマンが中濃ソースを発売する。ところで「ウスターソース」「中濃ソース」「とんかつソース」の違いはご存じだろうか。日本農林規格 (JAS)でウスターソース、中濃ソース、濃厚ソース(とんかつソースやお好み焼きソ ース)は粘度によって分類されている。メーカーによって加える材料に違いはあれども、 とろみのつけ具合で分類が変わる。
 お好み焼きやたこ焼き、串カツといった食べ物を好む関西ではウスターソースを中心に、 醬油文化が根強い関東以北では中濃ソース一本でとりあえずまかなうという文化圏が形成された。
 ソースの世界は地域性が強く、旅をしていると思いもかけない食文化と遭遇することがある。例えば九州や福井、それから和歌山では天ぷらにソースをかけて食べるのだが、外 の人から見ると「天つゆじゃないの?」と少し不思議だ。
 地域に応じて人気のメーカーも違う。例えば関東ではブルドックソースが有名だが、関西でのシェアは低い。逆に東京で関西のイカリやオリバー、ヘルメスといったソースを見かけることは少ない。中部ではカゴメやコーミソースが強い、といった具合だ。「地ソース」という言葉があるが、一説によると全国には百三十社ほどのソースメーカーがあるそうで、それぞれに地元の味がある。
 ソースの味は一般的に東へ行くほど辛く、西へ行くほど甘いという。その中間にある浜松の鳥居食品が製造している『トリイのウスターソース』は地元静岡では知られたソースだ。

 鳥居食品の創業は大正十三年。もともとは遠州名物の大根を使った沢庵漬けなどを製造していた。好奇心旺盛で新しいもの好きだった創業者の鳥居徳治がソース事業をはじめ、跡を継いだ二代目の謙一が学校や自衛隊、ホンダやヤマハ、スズキなど浜松にあった企業工場の食堂へ販路を広げた。
 浜松駅から歩いて鳥居食品に向かう。駅からほど近い場所にある住宅街に工場はあり、近づくにつれてソースの匂いがしてくる。
 三代目、鳥居大資社長が出迎えてくれた。
「まずは工場を見てもらったほうがいいですかね」
 工場は古く、釜も大きなものではない。
「年季の入った工場ですね」
 「古いでしょう。さすがにもういいか、と今、新しい工場を準備しているところです」
(2018年12月追記 現在は新工場が稼働している)
 ちょうど釜に切った野菜が次々と投入されていくところだった。

「ピューレや粉末を使ってコストダウンをはかっているところもありますが、うちでは創業当時から生の野菜からソースを仕込んでいます。実はうちも昔は一部試してみたこともあるんですが、やはり生のほうがいいということで今は可能な限り、地元浜松産の野菜を使用しています」
 野菜はじっくり加熱して、甘みと旨味を引き出す。中濃ソースの原材料のうち、野菜は四割を占める。
 充分に柔らかくなった野菜は粉砕され、他の材料を加えて煮込まれる。濾してしまうのではないから、野菜の味がそのまま残っている、というわけだ。他の材料も砂糖は鹿児島の種子島産粗糖などをはじめ、産地が明らかなもの。煮込みには四時間以上かかり、酢は高温で煮込むと揮発してしまうので、温度管理も重要になってくる。
 この酢がソースにとって重要な存在である。
「ソースってお酢なんですよね」
 と鳥居は説明する。使用する酢は地元の酒蔵の吟醸酒の酒粕から二ヵ月かけてつくったもの。実はソースの二割は酢が占めているので、おろそかにはできない。見学させてもらった醸造酢の工場では米酢の他、みかん酢なども製造されていた。
「お酢も自社製造なんですね」
「付き合いのあった製造元が辞めてしまったんで『じゃあ、自分たちでやろう』と。それからずっと自社でやっています」
 ソースが煮上がったところで香辛料をつけこむ。香辛料を入れると一気にあのソースの香りになる。馴染みのある匂いだ。
「大手さんですと粉末だと思うんですが、うちは先代からホールスパイスを使っています。お茶を想像してもらいたいんですけど、粉よりもホールのままのほうが苦みとか出ない。粉末だとやっぱり雑味が出やすいんですね。原形のほうがやさしい味わいになるんです。ただ、量が必要なんでもったいないなと思うこともありますけれど」
 香辛料の風味がうつったソースはさらに木桶で熟成される。トリイソースの大きな特徴になっている二度目の熟成工程である。木桶で熟成させているソースメーカーは珍しい。
「手前の二つの桶は九十年もので、奥が比較的新しい桶です。最低、一ヵ月は熟成することによって味がさらにまろやかになります。木桶を使うメリットは正直、科学的にはわかりません。ただ、味が違うことは確かです」
 トリイのウスターソースは昆布と鰹節のだしをベースに、野菜の甘味とレモンの酸味が効いた爽やかな味だ。木桶によってその味わいはより日本的になる。

 直売所兼事務所で、さらにお話を伺う。鳥居は慶應義塾大学を卒業後、スタンフォード大学大学院で国際関係論を学び、帰国後は商社で働いた。サラリーマン生活は楽しかった、 と語る鳥居は GE(ゼネラル・エレクトリック)社に転職する。
「商社で企業研究をしていたんですが、その対象が GE だったんですよ。それで興味を持って、たまたま募集をかけていることを知ったんです。同僚と『募集があるみたいだか ら、みんなで受けてみるか』という話になって、応募してみたんですけど、どうやら本当 に受けたのは私だけだったみたいで」
 鳥居は苦笑する。
「転職した当時の GE はジャック・ウェルチがトップにいて、おもしろい会社でした」
 鳥居は (CAS)に配属された。CAS は全世界にある GE グルー プ企業の会計監査をする社内組織だ。 一つの会社に四ヵ月、一年で三カ所というペースで会社を廻る。クライアント(CAS では自社のグループ企業もそう呼ぶ)との交渉やコミュニケーションから情報を整理し、 問題解決を提案するスキルも求められる。日本での仕事も悪くはなかったが、GE の世界 はまったく違うものだった。
  時には深夜、会社に忍び込み、クライアントが隠しているトラブルを見つけることもあった。なんだか子供の頃に見たスパイ映画みたいで刺激的な毎日は、あっという間に過ぎていった。
 もちろん楽しいことばかりではなかった。二〇〇一年にアメリカ同時多発テロ事件が起きた時、鳥居は勤務地だったニューヨークにいた。
「911 の時はワールドトレードセンターから五十メートルほど離れたビルの六階で仕 事をしていました。窓から見上げると煙がありましたが、職場は『またテロか』くらいの雰囲気ではじめはみんな落ち着いていました。そうこうしているうちに上空からすごい量の紙が落ちてき たんです。それが投資銀行の社内文書だったのでこれは大変なことになったぞ、と」
 次の瞬間、二機目の飛行機がビルに突っ込んだ。爆発音が響いた。
「ノートPC と書類を持って、階段で避難しました。チームで行動したからか、落ち着いて対処できたことを憶えています。けれど、ワールドトレードセンタービル崩壊後はオ フィスの入っていたビルも立ち入り禁止になり二度と戻れませんでした」
 それからしばらくして、実家から「父親が倒れた」と連絡があった。動脈瘤 破裂だった。病院に担ぎ込まれ、長時間の手術で一命はとりとめたものの、仕事ができる状態ではなかった。
彼は急遽、帰国し、実家の鳥居食品に戻った。
「家業を継ぐ、という選択に抵抗はなかったんですか?」
 僕がそう質問すると、彼は腕を組んでしばらく考えてからゆったりとした口調で答えた。
「それほどでもなかったですね」と彼は答えた。「GE 時代は起業して、どんな事業をしようか、という話をする野心家の同僚に囲まれていたので、むしろ自分がこの会社を舵取りし、なにができるかというのが楽しみでした」
 若い彼には野心があった。企業財務については理解しているし、自分の実力を試すには 会社の大きさもちょうどいい。 帰国の翌年、彼は三代目として代表取締役社長に就任する。
 「食品業界は利益率が低いので、外資は手を出さない。逆に言えば利益を求めなければ、 安定していると言えます。ソース業界の産業規模は縮小傾向にあったのですが、数年前からは六百億円ちょっとで落ち着いています。だから、僕からみれば悪い選択ではなかった」
 会社を変える自信があった。当時、鳥居食品の卸先は業務用製品を使う地元店がほとんどだった。工場や社員食堂の需要も拡大は望めず、売り上げは減少傾向にあった。社員は 高齢化が進み、設備も老朽化している。ソースを熟成させる桶は今となっては珍しくなった木桶で、創業以来使い続けてきたものだったし、製品はガラス瓶に古い充塡機で一つ一つ手で詰めていた。
「問題は GE のような大企業でやってきたことが日本の零細企業では役に立たなかったことです。なんとかなると思っていたんですけど。ただ、設備の償却は終わっていて、手形や借入はなかったんですよ。父親が設備投資をしなかったのはひょっとすると廃業の可能性も視野に入れていたのかも知れない」
 鳥居は現状の分析をはじめた。地方のソースメーカーが生き残れるか否か。現状では少量しか生産できないが、逆に顧客に応じたソースを提供できる会社にしよう。そのためにはまず業務用に偏った売上比率をなんとかしなければいけない。
 しかし、社内で話すと自分よりも遥かに年上の社員は複雑な表情だった。
「業務用のお客様はうちが昔から取引しているところがほとんどです。その恩義があります」
 会社の方針を変えるのは容易ではなかった。顧客のアンケートで一番多い意見は「容器の液垂れ」の不満だった。しかし、大手が使うようなプラスチック容器には様々な特許技術が用いられ、中小零細企業に手が出せるものではなかった。
 朝、出勤して、机に向かう。目指すべき会社のイメージはできているのに、誰を呼んでどんな仕事を頼めばいいのかがわからない。
 あの自信が錯覚だったとわかるのに、時間はそれほどかからなかった。彼はなにもできない自分に気づいた。
「結局、改革するのではなく、時間をかけて家業と向き合う道を選びました。ソースの味は様々です。とんかつ店などはオリジナルな配合のソースをうちのような会社に依頼し、さらにそれを自分の店で混ぜたりして独自の味を出しています。自分はソース屋として生まれましたが、ソース作りに関しては素人同然でした」
 社長に就任したばかりの二〇〇四年、浜名湖花博が開催されることになり、地元の農協から地元の野菜を使ってソースをつくってもらえませんか? という話が来た。
 そもそも浜松は野菜作りが盛んな土地だ。それがきっかけになり、鳥居は材料を地元のものに切り替えていった。それが売りになるかもしれない。
 ソース作りは奥が深かった。ちょっとおいしいものをつくろうと思えば、手作業が多くなる。時代を逆行するように手作りに回帰したが、業務は少しずつ効率化を進めた。伝票作業や配達方法を見直した。また、それまでは醬油なども手がかけていたが、採算性が低かったのでやめるなど、本業であるソース作りに注力できる体制をつくっていった。父親は跡を継いだ鳥居に口を出さなかった。
 やがて、社員の世代交代も進んだ。
「商品の中身はなかなか手をつけられなかったので、最初に変えたのはパッケージでした。社長になって四年目の二〇〇七年のことです」
 箱型のパッケージは、ラベルを貼る手間を軽減できるし、小売店でも目立つ。厚紙が底と側面をカバーしているので瓶も割れにくい。リユース瓶で環境面でもアピールできる。瓶という不便さを強みに変えた。
「ある時、地元の主婦を対象に『ソースを使う料理はなんですか?』というアンケートをとったんですよ。一位はカレーで、二位はハンバーグでした。なるほど、という結果でしょう。ところが三位にオムライスが入っていたんです」
「オムライス?」
「ええ。自分はケチャップをかけるだけですし、洋食店もほとんどがそうじゃないでしょうか。アンケートを読むとケチャップの酸味が苦手、味が濃すぎる、という想いを抱かれた方が結構いた。これは商品になるかも、と」
 鳥居は早速、オムライス専用ソースの開発に着手した。以前、素材の味を引き立てることに重点を置いて開発した『洋食屋の基本ソース』をベースにトマトなどを加えて『オムライスをおいしくするソース』ができあがった。
「周りは『ケチャップで充分ですよ。売れないんじゃないですか?』と首をかしげましたし、野菜を一杯使っているので瓶から出づらいという問題点もありました。だけど、発売するとこれがヒットしてくれたんです」
『オムライスをおいしくするソース』はヒットし、今では年間で一万五千本を超す人気商品だ。瓶から出づらいという難点も「それだけ野菜を一杯使っているんですね」と好意的に受け止められた。
 鳥居は大きな手応えを得た。それからは毎年のように新製品を世に出していった。家でカレーを食べる時に子供にあわせて甘口をつくっているけれど、辛口がいいという大人に向けて『カレーがからくおいしくなるスパイス』というカレー専用ソースを、地元の特産品であるみかん果汁でつくった酢と県産のだいだい果汁と醬油をあわせた『トリイのポン酢』を、という具合に。
「ポン酢も売れてくれましたね。地元の柑橘類を使っているんで評判もいいですし、おいしいですよ」

 二〇一〇年、料理の専門雑誌『料理通信』で『昔ながらのウスターソース』が「全国お宝食材コンテスト」の選定品の一つに選ばれた。人気のバー、ロックフィッシュの店主間口一就は「チョコレートを感じる。甘味、旨味、香り、いずれも申し分なくおいしい」と評した。集められた全二百五十七点のなかで総合四位と高い評価だった。
 ただ、雑誌に掲載された鼎談で審査員の一人、フードジャーナリストの向笠千恵子に

(略)昔ながらのウスターソースは、味も生産者の姿勢もいいのに、カラメル色素が
入っているのがちょっと残念でしたね。

 と指摘された。小売店代表として審査員を務めたスーパーマーケット、エスカマーレの常務取締役、阿出川光俊が続ける。

着色料は難しいです。以前、お正月に天然色素だけを使った紅白のかまぼこを仕入
れたんですが、三が日まで色が持たないんです。クレームがひどくて、それ以降は仕入れなくなりました。カラメル色素を入れているのも、何か理由があるのかもしれませんね。しかし、入れずに作っているメーカーもなかにはありますから、思い切って見学に行くなり、オープンに情報が共有できるといいですね。((『料理通信』/ 2010 年 月号))

 カラメルはウスターソース特有の醬油のような色を出すのに欠かせない材料である。カラメル色素はI類からIV類に区分されているが、もっとも広く使われているI類は家庭でプリンなどをつくるときに使うカラメルと全く同じものである。安全性という点でもなんの問題もない。
 しかし、食文化研究の第一人者で、農水省の「農山漁村の郷土料理百選」選定委員や「本場の本物審査」専門委員などを務める向笠の指摘は鳥居の心に刺さった。カラメル色素が食品添加物であることは事実だからだ。『オムライスをおいしくするソース』は無添加を実現していたが、ソース類についてはまだ十分ではなかった。
「だったら抜こう、と。簡単に思っていたんですけど、結局新しい味をつくるのに四年かかってしまいました。結果的にはカラメルを自前でつくることで無添加と名乗れるようになりましたし、甘みなどの調整ができるメリットもありました。中濃ソースの澱粉に選んだのは米粉です。これならお客様に説明できるだろう、と」
 カラメルを自前で製造することで、原材料表示は砂糖になった。これでとりあえずは無添加を名乗れるようになったが、鳥居はまだ「ソースとはなにか」について考え続けている。彼は熟考型の人間なのだ。
「新しいトリイソースは昆布と鰹節の味がするところが日本的だと思います」
 と僕が感想を述べると、鳥居を小さくうなずいてから考え込んだ。
「そこも難しいところなんですけどね。ただでさえ、うちのソースはパンチのない味なんですけど、鰹節を入れた途端に味が丸くなったんです。これは本当に驚きました。でも、これでようやくスタートできたという感じです」
 イギリスで生まれ、海を渡り進化を続けたウスターソースは日本の味と混ざり合い、日本のソースとなった。海外などに持っていくと日本のソースの味の評価は高く、新鮮な味と受け止められる。
「時々、祖父のことを考えます。創業者である祖父はどんな気持ちでソースを作っていたのだろうか、と。大正末期という時代、ソースは遠い異国の香りがする新しい調味料だったと思うんです」
 ソースの味には明治維新以後の日本人が歩いてきた道のり、西洋へ追いつこうとする前向きな情熱が込められている。もちろん、今は時代が違うので同じことはできない。でも、その志を受け継ぐことはできる。
「自分の性格なのかもしれないですけど、おかげさまで恵まれていたので、これまでゆっくりと地道にやってくることができました。なので、これからソースの良さを広めていくために他のメーカーの方たちとも協力していけたら、と思っています」

 取材を終えて階段を下りている途中で僕は最後に質問をした。
「家業を継がなかった自分って想像できますか」
 彼は笑いながら首を横に振った。日本の食品業界の多くが代替わりを迎えるなか、至るところで新しい試みが始まっている。ひたむきな努力を続けるメーカーがつくっている商品はしみじみおいしい。イギリスで生まれ、日本で育ったソース。穏やかで丸みのあるその味から、僕らはなにを学べるだろうか。

マヨネーズのある人生 ──〈マヨネーズ〉 埼玉県 ななくさの郷

 どんな人生にも分岐点となるような出来事があって、時に小さな決断がその後を決めてしまうこともある。しかし、道がわかれていたと気づくのは、時が過ぎてからだ。右ではなく、左を選んだことで、今の自分があるというような決定的な出来事であればあるほど、すぐにはわからない。

 日本のマヨネーズの歴史は一九二五年、キユーピーがつくった瓶入りマヨネーズにはじまると言われている。キユーピーは現在でもトップの会社で、業務用ではケンコーが後に続き、家庭用では味の素などもマヨネーズを製造し、全体のシェアのほとんどをこの三社が占める。
 外国人にも日本のマヨネーズは人気で、アメリカのプロ向けレシピサイトでも ‵‵
Japnese (Kewpie-style) Mayo "のレシピが公開されている。日本スタイルのマヨネーズの味に近づけるための秘密の材料は、ブドウ糖シロップとグルタミン酸ナトリウムだ。
 たしかに大手メーカーの製品はたいてい、原材料に〈調味料(アミノ酸等)〉が入っている。それが悪いというつもりはないが〈調味料〉の旨味が素材より強くても困る。
 化学調味料の入っていないマヨネーズが欲しい、となるといくつかの中小メーカーの製品を選ぶことになるが、なかでも自然な味を求める人たちが選ぶマヨネーズといえば、やはり『松田のマヨネーズ』だ。
 都内から車を走らせること一時間余り。『松田のマヨネーズ』の工場は群馬県との県境、埼玉県神川町にある。
 神川町は静かな山里で、工場の周りには畑が広がり、すぐ側には川が流れている。

 朝、六時。あたりはまだ暗い。早出のスタッフが出勤し、工場に灯りがつく。どこかの給食室くらいのこぢんまりとした広さの工場で、作業は卵を割るところからはじまる。
 工場には殻が割れるリズミカルな音が響く。この光景は創業の時から変わらない。使う卵はすべて手で割っているのだ。
 平飼いの卵は信頼する十軒ほどの養鶏家から仕入れている。割った卵に塩や香辛料、湯煎にかけてやわらかくしたハチミツなどを加え、攪拌し空気を抜く。そして、丁寧に濾すのだが、この時も余分な空気が入らないように注意が必要。油脂の酸化の原因となる空気はマヨネーズ作りの大敵なのだ。
「手で割るといいのは卵の状態を一つ一つ確認できること。卵は養鶏家の考え方、餌や時期、場所によってそれぞれ卵黄の色も違う。それをうまくバランスよく混ぜることで色を調整している」
 白髪に白髭をたくわえた社長の松田優正はゆっくりとした口調で話す。
 松田は元々、練馬区大泉学園で『ななくさ』という自然食品店を営んでいた。高度経済成長の歪みである公害問題などへの反省から七十年代なかば「JAC」(ジャパンアグリ カルチャーコミュニティ)や「大地を守る会」といったオーガニック食材を扱う独自の流通が生まれた。それまで放浪生活をしていた松田は「JAC」の仕入れに関わり、その後、 独立して店を構えたのだ。 

 八十年代、自然食品がブームになると五坪の店は繁盛した。店に並んでいた商品のなかには茂木の豆腐があった。
「茂木さんも昔は豆腐の製造を請け負ったりしていたんだけど、ある時契約を切られてしまってね。茂木さんを支えようってみんなで仕入れていた。だけど、こちらが助かったくらいだった。だって、安くておいしい豆腐が買えるんだもの。お客さんも喜んでくれるしね。あの人は僕にとっては飲み友達という感じだったけど、その考え方には影響を受けた。 それはいいものをつくれば売れる、ということ。茂木さんはいいものはいい、という確信を持っていた。彼の姿勢には僕も仕事をやっていくなかで、とても勇気づけられたな」 

 松田がマヨネーズづくりをはじめたのは、養鶏家から仕入れて卵が余ってしまうのがもったいない、と感じたことがきっかけだった。それまで食品加工の仕事経験はなかったが、 素材についてはよく知っていた。
 「マヨネーズって家でもボウルを使ってこう......つくるじゃない。その延長ではじめたから」
 松田がマヨネーズをつくると言ったとき、仲間は反対した。マヨネーズは高いお金を出 してまで買うような食べ物ではないからだ。
  なぜ、マヨネーズをつくりはじめたの?  と聞かれると松田は「貧乏時代にパンにマヨ ネーズをつけて食べるのが好きだったから」と答えていたが、松田自身もマヨネーズに特別な思い入れがあるわけではなかった。
 それまで食品加工の仕事をした経験もなかったが、本屋で見つけた『マヨネーズドレッ シング入門』という食品加工業界向けに書かれた本を片手に勉強した。すると、マヨネー ズという製品は JAS 法の告示や品質表示基準によって〈卵黄又は全卵を使用し、かつ必須原材料、卵黄、卵白、たん白加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料(アミノ酸 等)、及び香辛料抽出物以外の原材料を使用していないものであって、原材料に占める食 用植物油脂の重量の割合が六十五%以上のものをいう〉と定められていることがわかった。 つまり、マヨネーズの味の差は素材の違いなのだ。
 しばらくの試行錯誤の末『松田のマヨネーズ』は誕生する。一九八五年には新座市畑中 にあった仲間の倉庫を借りて工場を構えた。そこは雑木林と民家、近くに製本工場がある、 どちらかという雑然とした場所だった。
「今では混ぜるのには機械を使っているけど、それだって試行錯誤をしてつくった。はじめのうちはゴマ油を入れてみたり、ツバキ油を入れてみたりね。でも、結局、使える材料って考えていったらこれしか残らなかった。おいしいって言ってもらえるけど、それは安 心した材料、いい材料ばっかりを使っているから」
 通常、量産メーカーはバッチ式真空乳化装置を用いる。バッチ式というのはすべての材 料を一つの容器に入れ、空気を抜きながら一気に攪拌するものだ。一方、松田は三本の細いパイプで、卵液、油、酢というそれぞれの材料を少しずつ混ぜ合わせていく連続式と呼 ばれる乳化方法を選んだ。大量生産に向かない方法だが、やり方としては泡立て器とボウ ルを使った手作りと同じだからだ。

 材料の素性はすべてマヨネーズの包装の裏にきちんと書かれている。油は米澤製油の圧搾絞りなたね油、酢はオーガニックの純りんご酢、食塩は『海の精』、それとからし菜の種を粉末にしただけのマスタード、国産ニンニク、胡椒はオーガニックのホワイトペッパー(香辛料抽出物ではない!)。それに酸味と甘味のバランスをとるためのハチミツはロシア極東ウラジオストク周辺(ウスリースク)産の菩提樹ハチミツだ。
「マヨネーズには甘味を加えないと味がまとまらない。かといって砂糖は使いたくないので、自然の甘味ということでハチミツを入れたところ、りんご酢との相性が良かった。油は無添加サラダ油として、これが一番良い......という具合に使う材料は自然に決まっていきました。パッケージに材料について書いてあるのは裏を読んでもらって、食べ物に興味を持ってもらえたらっていうのもあるよね」
 このハチミツが松田のマヨネーズの味の特徴だが、後になってこれが松田に苦労をもたらすことになる。

 マヨネーズをつくることは養鶏家にもメリットをもたらした。平飼いはケージを用いた近代養鶏と違い、産卵にバラツキがでやすい。そこで複数の養鶏家から余剰な卵を優先的に仕入れることにした。そうすることで養鶏家のロスが減った。
 当初は製造品質にもバラツキがあり、おいしいとは言えないものもあった。それでも仲間たちは売ってくれ、お客さんも購入し続けてくれた。
「うちのマヨネーズには辛口と甘口の二種類があります。お客さんの好みです。甘口と辛口の違いはマスタードの量。甘口って言ったって、甘いわけじゃなくて、辛くないだけです。どちらかを選ぶ楽しみもあるし、両方の味をつくるのがお客さんのためだと思った」
「どちらが売れているんですか?」
「それは辛口。自分たちも辛口がおいしいって言っているしね」
 八時半に乳化の作業がはじまった。卵液となたね油とりんご酢が一つになり、みるみる乳濁液になってタンクに落ちていく。それを容器に充塡すればマヨネーズのできあがりだ。
 あとはパッケージに包装して、段ボールに詰めていく。ちなみに素敵なパッケージデザインは和田誠。卵を産み落としたばかりのニワトリのイラストは今にも鳴き出しそうな雰囲気である。
 工程自体はとてもシンプル。機械を使っているが、手仕事感がある。松田のマヨネーズは営業もしないし、在庫ももたない。
「スタッフを増やしたり、つくる量を増やしたりするとホームメイド感が薄れる。だから規模はこれ以上大きくするつもりもないんです」
 倉庫に米澤製油から届いたサラダ油のドラム缶があった。ホームメイド感といえば米澤製油を訪れた時にもその空気を感じた。

 松田のマヨネーズの原材料の一つ『なたねサラダ油』を製造している米澤製油は埼玉県、熊谷市の駅から車で十分あまりのやや入り組んだ道の先に本社と工場がある。明治二十五年の創業から今日までナタネ油を専門に扱っている会社だ。
大手の製油会社は輸入原料との兼ね合いから海沿いに工場を構えているが、同社は山に立地している。昔、近隣の農家たちがナタネを集めて搾っていた名残だ。
 昔、埼玉県には六十社ほどの製油工場があったのが現在は米澤製油一軒を残すのみである。
 米澤製油は生活クラブ生協と協力して、圧搾法のサラダ油を開発した。非遺伝子組み換えの原材料を使ったサラダ油を製造しているのは日本ではほとんどここだけだ。代表取締役の森田政男氏と技術顧問の山崎栄氏からお話を伺った。
「当社は一九六八年に起きたカネミ油症事件をきっかけに安心、安全な油の追求をはじめ ました。深刻な健康被害をもたらしたカネミ油症事件の原因はカネミ倉庫株式会社が製造した米ぬか油に混入した PCB(ポリ塩化ビフェニル)です。この PCB は当時、油脂の 脱臭工程で熱媒体として使われていました。そうした事件を受けて、うちでは化学製品を一切使わないと決めました。例えばサラダ油を抽出する際には通常、ノルマルヘキサンと いう石油製品が使われています」
 ノルマルヘキサンの現物を見せてもらう。匂いはベンジンに似ていかにも石油製品という印象だ。原材料から効率よく油分をとるため抽出という製法が生まれた。原材料にノルマルヘキサンを混ぜると、原料に含まれている油が溶け出す。加熱するとノルマルヘキサンは蒸発して油のみに分離される。これを繰り返すことで原材料から徹底的に油をとり出すことができるのだ。もちろんノルマルヘキサンは揮発性のため安全には問題がない。
「ノルマルヘキサンは混入する危険はありません。ただ私たちは事件の教訓から化学物質は使うべきではない、と考えました。当社は圧力をかけて搾る昔ながらの圧搾製法を守っています。また、サラダ油に精製していくためには通常、リン酸、シュウ酸、苛性ソーダ、活性白土など様々な化学製品を使います。うちではそうした添加物は一切使用しない代わりに『湯洗い』という方法で精製しています」
 湯洗いというのははじめて聞いたが、よく考えられた方法で、簡単にいえば薬品ではなく湯で汚れを落とすのだ。水と油は混ざらないのでその後、遠心分離器にかければ水分は除去できる。それにしても湯洗い製法と比べると市販のサラダ油は化学的な処理を経て、製造されていることがわかる。
「洗浄には井戸水を使っています。昔は十二回洗っていましたが、現在は技術も良くなったので六回です。その後、真空にして加熱する脱臭工程を経て製品になります」
 湯洗い製法でつくった『なたねサラダ油』はかすかに色がついている。ナタネ種子の葉緑素がかすかに残っているからだ。 大手メーカーの製品とは見た目の違いも一目瞭然だが、味わうとさらによくわかる。大 手メーカーの製品はべったりとしているが、米澤製油の油はさらりとしているのだ。
「うちの油は胃にもたれないという声も聞きます。お客様のなかに胃の手術をされた方が いました。その方は油物を身体が受けつけなくなっていたのですが、『お宅のなら食べら れる。天ぷらでもなんでも違和感がないので助かりました』というお声をいただきました。 そんなことってあるんだな、と。そう言っていただけるとうれしいですね。もちろん、油にした後も無添加です。シリコーンやクエン酸などを入れた製品は作っていません」
 外食産業で使用されている一斗缶入りの食用油はシリコーン入りが多い。消泡剤のシリ コーンを入れることで揚げたい食べ物を一度に大量に投入しても吹きこぼれることはない からだ。もちろん、シリコーンは使用が認められている食品添加物だ。
「シリコーンの問題点は」と顧問の山崎氏は言う。「泡が出ないので油の劣化の具合がわ からなくなることですね。本来の油はカニ泡が出てくるから劣化しているとわかるんです。い 必要以上の熱をかけず素材を活かし丁寧に作った油にはそもそもシリコーンやクエン酸は必要ないものです」
 外食や市販の惣菜を食べるともたれるというのは油が悪いからだ。現場で働いている人たちは油についてあまり意識していない。

 工場を見学し、まずは原料のナタネを見せてもらった。原材料は遺伝子組み換え
(GMO)ではないナタネのみを使っていて、他の材料は扱っていないので混入する危険はない。
「西オーストラリア産のナタネです。遺伝子組み換えでないものだけを扱っているので、コンテナの扱いなどコンタミ(混入)の危険性には最大限の注意を払っています。以前はカナダからも輸入していたのですがカナダでは九十六年に GMO の商業栽培が認められると一気に広まり、非遺伝子組み換えの入手が困難になりました。オーストラリアでも二〇〇九年に GMO 作物の栽培が認められましたが、非遺伝子組み換えにこだわっている生産者の方と協力して原料を確保しています」
 倉庫の奥には貴重な国産のナタネが積み上げられていた。
「生活クラブ生協さんと協力していくなかで、九十一年から国産原料を本格的に使いはじめました。青森県横浜町や北海道 滝上町でナタネの栽培がはじまり、うちで油を搾っています。現在のナタネの自給率は〇・〇三%ほどですが、当社はその半分を扱っていることになります」
 米澤製油は小さな会社だが、国産ナタネ油を支える大きな柱だ。ブレンドの他、国産百%のナタネサラダ油も製造している。比べてみるとオーストラリア産のナタネはサヤなどが一緒に混ぜられているが、国産はきれいに種だけに選別されているのが印象的だ。
「耕地面積の広さの違いや国民性の違いもあるんじゃないですか。あとオーストラリア産のほうが若干、若い状態で収穫していますね」
 ナタネは日本人にとって重要な作物だった。ナタネ栽培は江戸時代に大きく広がり、灯や食用油になった。今でも比叡山や伊勢神宮などでは灯りとしてナタネ油が用いられている。江戸の食文化を代表する「天ぷら」もナタネ油の普及とともに生まれたものだ。また日本の景観をつくる作物でもあった。「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)や「菜の花の四角に咲きぬ麦の中」(正岡子規)という句があるが、日本人は米の裏作として栽培されていた菜の花の美しさを愛してきた。しかし、在来のナタネに含まれるエルシン酸(エルカ酸)を大量摂取することで心臓障害が起こることがわかり、そうした景色は失われていった。
 そして、日本の油脂はほとんどが輸入原料に依存するようになる。ナタネづくりが復活したのは東北農業試験場が開発したエルシン酸をほとんど含まない『キザキノナタネ』という品種の登場によるところが大きい。その後もそうした品種がいくつか開発され、省力作物のナタネには高齢化する地方からの期待も大きく、全国各地でナタネを使った地域振興なども試みられている。
「国産と輸入品の価格差はどれくらいあるんですか?」
「国産品には国の助成金が付いたおかげで一・五倍ほどで済んでいます。ナタネは連作が利かず、また裏作の品目なので表作で農薬などを使ってしまうと有機の表示ができないという不利な点もあります。ナタネ栽培は基本的には無農薬なのですが、畑によっては他の作物で使っている場合もあるので」
 国産の比率を増やすことで自給率の向上にも繫がるし、春先の美しい里山の景観も守られる。ナタネは小さな種だが、そこに込められた想いは大きい。
 原材料のナタネをかじってみると青臭みがある。そこでまず焙煎することで風味を良くし、油が出やすくする。焙煎にはレンガ造りバーナー式の焙煎機を使っている。
「焙煎機は回していると温度が上がっていきますし、夏場と冬場など気温の変化によって焙煎温度は簡単に変わってしまいます。だから、こまめにチェックしないと」
 焙煎したナタネをローラーにかけて潰す。潰したナタネを圧搾機にかけていく。搾りたての油は香ばしく、風味もいい。ピーナッツ油にも似た香ばしさがある。江戸時代の天ぷらはこうした油で揚げていたのだと思うと、興味深い。

「これは搾りたてで、昔はみんなこの状態で使っていたわけですが、現代人にはちょっと匂いに癖がありすぎる。そこで精製していくわけです。精製した油にこの風味を生かした油を少しブレンドするといい風味になるんですけどね」
 搾りたての油からえぐみやレシチンなどを除去する「脱ガム」という工程の後、お湯と油を混ぜて攪拌する「湯洗い洗浄」を行う。そして脱臭の工程を経て、濾過すればサラダ油になる。濾過に使う濾紙は無漂白のものを十六枚重ねて使う。
「これが一番、確実なんです」と社長の森田は言う。「ただ無漂白のほうが高コストなんです。漂白したほうが安いって不思議な気もしますが」
  できたての油を味見させてもらった。後味が軽く、すぐに消えてくれる。後にはコク味だけが残る。こうして味わってみるとスーパーで売られている特売の油は何なのだろう、 と思う。安心、安全はもちろんだが、最大の違いはやはり味である。遺伝子組み換えの問題はともすると「賛成か反対か」という単純な二元論に陥ってしまい「おいしさ」という 視点が抜け落ちてしまう。
  米澤製油のサラダ油で料理をするとさらりとおいしい。オリーブオイルは万能だが個性 が強いので味の方向性がそれで決められてしまうがここの油は表に出ることがない。
「おいしさの理由はなんでしょうか」
 顧問の山崎に訊ねた。
「それを説明するのはなかなか難しいですね。というのは酸度や脂肪酸の組成といった分 析にかけられる数字では差が出ないからです。でも、さきほど森田が言ってましたけど、 ここのサラダ油ならもたれない、大丈夫というお客さんがいますからどこかに理由がある はずです。個人的な推測ですがこれに原因があると思う」
 彼はノルマルヘキサンの瓶を手にとった。
「抽出法の場合はノルマルヘキサンと原材料を混ぜて何度も加熱しますから、やはりそれ だけ熱にさらされます。精製すれば数字上は良くなるんですが、その影響はどこかにある のかもしれない。油の敵はとにかく熱と酸素です。圧搾方式だとこの影響を最小限に抑え ることができる。そういうことじゃないかな」
 油は熱を加えるたびに劣化していく。数字上は変わらなくても余分な熱が加えられない 分、その後の味に差が出るというところだろうか。搾った後の搾り粕も利用価値があって、 畑の肥料になる。ナタネは捨てるところが本当にない優れた作物だ。
「非遺伝子組み換え品ということ、それと薬品を使っていませんし、溶剤抽出もしていな いのでかなりの油分が残っています。そのため有機農家さんからは重宝されています。 時々、農家さんも見学に見えますよ」
  農家が自分たちのつくった菜種から油を搾ってくれと会社に持ち込むこともある。人と人の繫がりがわかる規模の会社だからこそできる仕事だ。

 選び抜かれた原材料でつくられた松田のマヨネーズは、その素朴なおいしさで支持を徐々に伸ばしていった。
 しかし、松田はどこか釈然としない気持ちを抱えていた。
 こんな風に材料を仕入れるだけでいいんだろうか。
 極端な話、自分はマヨネーズを作っているが、材料はお金を払って手に入れているだけだ、と松田は思った。自然食品店「ななくさ」には相変わらず契約している農家が丹誠込めて育てた野菜が並んでいる。同業者と研究会を開き、生産地を廻り、作り手の話を聞き、目だけは肥えていたが、実際のところを自分は食べ物のことが本当にわかっているんだろうか。
 昔、店をはじめたばかりの頃、客に無農薬野菜について説明していた時のことを松田は憶えていた。説明を聞き終えた客に〈でも、本当のところはどうなの? あなたが作っているわけじゃないんでしょ〉と言われたことがあった。
 信用してもらえなかったこともショックだったが、自信のなさを見透かされた気がしたのだ。自分たちが生きていく分くらいは、自らの手で食べ物をつくりたい。
 どこかいい場 所はないか、と松田は土地探しをはじめる。当初は温暖な南伊豆あたりに住みたいと考え ていた。温泉もあるし、山も海もある。ところがサラダ油の仕入先である米澤製油から連絡が入った。
 〈伊豆に油を運ぶとなると一泊ですよ。温泉に行くんじゃないんですから、配達料が相当高くなります〉
 それで南伊豆は諦めた。どうやら米澤製油がある熊谷からほど近いところがいい。しば らく探しているとヤマキ醸造の紹介で現在の土地が見つかった。新しく建てた工場に引っ 越したのは一九九三年のことだ。 小さな工場の赤い屋根にはお馴染みになったニワトリのイラストと〈松田のマヨネーズ〉と文字を入れた。その下には〈第一次産業の復活で国内自給率を高めよう 無農薬有機栽培で土作りから〉というスローガンを掲げた。


 「その頃は今ほど注文も多くなかったのでマヨネーズ作りをしながら、のんびりと畑仕事をする毎日だった。大豆や小麦を栽培し、醬油や味噌なども手作りした。近くに住む農家ともすぐに仲良くなったし。土から食べ物をつくることはおどろきの連続ですよ。種を蒔き、芽が出る......自然のサイクルを目の前にすると、自分の意識が変わっていくのがわかった。まず気象の変化に敏感になるでしょ。すると地球環境にも気を配るようになる。醬油をつくるために麴をつくれば、麴菌による命の営みの不思議さに心を動かされるよね、やっぱり」
 松田のところには多くの友人が遊びに来た。秋になって枝豆が収穫できればそれを茹でて、表に並べた椅子に腰を下ろし、ビールを飲みながら摘む。工場の裏手につくったピザ 釜で地粉と味噌麴で発酵させたピザを焼いた。
 遠くの山並みに陽が落ちてきて、色づきは じめた山の稜線をオレンジ色に染める。ひんやりとした風を感じながら仲間と食事をする ひとときは都会では味わえなかった。
 「自給自足はいいよ。みんな畑をやればいいんだ。我々は土から学ぶべきなんだと思うな」
 松田が熱く語ると彼らは笑った。
「みんなが自給自足をして、すべてを手作りしたら、マヨネーズが売れなくなるんじゃない?」
 「それでもいいんだ」と松田ははっきりと言った。「いつでも止めていいんだよ。それよりみんなが畑をやったほうがいい」
 しばらくは練馬の自然食品店と掛け持ちをしていたが、二〇〇一年には後任者に譲る形で自然食品店「ななくさ」を閉めた。その頃、マヨネーズは月平均五万四千本を生産するまでになっていた。
 これからはマヨネーズを作りながらのんびりと、土を触りながら生きていこうと決めた矢先。二〇〇三年のある日、松田のところに一通の封書が届いた。
 差出人の欄には「独立行政法人 農林水産消費技術センター」とあった。

先般、貴社の製品を買い上げて、加工食品品質表示基準(平成 年 3 月 日農林記水産省告示第 513 号)及びドレッシング品質表示基準(平成 年 月 日農林水 産省告示第 1667 号)に基づき検査を行った結果、下記のとおり不適合な点が認 められたので、改善されますようお知らせします。 なお、改善結果について、速やかに文書を持って報告されますようお願いします。
名 称 マヨネーズ
商品名 松田のマヨネーズ
内容量 300 g
不適合内容 マヨネーズの原材料として規定されていない「蜂蜜」を使用している

「突然の通知で驚きました。それまで十八年間なんの問題もなく販売していたのに『なん で?』っていう感じ」
 実はその少し前、品質表示基準が改まり、マヨネーズの成分表示が JAS 法に準ずる形に なった。
 JAS 法では糖類として砂糖、ぶどう糖、果糖、ぶどう糖果糖液糖、果糖ぶどう 糖液糖、砂糖混合ぶどう糖果糖液糖、砂糖混合果糖ぶどう糖液糖、及び水あめ等が挙げら れていたが、そのなかにハチミツは入っていない。製造業者は品質表示基準を守る義務が ある。二〇〇二年七月四日に改正された JAS 法では公表の弾力化と罰則の強化がされ たので、違反すると一年以下の懲役、または法人の場合一億円以下の罰金が科せられる、 とのことだった。
 安価なブドウ糖液糖などはよくて、自然のハチミツが認められないのはおかしい、と愛用者も異議の声をあげ、署名運動まで起きた。
「農林物資規格調査会というのがあるから意見を述べてくれ、と言うので農林水産省まで行ったなぁ」
  農林水産省の調査会で松田は「ハチミツの成分は果糖やブドウ糖、それにミネラルとい ったもので、定められている糖類と変わりない。また JAS 法はマヨネーズの定義がな い時代に、コストの高い卵や油を減らして澱粉などの増粘剤で補った質の悪い製品を取り 締まるために定められたものであり、ハチミツを加えることは品質の低下には繫がらず、 むしろ向上させるものである」と主張した。
「JAS 規格の第 9 節、調味料ドレッシングのなかの第 2 条マヨネーズの定義、及び第 3 条マヨネーズの規格、原材料の中に糖類と並んでハチミツを加えていただきたい」
 松田の主張は筋が通っていたので、調査会の人たちのあいだにもハチミツは認めてもいいのではないか、という空気が流れた。しかし、マヨネーズ協会から派遣された委員の一 人が「もう少し検討したほうがいいのではないか」と言った。
「ハチミツを入れるなら次は麦芽糖やメープルシロップはどうなる、という話になる。総合的に検討する必要があるのではないか」
 この意見によって、提案は流れた。松田には信じられなかった。なぜならすでに麦芽糖やメープルシロップは糖類と定められていたからだ。それで仕方がなく『松田のマヨネー ズ』を『松田のマヨネーズタイプ』という名前に変えて、販売を続けた。
 「その頃、食品の不正表示の問題もあってメディアから叩かれていた時期だったから、役所は役所で大変だったんだろうね。喧嘩をするつもりもなかったんだけど」
松田は苦笑する。年末になって農林水産消費技術センターから電話がかかってきた。本 省にも検討してもらったのだが、規格の変更は認められなかった、という話だった。 〈調査会が開かれるのは五年に一度なので、おそらく規格の変更が通るとしてもそのタイ ミングだと思います〉 同年の二月には愛用者や関係筋が声をあげ「『松田のマヨネーズ』はマヨネーズだ!の 会」が発足し、署名が集められた。五月には農水省に署名が届けられ、六月は調査委員に 陳情書が送付された。署名運動などが盛り上がったことで、この問題は新聞やテレビなど メディアに取りあげられた。

「こちら特報部 JAS 法 砂糖 OK、でもはちみつは...『マヨネーズ』表示ダメ!! 埼玉の業者に農水省が指導『マヨネーズタイプ』に『基準ありき』の〝必要悪〞」(東京新聞)
「『しょうゆ』『マヨネーズ』と名乗れません 加工食品づくり、JAS 法が足かせに」 (毎日新聞)
「マヨネーズと呼びたい 愛好家 農水省に改正要求」(共同通信)
等々......。 

「でも、話題になったことでうちを知って、製品を買ってくれた人もいて、そうした方が リピーターになってくれました。応援してくださったことはありがたかったですし、ハチミツ問題は自分たちのなかでは大きかったですね」
 署名をはじめさまざまな要望が出されたが、結局、JAS 法が改正されたのは五年後の 二〇〇八年三月のことだった。

卵黄又は全卵を使用し、かつ、必須原材料、卵黄、卵白、たん白加水分解物、食塩、砂糖類、はちみつ、香辛料、調味料(アミノ酸等)及び香辛料抽出物以外の原材料を使用していないものであって、原材料に占める食用植物油脂の重量の割合が 65%以上のものをいう。
(ドレッシングの日本農林規格 平成 年 月 日農林水産省告示第1503号)

 こうして『松田のマヨネーズ』は元通りのマヨネーズと名乗れるようになった。パッケージの裏面にも〈おかげさまで〝マヨネーズ〞です〉という言葉とお礼の文章が載せられている。
 この騒動は意外な副産物をもたらした。報道で『松田のマヨネーズ』を知った人
が「そんなにきちんとした材料でつくっているマヨネーズならちょっと食べてみたいな」とわざわざ探して、製品を購入してくれたのだ。松田のマヨネーズを一度食べた人はリピーターになり、生産量が増えた。

「マヨネーズをつくっていて一番苦労されたことは?」
  僕がそんな質問をすると松田は「そうねぇ」と考えこんだ。 「苦労は......ないなぁ」松田は笑って続けた。「苦労はないけど大変だったことはありま すよ。昔、マヨネーズの容器が膨らんだことがあったんです。あの時は大変だったかな。 いつも通り工場は清潔にしていたし、味にも問題はなかった」
「なにが原因だったんですか?」
 「結局、わからなかった。分析すると炭酸ガスとアルコールは出ているので菌が原因、と いうことは帰納法的にわかる。でも、いろんな検査機関で調べたけれど肝心な菌が検出さ れなかったんです。食べてもなんて事ないんですよ。保健所なんかが『サンプルくださ い』ってきてね。出すと『残りはおいしいんで食べました』って」
  松田はまた笑った。そして、ゆっくりとした口調で「食べ物を扱っていればいつでも膨らむ可能性はあるってことだと思うんですよ」と言った。マヨネーズの原料である卵からひよこが生まれ、やがてニワトリになるように、食べ物は生命そのものだ。生命にはまだわからないことがたくさんある、ということかもしれない。

 わからないと言えば人生も同じだ。最初に自然食品店を開いてからそれなりの月日が流れた。八十年代の自然食品ブームがあり、バブル崩壊があった。失われた十年があり、二十年が過ぎた。激動する日本経済とは関係なく、松田はマヨネーズを作り続けた。今では髭も髪の毛もまっ白だ。不思議なもので、いつでも止めていい、と思っていたマヨネーズ作りが、気がつけば人生のほとんどになっていた。

 松田は『松田のマヨネーズ』のパッケージの裏に〈百姓道〉という文章を載せている。

 限度を知り、多くを望まず野山海川の命を通して自然と共振し、今の経済に流されることなく、農のある確かな暮らし。人は土を耕し、土は人を耕す。

 ただ、こんな風に生きていきたい、と思っていた。きっと、それだけなのだ。

「僕は『食べ物は土から生まれる』というのを大事にしたいと思っているんです」

 松田は窓の外に視線を逃がした。土から生まれた食べ物が人の繫がりを育んでいく。今日も畑の真ん中に建っている工場にはゆるやかな時間が流れる。


撮影用の食材代として使わせていただきます。高い材料を使うレシピではないですが、サポートしていただけると助かります!