『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA)を全文公開[第一章 煙突の味〈醤油〉群馬県有田屋 木桶を守る 〈醤油〉小豆島 ヤマロク醤油]
『おいしいものには理由がある』という本の全文公開です。単行本に写真は入っていませんが、note用に入れています。末尾に入っている動画はダイヤモンド・オンライン掲載時のものです。(写真/志賀元清 動画/志賀元清 樋口直哉)
煙突の味── 〈醬油〉 群馬県 有田屋
どの国にも特有の匂いがある。
ニューヨークの空港はバターとコーヒーの香りがするし、パリの空港は香水とチーズの香りが漂っている。東南アジアの国々の空港には香草と魚醬、それにクローブが入った煙草の甘ったるい匂いが印象的だ。
日本を訪れた外国人の多くは「醬油の香りがする」と言う。しかし、僕ら日本人はそう思わない。嗅覚には疲労性という特徴があり、慣れてしまうと感じなくなってしまうからだ。身近な匂いは、かえって気づかかない。
醬油という調味料にも同じことが言えるかもしれない。醬油の製法は江戸時代に確立し、すぐに全国に広まった。その近代史は戦争に翻弄された歴史でもある。
醬油産業が大きな活況を呈したのは、第一次世界大戦後の好景気の頃。しかし、戦中から終戦にかけては一転、苦境に立たされる。深刻な食糧難によって、原材料の大豆や小麦の入手が難しくなったからだ。
その事態に対応するために考案されたのが大豆以外のタンパク質を主原料としたアミノ酸液で醸造した「アミノ酸醬油」だった。一九四〇年には丸大豆の使用が禁止され、業界最大手のキッコーマンは醬油の品質を落としたくない、と脱脂加工大豆による製法技術を開発、公開する。脱脂加工大豆には大きなメリットがあった。大豆油を搾った後の隙間に菌が入り込むことで発酵しやすく、丸大豆よりも旨味が強くなることがわかったのだ。
戦後、日本の醬油造りは脱脂加工大豆を使うことが主流になり、地域によっては戦時中につくられていたアミノ酸醬油も残った。
アミノ酸液は簡単にいうと「旨味成分を多く含んだ液体」だ。もろみの段階で加える混合醸造方式と、生醬油の段階で混ぜる混合方式の二種類があるが、いずれにせよアミノ酸液をブレンドし、さらに甘味料を加える事によって醬油は独特の味になる。九州や四国、北陸などを旅すると極端に甘い醬油に出会って驚くことがあるが、それらの地方では今でもアミノ酸液を使った醬油が親しまれている。
昭和三十年代後半になると「中小企業近代化促進法」という法律によって、中小メーカーは協業して醬油造りをするようになった。大手に対抗して材料を確保するためだ。協業体制は中小の作り手を守った反面、蔵元の仕事を共同工場から仕入れた生揚げ醬油(搾ったままの醬油)に火入れを施し、瓶詰めをするだけに変えた。
今では原材料から醬油をつくって いるメーカーは全体の一割しかない。 醬油のシェアは大手の五社でほとんど占められているが、それでも昔はそれぞれの土地、土地に醬油蔵があって、その地域の味をつくっていた。 料理店では醬油は「うちはヤマサです」「キッコーマンです」という具合に「これ」と 決めたら、それだけを使い続ける。店によって煮物出汁は十(出汁):一(醬油):一(み りん)、旨出汁は四(出汁):一(醬油):一(みりん)という具合に調味料の割合が決まっているので、そこを変えると味がぶれてしまうのだ。だから、料理人は意外と自分がお 世話になった店以外の醬油の味を知らない。
群馬県、安中市。大きな通りに並行して走る旧中山道沿いを歩くと、冷たい空気に醬油の香りを感じる。上州のからっ風が「有田屋」と書かれた濃紺の布看板を揺らしていた。
併設された直営のショップの隣にある蔵を改装したギャラリーで、同社の社長で七代目当主の湯浅康毅氏からお話を伺った。
「遠く片田舎の上州安中までお越しいただいて......」
湯浅社長は物腰柔らかく、上品な口調で話す。
歴史に詳しい方なら有田屋の三代目当主、湯浅治郎の名前を聞いたことがあるかもしれない。湯浅治郎は大河ドラマ『八重の桜』で描かれた新島襄の同志社(後の同志社大学)や徳富蘇峰の民友社を支援し、また内村鑑三のパトロンとしても知られる人物だ。
「内村鑑三さんならこの写真に写っていますよ」
ギャラリーにかけられた当時の写真を指さしながら湯浅は言う。
「醬油造りはお大尽のお仕事」という言葉がある。昔、酒蔵や味噌蔵、醬油蔵はお金持ちの家が多かった。醸造業は原料から商品になるまで時間がかかる。そのあいだも人件費などは捻出しなくてはいけないのだが、桶のなかで眠っているあいだは一銭の価値も生まない。
つまり、醸造業は元々ある程度の資金を持った人たちでないとできない仕事だったのだ。
今でも酒蔵や醬油蔵の経営者は町の名士であることが多い。有田屋を守る湯浅一族も例外ではない。
天保年間の大火で安中の菩提寺が消失し古文書の記録も失われてしまったため正確にはわからないが、湯浅家は元々紀州の出身だったようだ。紀州──現在の和歌山県の有田郡湯浅町は醬油醸造発祥の地である。
本店から道路を挟んだ向かい側に『便覧舎址』と刻まれた小さな石碑が建っている。便覧舎は三代目、湯浅治郎が開いた私設の図書館である。当時、館内には椅子とテーブルが置かれ、三千冊の和漢書や雑誌、さらには米国人から寄贈されたイラスト入りの雑誌まで、無料で自由に閲覧することができた。
治郎の後妻の初子は文豪、徳冨蘆花の姉。このあたりにも明治の知識人の交友関係が窺える。治郎の長男、湯浅一郎は洋画家で、次男三郎が四代目として家業を継ぎ、安中町長や県会議員として地方政治でも活躍した。五代目の正次は安中市長を務める一方、昭和二十二年に新島学園という学校法人を立ち上げている。六代目は太郎、今は一九六九年十月十日生まれの七代目、湯浅康毅が有田屋を引き継いでいる。つまり、湯浅家は地元の名家なのだ。
母屋と味噌蔵だった建物のあいだのスペースに、一九七八年式メルセデス・ベンツ・ウニモグが駐めてある。小さな子どもの身長くらいあるタイヤのトラックは、現在の有田屋の看板車だ。
通路を抜けると道路を挟んで母屋の裏手、敷地のほぼ中央に高いレンガ造りの煙突が見える。煙突は今は使われていないが醬油造りのシンボルである。
併設しているショップで販売している『お醬油屋さんのおだんご』を食べた。柔らかなうるち米の団子に有田屋の再仕込み醬油、またはそれを使ったみたらしタレが絡む。キリッと立った醬油の香りと柔らかな団子が絶品だ。みたらしもいいが、醬油焼きの香ばしさが印象に残った。
「せっかく醬油蔵に寄っていただくのですから醬油の味がわかる、おいしいものをお出ししようと思って」
湯浅は当初、家業を継ぐつもりはなく、大学生の時までは「姉が継ぐだろう」くらいに考えていたという。
「子供の頃はむしろ醬油屋に生まれたことが嫌でした」
歴史のある家の価値も子供にはわからないので、遊びに行く友達の新築の家が羨ましかった。この家に生まれて得をしたという記憶もない。中学生や高校生の頃は「社長」といあだな渾名で揶揄され、狭い町のなかでどこに行っても「有田屋のお坊ちゃん」と扱われることも嫌だった。
湯浅は新島学園高校を卒業後、アメリカのジョージ・ワシントン大学に進んだ。
「卒業を控えて、進路を選ぶ時期になりました。私はそのままアメリカで働くつもりでした。江戸時代から続く醬油蔵の息子であることは、特に誰にも話していませんでした。ある時、授業で自分の生い立ちについてプレゼンする機会があり、そこで有田屋の歴史を話 したのが最初です」
話を聞いた友人たちはみな感心した。
〈じゃあ、君は日本に帰ってその家業を継ぐんだね〉
親しくしている友人からそう訊ねられた湯浅は首を横に振った。
〈アメリカで働きたいと思っているから〉
何でもない一言のつもりだった。しかし、友人は顔色を変えた。
〈どうして? そんな歴史ある家業を継がないなんて、僕には理解できない〉
彼は怒って いるような口調で言った。
〈醬油という発酵食品にはミステリアスな魅力があると思う。 自分から見ると百年以上の伝統ある産業や職人の仕事が残っているのは羨ましいのに、そ ういうものを大事にしないっていうのは変だよ〉
わかってないな、と湯浅は思った。いや、どうしてわかってくれないのかな、という気持ちの方が強かった。
「その日の夕方、自分の部屋に戻っても、彼の言葉が引っかかっていました。外国人である彼が大事な日本の文化だと言ってくれているのに、自分は継ぐ気はないわけです。自分 の目にアメリカの文化は輝いて映りましたが、あるいは逆にアメリカ人から見れば日本の伝統はよく見えるのかもしれない。そんなことを考えていると、醬油蔵を継ぐのもいいかもしれないな、と思い直しました」
湯浅は日本に帰ると、まず大手スーパーに就職した。製造業がサービス業へと転換していく時代、流通の流れを反対側から見てみたい、と考えたのだ。
九十年代、世の中はグルメブームに浮かれていた。そんな消費者の変化を間近で感じられる職場は新鮮で、湯浅は充実した時を過ごした。イタリアのバルサミコ酢やオリーブオイルがスーパーの棚にも並ぶようになる一方、家庭での醬油の消費は落ち込み、代わりに冷蔵庫にはめんつゆやだし醬油、昆布醬油などのしょうゆ加工品が並ぶようになる。九四年からは一世帯当たりの年間支出金額でめんつゆ・たれ類が醬油を上回るようになった。
家庭消費が低迷する一方、業務用の消費は安定していた。外食が一般化し、テイクアウト惣菜などが広まったためだ。
湯浅は一九九八年に有田屋に入る。当初、卸先は主に病院や学校給食、食品加工会社などで、直売の売上比率は二割ほどだった。
外から見て仕事は知っていたが、実際になかに入ってみるとわからないことだらけだった。醬油を仕込むのは春と秋。作業の前に行うのは仕込み蔵の掃除だ。底から縁まで二メートル以上ある仕込み槽の内側にはもろみが固まっている。それを水でふやかして、ブラシで落としていく。
言ってみれば巨大な風呂掃除である。細かな汚れやもろみを洗い流し、ポンプで水を抜いた後は、水分を拭きとる作業が待っている。さらに洗浄液で再び洗い、また水で洗い流して、充分に乾燥させる。雨具を着ての作業だから、着ている服を絞れるほどの汗をかく重労働だ。
醬油の原料は基本的に大豆、小麦、塩とシンプルである。大豆は色と味を、小麦は香り、塩は腐るのを防ぎ、発酵に必要な微生物だけを生かす役割を担っている。保管場所には限りがあるので、仕込みの時期になると何回かにわけて納入する。
〈昔は大豆を運ぶのも全部、手作業だったんですよね〉
湯浅が届いた原料の大豆を運び入れるのを手伝っていると、製造を担当している職人の一人が感慨深い調子で言った。
〈工場長は一度に百キロの塩を持ち上げることができたんです〉
彼は機械を操作していた工場長に尊敬の眼を向けた。工場長はほっそりとした見た目で力持ちにはとても見えなかった。
大豆は巨大な圧力鍋で蒸す。一粒一粒ふっくらと蒸し上げなくてはいけない。言葉にすると簡単だが、一トンもの大豆を均一に蒸し上げるには技術が必要だ。農産物である大豆は年によって状態が異なるので、水に浸す時間を調整しなくてはいけない。火加減は蒸気の具合を見ながら職人がコックや弁を微妙に操作する。その技には思わず目を見張った。
蒸した大豆と炒った小麦を粉砕し、それらに麴菌を混ぜ、麴室に移す「盛込」という作業を行う。麴は生き物なのでここからの四十八時間は気が抜けない。「手入れ」と呼ばれる、麴をかき回し空気を入れる作業を数回繰り返すことで菌糸がより発達するのである。
〈ちょっとおかしいな〉
ある日、麴の様子を確認していた工場長がぼそぼそとした調子で独り言を呟いていたの で、なにかあったんですか、と湯浅は訊ねた。
〈温度が変かもしれません。ヒーターの調子がおかしいのかな〉
温度計で確認するとたしかに室温が設定と二°Cほどずれていた。調整をして事なきを得 たが、この人は全身でなにかを感じているのだ、と感嘆した。
「工場長は自分の技術をひけらかすようなことはなく淡々と仕事をこなしていました。もちろん、彼のことは子供の頃から知っていましたし、うちで長く働いている人という敬意 は持っていました。しかし、実際の仕事に触れると今までとは見方が変わりましたね。この技術を自分も知りたいし、若い蔵人に継承させなくてはいけないと思いました」
麴室で発酵させること四十八時間。そのあいだ工場長は朝も昼も、夜もなく、麴の面倒を見ていた。
三日目にできあがった麴を仕込み槽に移す作業を「出麴」という。できあがった麴はそのままにしておくと自ら発する熱で弱ってしまうので、ここからの作業は手早く行う。その時、麴室の奥が見えないほど胞子が空気中に舞う。順調に麴が育った証拠だ。
麴は塩水と混ぜられ、醬油もろみとなる。そこに醬油酵母を加えて、ゆっくりと熟成させる。この酵母の種類によっても醸造元の味の違いが生まれる。
五月の連休が明けるくらいから櫂入れ作業がはじまる。時間を置くと比重の関係でもろみが浮き、食塩水が沈むのでそれを混ぜあわせる作業だ。
底の食塩水を表面にふきかけてもろみをふやかし、櫂で崩しながら混ぜていく。二年間、その作業を繰り返しながら自然と発酵を促す。はじめは原料の色だった醬油もろみが、段々と深い赤みをおびた褐色に変化していく。醬油造りはどこか子育てに似ていた。待つこと、それが一緒に成長するために一番、大事なのだ。
ある日のこと。強風が吹いた夜、工場長から電話がかかってきた。風が心配だったので蔵を見にきたが、天井が一部剝がれている、という報告だった。
〈大工さんに修理の手配をしなくちゃいけませんね〉
湯浅がそう言うと、工場長は〈醬油の味が変わらないか少し心配ですけどね〉とため息をついた。〈これくらいなら大丈夫でしょうけど......でも、ある醸造元さんの話ですが、かわら屋根が古くなってきたので葺き替えたそうです。そうしたら醬油の味が別物になってしまったっていうんですよ。そこまでではないとしても、風の通り方や光の入り具合が変わると怖いですね〉
醸造場の環境というのはそんなに微妙なものなのか、と湯浅は思った。
梅雨が明けて、発酵が盛んになると、アルコールの甘い匂いがしてくる。この匂いが熟成を経て、醬油独特の香りに変わるのだ。発酵を促すために攪拌する作業を続けるのだが、工場長はアルコールが苦手なので足元がおぼつかなくなる時もあるそうだ。
〈そういう時はどうするんですか?〉
そう訊ねると、工場長は笑って教えてくれた。
〈歌うんですよ。そうするとしっかりと作業を進めることができる。民謡とか舟歌がいいみたいです〉
一瞬、冗談かと思ったが、どうやら本当らしかった。この時期となると蔵からかすかに工場長の歌声が聞こえきた。
気温が上がってくると、仕込み槽のなかで、もろみが活発に呼吸しはじめる。ざわめきのようなその音は夜中に寝ていると枕元まで聞こえてくるほどだ。それは心地のいい音だった。 「先代はこんな風に表現していました。『人間が醬油を造るのではない』と。これは昔か ら有田屋に伝えられている言葉で人間は醬油造りの一部でしかない、という戒めみたいなものです」
醬油造りは人間の都合で急いではいけないし、そうすることもできない。
発酵を終えると次は圧搾の工程だ。もろみを風呂敷状の布に包んで、積み重ねていく。 自らの重みで醬油のしずくが滴ってきて、いい香りが漂う。湯浅も当然、作業を手伝った が、工場長をはじめ職人たちが積み重ねたものはきちんとしていて、自分が積み上げたの はがたがたで不格好だった。簡単そうに見える作業も一筋縄ではいかない。
搾った生醬油に火入れを施す。火入れをすることで微生物を失活させる。この工程で色と香りが強くなる。瓶詰めにして、ラベルを貼ったらできあがりだ。
「家業に入ったことで交友関係が広がりました。同じように地元で物づくりをしている経営者の方からは学べることが多かったですね。地元の酒蔵の社長は同じ発酵を扱う人間として、また納豆を製造している下仁田納豆の南都社長からは大豆繫がり、そしてお互い車好きという共通点があったので色々と教えていただきました」
〈物づくりって結局は素材なんだよ〉いつかの車内で南都からそんな話を聞いた。〈生産者の方は自然からエネルギーをつくっているんだよね。そのエネルギーがなくちゃ俺たちは仕事ができない。だからやっぱり敬意を持たなくちゃいけないよ〉
これからどんな食べ物を作っていったらいいか、ということをよく話した。
下仁田納豆にはタレや辛子がついてない。湯浅が〈なぜ、辛子をつけないのか〉と聞くとパックの辛子は添加物でつくっているようなもんだよ、と教えてくれた。
〈いいのがないか探したんだけど見つからなかったし、だったらつけないほうが潔いじゃない。たれもそう。大手メーカーの納豆のタレはアミノ酸の味しかしないよ。そんなの使ったら大豆の自然な味がわからなくなる〉
〈でも、お客さんから困るって言われませんか〉
〈今日は醬油、明日はオリーブオイルという具合にお客さんに毎回違う味を楽しんでもらいたいので、うちはタレをつけませんって言えばいいのよ。困るっていうのは人の都合。納豆だって醬油だって、菌が自然につくるもので、人の都合でできているわけじゃないじゃん〉
南都は笑った。たしかにそうだ、と湯浅は頷いた。それは人間が醬油を造るのではない、という有田屋の哲学とも通じ合う考え方だった。
〈醬油蔵はこれからどうやって生き残っていったらいいんでしょうか〉
ある時、そう訊ねると南都は少し考えてから〈難しく考えないほうがいいんじゃない?〉と言った。〈醬油の原料はなんだ? 醬油のおいしさってなんだ? っていうことをシンプルにつきつめることのほうが大事だと思うな、きっと〉
なるほど、と湯浅は思った。でも、醬油のおいしさとはなんだろうか。その問いに対する答えを彼はまだ見つけていなかった。
二〇〇三年の四月、湯浅は七代目の当主となる。
「自分の代で大きく変えたのは、それまでつくっていたアミノ酸液が入った醬油をやめた ことです。材料も脱脂加工大豆から丸大豆へと変えました。うちの出荷先は業務用がほと んどでしたから、学校給食にも使われていたんですね。おいしいからと言われても、将来的にどうなんだろう、と疑問に思ったので、すべて昔ながらの天然醸造一本に切り替えて しまったんです」
時代は大量生産、大量消費の時代に一区切りがつき、いいものを探す流れに変わっていた。湯浅が家業に入る少し前の一九九〇年、業界最大手であるキッコーマンが発売した 『特選丸大豆醬油』は、その象徴的な商品だ。
それまで使われていた脱脂加工大豆ではなく、アメリカやカナダ産の丸大豆を使った醬油は現在まで続くロングセラー。それまでも地方の蔵などでは丸大豆を使った醬油は製造されていたが、業界の大手が発売したことはインパクトがあった。醬油の世界も転換点を迎えていた。
「うちの醬油の材料は国産の丸大豆、小麦、塩だけです。脱脂加工大豆も悪いものではないのですが、加工品なので原料の大豆がどこで、どのように育てられたのかわからないデメリットがあります。その点、丸大豆なら信頼できるものを入手できる」
国産大豆を使った醬油の流通量は二%以下。国産大豆、と簡単に書いたが、大豆の自給率は七%で、そのほとんどは豆腐や納豆などにまわるため、加工食品である醬油に使われる絶対量は少ない。
もちろん、脱脂加工大豆が悪いわけではない。はじめにも述べたが菌糸が入りやすい状態に加工されているため、計測すると旨味を示す窒素分は丸大豆を使った醬油よりも高い。
しかし、醬油のおいしさは旨味だけでは測れない。
脱脂加工大豆と丸大豆の違いは優劣ではなく、目的の違いだ。時々、丸大豆を使うことは意味がない。だって結局、油脂分は取りのぞいてしまうのだから、という人がいるが、それは正しくない。油脂分は長い熟成過程のなかでグリセリンとなって溶け出しまろやかさを生む。
ただ、アミノ酸液に代表される旨味調味料の問題は非常に難しい。数年前、僕はある小説誌の企画で関東から大阪にかけての駅そば(駅構内で販売されているそば)を食べ歩いたことがある。駅そばに関しての著作も多く発表しているライターの鈴木弘毅氏に案内していただいたのだが、そこでも旨味調味料は話題になった。
駅そばのつゆにはたいてい旨味調味料が添加されていて、その味は昔ながらのノスタル ジーを感じさせる。昔は旨味調味料の使用が当たり前だった。
今でも中国料理やエス ニック料理店では旨味調味料を多く使うが、当時は日本料理の世界でも名店と称されていた店の料理人たちも当たり前のように使っていた。
誤解を避けるために書いておく必要があるが、旨味調味料は身体に悪い物質ではない。 昔は毒性があると噂されたが、科学的には身体に害がないとわかっている。少なくとも塩ほどの害はない。
とは言うものの使いすぎると素材の味がわからなくなるので、材料が良くなった現代では使う必要がなくなりつつある。
「でも、添加をやめるというのは難しいみたいです」と鈴木が教えてくれた。「いくつか試みている業者もあったんですが、売り上げがてきめんに落ちるそうなんですね」
人間の舌は保守的だ。時代が変わっているとはいえ、昔の味を支持する声も根強い。経営的な判断となると難しいに違いない。
「アミノ酸の添加をやめる、ということは大きな判断だったと思いますが」
僕がそう質問をすると、湯浅は頷いた。
「業務用のお客様は離れていったので、そうかもしれません。新しい味を定着させるには時間もかかりますし、経済的な観点から見ると非効率に見えると思います。二年、三年の先を見越して、手当てしていかなくてはいけないわけですから。でも、うちは決して大きな規模の会社ではありません。ですから社会的に意味のあるものづくりをしなければ生き残っていけないと考えたんです」
湯浅が給食業者に説明に行くと〈おいしいのになんでやめちゃうんですか?〉と困惑されることが多かったという。味を変えたことを先代はなにも言わずに任せてくれたが、売り上げは当然下がった。それでも苦境とは思わなかった。
「私は根が楽観的な性格なのかもしれませんね」
湯浅は自分の選択が間違っているとは思わなかった。数年後、濃口醬油のつくり方も低塩で田舎っぽい味の醬油からキリッと香りが立つ味に変えた。すると不思議な事に〈昔の味がする〉と喜んでくれる人が出てきた。
醬油の違う用途を見つけようと知人のお菓子屋と組んで開発した『お醤油屋さんのしょうゆさぶれい』はある醬油のコンクールで審査員特別賞をもらった。このお菓子には濃口醬油ではなく、再仕込み醬油を使った。醬油の味が出過ぎないように調整することで、味がいいと想像以上の評判を呼んだ。
再仕込み醬油とは醬油を仕込むのに塩水ではなく、醬油を使ったもので、甘露醬油とも呼ばれる。通常の醬油の製造期間の二年に加え、さらに一年醸した醬油は、とろりと濃厚で塩味もまるい。
再仕込み醬油『フコク印天然醸造醤油』は有田屋を象徴する醬油だ。湯浅の代になってからパッケージデザインを変えたが、つくりはじめたのは先代である。
「父が『もっと旨いものがつくれないか』と手がけたものです。一度、つくった醬油で醬油をつくるわけですから非効率そのもの。でも、流行りに左右されないというか、時代に逆行するのはうちの家系みたいです。だから、仕方がない。今の世の中はすぐ食べられるものばかりじゃないですか。基礎調味料はあたりまえすぎて重要視されないんですよね」
一度は落ちた売り上げも少しずつ伸びていった。二〇〇九年には事務所を改装して直営のショップを開いた。直売の比率を上げていきたいという理由もあったが、地域のための場をつくろうという狙いもあった。
「最近は嬉しい事に天然醸造に切り替えてから離れてしまった給食用をはじめ、業務用のお客様が戻ってきました。少量でもおいしくなる、と御好評をいただいています」
「醬油の良さ、おいしさってどんなところだと思いますか?」
僕がそう聞くと湯浅はしばらく黙ってから「良さ......」と指先で唇を押さえて考えこん
だ。
「抽象的な言い方で申し訳ないんですけど、実は以前、熊本の百貨店さんで開かれた群馬県物産展に出店したんです。周りの人から『九州は味が違うからやめたほうがいい』と言われたんですが」
「九州の醬油は甘いですからね」
「はい。(出店して)どんな結果になったかはおわかりになると思いますが、脂汗をかくような思いをしました。あれほど売れなかったときはないという経験をさせてもらいました。三日目くらいになると帰りたくなっちゃいましたねぇ」
湯浅は笑い、話を続けた。
「そんな時に一人の女性が訪ねて来られたんです。そして、その方が醬油を舐めてくださ ったとき、ふっと『あっ、煙突の味がする』と仰ったんです」
「煙突の味?」
「まさしくうちの会社の裏通りには、象徴でもあるレンガ造りの煙突があるんです。なぜ熊本の女性が、と聞けばその方は、小学校の頃をこのあたりで過ごしたというんですね。
この裏通りが通学路になっていて、その煙突は舐めると塩っぱいというのが子どもたちのあいだで言われていたようです。その方はおそらくご家庭の事情かなにかで移られたんでしょう。月日が経ち、忘れていたと思うんです。それでも舐めた瞬間に思い出していただけた。一滴舐めただけでそういう力がある、というのが醬油の良さなんだと思うんです」
醬油には記憶を呼び起こす力がある。まるでプルーストのマドレーヌのように。おいしさはただ舌の上を過ぎ去ってしまうのではなく、記憶の奥深くに沈み込む。普段は気づかないけれど、こうした瞬間にふと浮かび上がってきて心を震わせる。
「醬油の味は昔と比べてどうでしょうか?」
僕は最後にそう質問した。日本の食をめぐる状況は昔と比べて悪くなったという人もいるが、醬油の味が見直されたのはここ数十年のことだ。
「前の工場長も腕は良かったのですが、今の工場長も非常にいい職人です。昔と比べてもちゃんとした醬油がつくれていると思います。業界全体で見ても醬油の味は昔よりもおいしくなっているはずです」
湯浅は確かな口調でそう言った。
この取材には後日談がある。知り合いの寿司職人が有田屋の醬油に興味を持っていたので紹介すると、現地に足を運んだ彼は濃口醬油と再仕込み醬油を味見し「今まで自分はなにをやっていたんだろう」と呟いた。
寿司職人は煮詰や煮切りに手をかける。けれど、いい醬油を使えば余計な仕事は必要なかった、ということだ。料理人の技術など微生物の働きを前にすれば小賢しいだけだ。自戒を込めて僕はそんなことを思った。
木桶を守る── 〈醬油〉 小豆島 ヤマロク醤油
細かな皺を寄せた青い布のように穏やかな瀬戸内海。そのちょうど真ん中の位置にある小豆島を訪れた。小豆島は今ではオリーブオイルで知られるが、もともとは醬油の島である。
なぜ、小豆島では醬油造りが盛んなのか。
元々、小豆島では製塩業が盛んだった。小豆島は農地が少なく米穀の自給自足は不可能。しかし、海の交通の要所という地の利を活かし、その塩を使って九州から輸入した大豆や小麦を加工し、一大消費地であった大阪に特産品として売るようになる。また、雨が少ない小豆島の気候が醬油造りに適していた。小豆島にはかつて四百の醬油蔵があったが、今では二十軒ほどが醬油造りを続けている。
高松港からフェリーで揺られること一時間あまり、小豆島の港に着き、船から下りるとあたりには醬油の匂い......ということはなくて、漂っていたのはゴマ油の香りだった。港の近くにゴマ油で有名なかどや製油の工場があるからだ。ちなみにこのゴマ油を練り込みながら小麦粉を細く延ばしたのが小豆島名産の素麵である。
旅の目的は木桶の取材である。醬油と聞いてイメージするのは木桶で発酵、熟成される光景だが、実は木桶は絶滅危惧種。今は屋外型の発酵タンクをはじめ、屋内ではプラスチックタンクやコンクリート槽での醬油造りが一般的になり、木桶でつくられている醬油は全体の流通量からすると一%しかない。その木桶仕込みの醬油の三分の一が小豆島に集中しているというから驚きだ。
港でレンタカーを借り、まずは小豆島でもっとも古い醬油蔵であるヤマサン醤油に向かった。瓦葺きの趣のある建物の前で、名物ひしお丼ののぼりが揺れている。 ヤマサン醤油は国内唯一のオーガニック・オリーブオイルでも知られている。二〇一五年四月から分社化したせとうちビオファームで、オリーブ事業を手がけるのが佐藤潤だ。
「分社化したのは『醬油蔵が副業でオリーブオイルも作っているんでしょう?』と思われるのが嫌だったんです。それだと俺たちの本気が伝わらないか、と。醬油造りは昔から人 がつくるものではないと言われていますよね。人はその手助けをすることしかできない、 と。オリーブも同じです」
短髪によく日焼けした佐藤は島育ちではない移住者。前職は総合商社の分析機器の営業 で、醬油ともオリーブオイルとも無関係だった。
小豆島のオリーブには百年以上の歴史がある。この地にはじめてオリーブが持ち込まれ たのは一九〇八年のこと。それから小豆島は「日本オリーブの聖地」となった。大正時代 にはすでに圧搾できるだけのオリーブの実が収穫できるようになったという。当初は圧搾の機械もなく、醬油もろみを搾る麻布を工夫していた、という話も残っている。
オーガニックでのオリーブ栽培は過酷の一言につきる。炎天下、木を一本一本廻りなが ら、オリーブアナアキゾウムシという小豆島固有の害虫をピンセットで駆除していくのである。
せとうちビオファームのオリーブオイルは高価だが、儲けはほとんどない。そうした悪戦苦闘の結果、生みだされたオリーブオイルはロサンゼルス国際エキストラバージンオリ ーブオイル品評会にて二部門で受賞、 国際エキストラバージンオリーブオイルコンテストで金賞を獲得するなど世界的にも評価されている。
佐藤おすすめのオリーブオイルの食べ方は醬油と混ぜることだ。
「品評会で評価されるのは目的じゃないんです。誰に食べてほしいの? ってなったら、
やっぱり自分たちは日本の方に味わってもらいたい。日本人が好きなのは和の文化。だから、自分たちは和食にあうオリーブオイルを目指しています」
外国のオリーブオイルと醬油を組み合わせると「なぜか喧嘩してしまう」と佐藤は言う。でも、同じ風土から生まれた食材同士ならぴたりとあう。たしかに国産のオリーブオイルは穏やかな味で、どの外国の味とも違う。小豆島のオリーブオイルは百年の歴史を経て、日本の味になったのだ。
佐藤に生揚げ醬油のメーカーである、株式会社島醸を案内してもらった。島醸は小豆島町西村の国道沿いにあり、敷地は背の低いレンガ塀で囲われている。門をくぐると創業者武部吉次郎の銅像が僕らを迎えた。
島醸は先に述べた中小企業近代化促進法によって、九社の醬油蔵が資金を出し合って立ち上げた会社だ。ヤマサン醤油を含む九社はここから生揚げ醬油を持ち帰り、各社で最終的な製品に仕上げている。
敷地のなかには高さ十二メートルのステンレス発酵タンクが並んでいた。機械化が進んだ醬油造りだが、製法自体は昔と変わらない。僕らが見学した時はちょうど蒸した大豆に小麦粉を混ぜたものに、麴菌を混ぜる作業が行われていた。
一通り工程を見学した後、敷地の一番奥にある古式本醸造諸味蔵に向かう。蔵に入ると木桶がずらりと並べられていて、ひんやりとした空気が身体にまとわりついてきた。
「壮観ですよね。この木桶はそれぞれの醬油蔵から集められたものだそうです。全部で二百本あるそうです。夏はこれを毎日、かき混ぜるわけで重労働ですよね」
木桶が使われなくなったのはやはり効率が悪いからだ。木桶は上部が開いているうえに、木が水分を吸うので乾燥しやすい。さらに木には様々な菌が棲みつくので発酵に時間がかかる。桶ごとの個体差も大きく、使いこなすには技術が必要だ。それでも小豆島の醬油蔵には杉桶仕込みにこだわっているところが多く、こんな風に木桶が残っている。
次に案内してもらったのがヤマロク醤油だ。細い曲がりくねった道を車で上っていくと、やがて小さな醬油蔵にたどり着く。看板代わりの木桶が目印だ。
「お客さんがいらしたら案内したいのはうちではなく康夫さんの蔵」
と佐藤が言うほど、代表を務める山本康夫は木桶の伝道師として、醬油の世界では名が知られている。
「うちはもともともろみ屋。ある意味、醬油屋の下請けだったんです」
ヤマロク醤油は蔵の前をカフェとして開放している。そのオープンエアのスペースで山本から話を伺った。 「戦前、醬油屋は景気がよかったんですよ。戦後、昭和二十五年にうちの祖父が『もろみ を搾って醬油にしたほうが儲かるぞ』と醬油屋に転業したんですが、気づいたときには遅 かった」 彼は冗談っぽく言ったが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。戦後、醬油の値段が下が ったことで、ヤマロク醤油が利益を上げられた期間は数年だけだったそうだ。
「ヤマロク醤油で木桶が残った理由は?」
僕がそう訊ねると山本は「お金がなかったからです」と真面目な顔で続けた。「うちが 協業化しなかったのも、島醸さんに出す出資金がなかったから。木桶でつくるより仕方がなかったんですよ」
ヤマロク醤油の商品構成は珍しい。基本的には四年~四年半かけてつくられる『鶴醬』という再仕込み醬油と黒大豆を使った濃口醬油の『菊醬』の二種類。後は無添加のぽん酢やだし醬油と種類が極端に少ない。
「うちも昔は混合醬油(もろみにアミノ酸液を加え、短期間で熟成させる方式)をつくって、広島とか岡山にも出していました。鶴と菊の二種類っておかしいでしょう。普通は鶴ときたら亀だし、松竹梅があって次に菊です。色々あったんですけど面倒だったので、自分が全部やめたんです」
完成までに六年の歳月がかかった鶴醬は僕が思うに現在、日本でつくられている再仕込み醬油のなかで最もコクがあり、まろやか。味わいが深く、丸いので、アイスクリームにもよくあう。実際、ヤマロク醤油のカフェスペースでは鶴醬をかけたアイスクリームと『しょうゆプリン』が食べられる。
「『職人醤油』(前橋に本社を置く醬油の販売会社。全国の醬油を小瓶で扱っている)の高橋万太郎さんからバニラアイスと醬油の相性がいいって聞いて。半信半疑だったんですけ ど試したら『ほんとや』と。それでメニューにしたんです」
菊醬は反対に日本刀のような切れ味がある醬油だ。原料の黒大豆は大粒の『丹波黒豆』、 小麦は香川県産の『讃岐の夢 2000』。香りが高く、旨味が深いので、例えばバターと あわせても輪郭がぼやけない。 「菊醬に使っているのは丹波の黒大豆。昔、丹波の黒大豆がだぶついた時期があって安か ったんですよ。それで頼まれて作りはじめたのが最初です。ところがその後、黒大豆が有 名になって、びっくりするほど値段が上がりましたよね。それで儲けが少なくなりました が、味は変えられないので続けているっていう」
醬油造りのすべてを自らこなす山本は元々、地元の佃煮メーカーで大手スーパーのバイヤー相手の営業マンとして、大阪や東京で働いていた。
「スーパーで商談すると商品知識のないバイヤーが、値段とボリュームとパッケージデザインの話しかしない。うちが無添加の商品を持っていっても『高い』しか言わないわけで す。それで、このバイヤーに売りに行くのは嫌やなって思って」
売りに行くのではなく、買いに来てもらうような食べ物を扱ったほうが健全だ。そう考えた山本の頭に浮かんだのは実家でつくっている木桶仕込みの醬油だった。
山本は仕事を辞め、家業を継いだ。
「家業に入った時のうちの状態は最悪でした。私、大学を出て、家業に入ろうとしたら『継がなくていい』と父親に言われていたんですよ。『醬油屋は儲からないし、給料も払えないから』って。たしかに決算書を見て、青ざめましたよ」
一年目は先代の作業を手伝いながら仕込み、もろみ混ぜなどの作業を憶えた。仕込んだ 醬油は春から夏にかけての気候の変化にあわせて発酵が進む。発酵熱で蔵のなかはサウナ のように暑くなる。冬になると今度は凍てつくほど寒い。〈もろみ混ぜは地獄〉と先代は 言っていたが、それは本当だった。
二年目からは桶ごとに父親から指示が出た。
しかし〈よう混ぜ〉か〈あんまり混ぜんでええ〉の2つだけ。
桶ごとの発酵状態に応じて、どれくらい混ぜるか自分で考えるしかない。
〈醬油をつくるのは職人やない。蔵と桶の菌や〉
自分たちは手助けするだけ。先代が言っていることの意味はわかったが、菌は寡黙なの で五感で読みとるしかない。
夢中でこなしているうちに三年目になると〈好きに混ぜ〉と 任されるようになった。
しかし、四年目に父親が倒れた。命に別状はなかったが、醬油造りはもう続けられない。 働き手もなくなり、資金もない。ピンチだった。一人で仕込めるようにと商品を整理し、 鶴醬と菊醬に絞った。
なんとか状況を好転させなければいけない。ヒントになったのは以前、父親が親戚のタクシー会社に頼まれて受け入れた見学者の様子だった。誰もがはじめて見る醬油蔵に驚き、 お土産に醬油を買って行った。これだ、と山本は思った。それ以来、年中無休で予約なし で、見学を受け入れるようになった。
次に見学者に DM を送り、直売の比率を増やした。少し経つとテレビ番組に取りあげられた効果もあり、売り上げは少しずつ伸びていった。
「大変で死ぬかと思いましたけどね。売り上げが伸びて、空いた桶に醬油を仕込む。すると在庫が増えるわけです。税金を払わなあかんけど金がない、みたいな状況が長く続きました」
「原価もかかりますからね」
「かかっています。単純にざっと計算すると大手さんよりも原材料費は七~八倍かかって いますし、熟成期間は十六倍違います。大手さんは今、小さなパックが二百ミリリットル 二百五十円くらいで売ってますけど、鶴醬は五百ミリリットル千円なので、倍しないくら いの価格。儲からないでしょ。うちは手間をかけた高級醬油の安売りメーカーなんですよ」
そう言って山本は笑った。
二つの醬油の味をつくっているのは百年以上前に建てられ、国の登録有形文化財に指定された蔵の土壁や木桶に棲む無数の菌だ。桶の木肌に付着した菌、微生物の相互関係や生成する物質などが複雑に絡みあって醬油の味をつくりだす。お金がなかったから、と山本は言うが、逆にどれだけお金を積んでも手に入らない木桶と蔵が残った。
「売り上げが徐々に伸びてきて、桶が足りなくなってきました。清酒や味噌、醬油などをさかい 製造するための三十二石(約六千リットル)の桶を製造できる工場は大阪の堺に一社しかないんです。このままだったら桶がなくなる、と思って二〇〇九年に借金して新桶を九本頼んだんです。そしたら言われたのが『醬油屋さんから新桶の注文が来たのは戦後初や』 と」
百年前の大正六年には堺に四十七軒あった桶樽の業者も、今では藤井製桶所、ただ一軒を残すのみだ。
桶の寿命は長く、百年から百五十年ともいわれる。最近でこそ再び脚光を 浴びはじめた木桶だが、買い替え需要はなく、あるのは修繕と組み直しがほとんど。納品 した桶の面倒を見るだけでは仕事にはならない。 新しい桶は三本ずつ蔵に運ばれてきた。六本並んだ様子を見て職人たちは目を輝かせた。
〈新桶が六本も並ぶのははじめて見たわ〉
次の三本を運び、九本の新桶が並んだ。すると職人たちはその光景を写真に撮りはじめた。そして〈もう死んでもええなぁ〉と笑顔を見せた。
「笑ってしまいますけど、そのくらい新桶はつくらないんです。その後、言われたのが 『いつまでできるからわからんで』って」
現在、藤井製桶所は二〇二〇年に店じまいする、と公表している。木桶は醬油造りの生命線だ。このままでは桶の修繕もできなくなる。孫の代に桶仕込みの醬油を残すためには タイミングは今しかない。 危機感を持った山本は大胆な行動に出た。知り合いの大工とともに桶屋に弟子入りし、木桶復活プロジェクトを立ち上げ、自ら桶製造に乗り出したのだ。
「こうなったら自分でつくるしかない。三年分の借金を返済し、返済した分をもう一度借りる形で二〇一二年にもう三本発注しました。その時は一つ一つ工程を止めてもらって、構造から学ばせてもらったんです」
小豆島に戻った山本は新桶づくりに取り掛かる。桶は横幅一・八五メートル、高さ二メートルと巨大だ。仲間たちと竹を探し、正確に木を切り出すところからはじめた。大工仕事では引いて削る鉋も、桶づくりでは押して使うなど勝手が違う。
竹のタガをかけるのも一苦労な上、そもそも材料の竹の入手が困難だ。それでも木桶文化を捨てる、という選択肢はなかった。
師匠は一人で編む竹もはじめての時は四人がかりだった。底板はフォークリフトで持ち上げみんなで押し込んだ。そんな風にして小豆島生まれの新桶が誕生したのは二〇一三年 の九月のことだった。
「『いろんなところに声をかけたけど、真に受けて修業に来たのはお前だけだ』って言われました。結局、誰もやらない。でも、誰かがやらないと技術はなくなる。二〇二〇年に 桶屋が廃業した時に技術継承がされてないと、その時は大丈夫でもカウントダウンがはじまり、醬油だと五十年~百年のあいだに木桶が使えなくなります。味噌はもう少し前にななるので、わたしが死んだ後、和食の基礎調味料がなくなるのは避けたかった」
「もはや商売の話ではないですね」
「ないです。新桶に投資していますけど利益は生んでませんから。というのも桶一本分の値段は乗用車一台分のコストがかかる。うちの醬油のつくり方で減価償却するのにどれくらいかかるか、計算したんですよ。そしたら九十年から百年かかる。何年ではなく、何代です。これは無理や、と思いました。それでもやらんという選択肢はなかった。例えば墓場に入った後、孫とかひ孫に言われますよ。『あの爺さんの代で桶屋がなくなったから醬油屋ができない』って」
山本は知恵を絞り、鶴醬をつくるための原料である濃口醬油を『新桶初搾り』という形 で桶代を原価にのせて売ることにした。そうすれば資金は廻る。それでも会計上の償却期間である十年で償却できる金額ではない。
「償却できる、できないの問題ではないんです。そうするよりしかたないからです。わたしがこうして醬油をつくれているのはご先祖がいい桶をつくってくれたおかげなんですから」
ヤマロク醤油の蔵を案内してもらった。蔵のなかの空気はじっとしていて、三十二石の桶が並ぶ光景には積み重ねられた時間の重みがあった。蔵の柱や梁、天井、壁は苔むしたように黒い。菌糸がべったりと付着しているからだ。
「この蔵も一気に建て替えはできないんですよ。もう半分に蔵付きの菌が移ってから、残りの半分を直すんです。木桶もそう。新しくつくってすぐに使えるわけじゃない。まずは菌に棲みついてもらう。木桶で仕込むと一つ一つ状態も違うんで面倒とよく言いますが、 木桶でつくったほうが醬油はおいしいんです。これには科学的な根拠なんてありませんよ」
「科学的根拠がない?」
「ええ。醬油の旨味成分は全窒素量で測ることができますが、タンクと木桶で比較してもその差はないです。ただ、味を比べると明らかに違う」
ハシゴを使い、桶をのぞきこむ。付着した菌で床が滑るので気をつけなくてはいけない。
「私は醸造学を信じてないんですよ。勉強してみたんですが、学問と現場は全然違うみたいです。だから、今は櫂入れするときも時間をかけないで、エアーを入れながら一気に混ぜる。うちの場合はその方がいいんです。まず仮説を立てて、仕込み方を少し変える。その繰り返しです。そんな風にしてはじめの頃とは作り方はずいぶん変えました」
ただ伝統を守っていくのではなく、なぜこうするのかというのをつきつめていく。成分を分析して数値で捉える一方、自分の感覚も信用する。醬油は成分分析にかければある程度は数値化できるが、味の良し悪しは数値では測れない。
「樽桶は江戸の初期に生まれました。他の国には木桶はありません。ヨーロッパのウイス キーなんかは樽でつくっていますが、桶という形に大型化できたのは日本だけなんですよ。 でも、そんな木桶が日本から消えようとしている」
山本はそう憤るが、その風向きは確実に変わろうとしている。木桶職人復活プロジェク トの反響は大きく、木桶が蔵を超えた繫がりを生んだ。桶の修繕方法を習おうと多くの醬 油蔵がヤマロク醤油を訪れる。
「たしかに儲からないですけど、勝算がないわけじゃないですよ。木桶の醬油は今一%ですが、その需要を取り合うよりも二%にするほうが楽やで、って言っています。海外から 和食が注目されるなか、木桶醬油の需要は高まっている。日本の人口が減っても海外があ ります。地元だけで消費されていた醬油の市場が広がるわけです。醬油業界はたしかに低 迷していましたけど今、成長のサイクルに入ったばっかりなんですよ」
次の百年に繫げるために、醬油の世界は動きはじめたばかりだ。
「いやね」と山本は真剣な表情で言った。「今年、自分たちがつくった新桶で仕込んだ醬 油を搾りました。そしたら、うますぎるくらいのすごい醬油ができてしまったんですよ。やっぱり自分たちがつくった桶だから菌が気持ちに応えてくれたんちゃうかな」
菌や微生物に人の気持ちがわかるのか。僕にはわからない。でも、醬油造りを見ていると、そう信じられるような気もする。僕らは普段、目に見えないものの存在を忘れてしまいそうになるけれど、醬油造りはこの世の中には目には見えない大切なものがあるということを教えてくれる。
撮影用の食材代として使わせていただきます。高い材料を使うレシピではないですが、サポートしていただけると助かります!