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『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA)全文公開[第一章 師匠と弟子〈納豆〉群馬県 下仁田納豆]

『おいしいものには理由がある』という本の全文公開です。単行本に写真は入っていませんが、note用に入れています。末尾に入っている動画はダイヤモンド・オンライン掲載時のものです。(写真/志賀元清 動画/志賀元清 樋口直哉)

第一章 大豆が繋いでいく味

師匠と弟子   〈納豆〉群馬県 下仁田納豆 


 上信越自動車道の下仁田IC を降り、国道二五四号を走ってすぐの所に、下仁田納豆はある。本社兼工場の道路を挟んだ向かい側は丘陵地で、そこにはアジサイ園が広がっている。六月中旬から七月初旬くらいまでは色とりどりの花が咲き乱れるらしいが、僕が訪れたのは年末だったので、ただの寂しい丘だった。

 下仁田町は有名なネギとコンニャク以外、なにもない町だ。どうやらそう思うのは僕のような部外者だけではないらしく、町が二〇一五年に作成した『人と町の風景』という PR 動画でも「なにもない」ということがアピールされているほど。
 そんな自他共に認めるなにもない町にわざわざ......と思うかも知れない。納豆と言えば水戸とかじゃないですか、と。でも、一度、下仁田納豆を食べれば、僕が訪れた理由がわかるはずだ。

 特徴的な三角形をした経木のパッケージから納豆をとり出す。器にうつし、箸で混ぜる。充分に糸が引いたところで、醬油をたらして、またかき混ぜる。味を調整しながら薬味を加え、一口にほおばれば、濃厚な大豆の味に驚く。
 熱々のご飯と一緒に食べると、満足感もひとしおである。

 下仁田納豆の建物に入ると、すぐに目に入ってくるのは直売スペースだ。冷蔵ケースには『松田のマヨネーズ』やスペイン産のオリーブオイルなどの食品と一緒に様々な種類の納豆が並べられている。僕は正直、納豆という食べ物をよく知らなかった。というのも納豆は料理屋では扱わない食材だからだ。

 簡単に日本料理と言っても、大きく分けると二つの世界がある。家庭料理と料理店の料理だ。日常と非日常、ハレとケ、二つのどちらが上でも下でもなく、あわさって一つの食文化を形成している。
 家庭料理と料理店の料理では、例えばほうれん草のお浸し一つとっても、同じ名前でも料理法が違う。家庭ではさっと茹でたほうれん草に鰹節かなにかを載せたところに、醬油をちろりと垂らして食べるが、料理店では茹でたほうれん草を水にさらしてアクを抜き、出汁と醬油、みりんなどをあわせた地に浸す。水にさらして味が抜けたところを出汁で補い、作り置きできるようにしておくのだ。どちらがおいしいという話ではなく(個人的には前者の味が好みだが)考え方の違いだ。

 これは別に食文化に限った話ではないのかもしれない。第二次世界大戦の直前に日本を訪れたブルーノ・タウトが日光東照宮と桂離宮を将軍趣味と天皇趣味と論じているが、両極端が同時に存在しているのが日本文化の特徴なのだ。どちらか片方だけを知っただけでは、理解したことにはならない。
 僕は家庭料理の代表的な素材である納豆について知ろう、と下仁田納豆を訪れた。

 日本の食文化の原形ができたのは江戸時代。都市部では米を中心とした食文化が発達し、昆布や鰹節の出汁、醬油など後に日本料理の根幹となる食材や料理法が成立した。
 納豆はその頃、特に庶民に人気の食べ物だった。そもそも畦豆という言葉が残っているように、昔から田んぼのあぜ道には大豆を植える風習があった。稲の生育が良くなると言われていた。植物の生長には窒素、リン酸、カリウムの三大栄養素が欠かせないが、 大豆の根には空気中の窒素分を土中に取りこむ働きがあることがわかっている。化学肥料がない時代、そのメカニズムがわからなくても、人々はそうした植物の性質を活用していた、というわけだ。
 秋になって収穫された大豆は、味噌や醬油、豆腐や納豆に加工された。その起源には様々な説があるが、正確なところは分かっていない。いずれにせよ、米の副産物である藁に煮豆を詰め、温度や湿度の条件が整ったことで偶然できたものと考えられている。 日本で一番古い料理書である『料理物語』(一六四三)にも納豆汁の作り方が残っているが、江戸後期の生活を伝える資料、守貞謾稿にはこんな記述がある。

 納豆売り 大豆を煮て室に一夜してこれを売る。昔は冬のみ、近年夏もこれを売り巡る。汁に煮あるひは醬油をかけてこれを食す。
            (『近世風俗志(一)(守貞謾稿)』/岩波文庫/喜田川守貞著)

 冬の食べ物だった納豆も時代が下ると年中売られるようになり、明治期になると藁納豆が普及、大正期には経木や竹の皮で包まれた納豆も登場する。江戸時代を経て、戦前から戦後にかけて食卓にあったのは、大きな丼で混ぜた納豆を分かち合う光景だったが、やがて納豆業界にプラスチック容器が登場し、核家族化の時代に対応した三個一パックの納豆が一般的になった。それは日本人の暮らしの変化を表している。

 納豆の製造工程、味の秘密を探るために、直売所の片隅にある来客用のスペースで、南都隆道社長(以下、敬称略)から話を伺った。
「納豆屋は元々、私の父がはじめたものです。私が子どもの頃は朝になると『なぁっと、なっとぉー、なっとー』と引き売りをしていました」
  とびきりおいしい納豆と、そうでもない納豆。この味の違いはどのように生まれるのか。
「一番、大きな違いは材料です。大豆は国産であることはもちろん地元から北海道まで、様々な産地の農家の方と契約して、いいものを使っています。うちの納豆のもう一つの特徴は包装容器に経木を使っていることです」

 納豆の容器は時代によって変わる。藁納豆が消えたきっかけは一九五三年三月に納豆が原因で起きた食中毒事件だ。千葉県の納豆業者がネズミの糞尿で汚れている藁を充分な消毒もせずに使ってしまい、結果として多くの人が被害にあい、三人が命を落とすという不幸な事件だった。それ以来、藁を使った納豆は姿を消し、現在では栃木県のフクダや北海道の道南平塚食品など藁納豆を作っているメーカーはあるが圧倒的に少数派だ。
 藁の代わりに広まったのが経木である。経木とは木の板を紙のように薄く削ったもので、それで包むと匂いの少ない納豆ができることがわかり、すぐに広まった。

 しかし、経木の時代は長くは続かなかった。その後、プラスチック容器やビニールラップが普及したからだ。
「群馬は元々、経木の一大産地なんです。榛名山の北面に生えている赤松の木を使った経木は、たこ焼きの船や包装資材として全国シェアの九割を占めています。私は経木を使うメリットを一石二鳥ならぬ『一石五鳥』と呼んでいます」
南都は流暢な口調で続ける。
「まず木の成分が豆の旨味成分を増します。二つ目は天然の抗菌作用。三つ目に湿度の調節、四つ目としては独特の良い香り。さらに燃やしても有害物質が出ない。こうした昔ながらの優れたものを残し、日本の食卓を整えていくことが、私たちの会社のミッションだと考えています。きちっとした林業の体制で間伐、適正な管理をしていけば、榛名山を守ることに繫がります」
 森から流れるフルボ酸鉄が海と山の循環を象徴していると前述したように、林業は食の問題とも直結している。
 東京大学東洋文化研究所の佐藤仁教授によれば日本の森林は打ち捨てられた資源だという。日本文化には木とともに発展してきた側面がある。例えば日本建築は木造技術の粋を集めたものだし、食の分野を見てもしゃもじ、まな板など、木の特性を活かした道具が食を支えてきた。
 しかし、高度経済成長期にかけて建築資材には輸入木材が使われるようになり、しゃもじ、まな板などもプラスチック製品に置き換わる。木から石油へというエネ ルギーのシフトが起きたのだ。
 森林資源が減少したからではない。日本の国土の約七割は森で覆われ、森林率(国土面 積当たりの森林の割合)は世界で三位の広さだ。森林蓄積という数字は過去四十年間で二・三倍に、積極的に使うべき人工林は約五倍に増加した。つまり日本の森林資源量は 年々増加し続けているのだ。

 日本の木材自給率は 1950 年代初頭まで 100%近くを誇っていたものの、 1970 年代には45%に低下、1990 年代には38%になり、その後も現在に至るまで20%前後で推移している。日本の森林被覆率の高さは、極端に言えば市場競争に敗れた森林が結果として「残った」とも言える。
          (『「持たざる国」の資源論』/東京大学出版会/佐藤仁著)

 今の日本では放置され、うち捨てられた森林が花粉症や土砂災害などの原因になっている。森は適切に間伐されていなければ太陽の光が地面に届かず、木も生長できない。森林を残していくためには間伐をし、年老いた木を切り、未来のために新しい木を植えていかなければならないのだが、経済原理の前にうまく進まないのが現状だ。
「納豆は発泡スチロール製の容器になったことで、食品工業の世界に組み込まれてしまいました。そうなるとコスト競争に晒されます。私が家業に入った頃にはすでに経木を使っているところも少なくなっていましたし、昔ながらのやり方で室を温めているところもなくなっていました。うちでは今でも炭火を熾した七輪にやかんをかけて、サウナのように蒸気で室を温めています。電気を使ったエアコンよりも湿度があるので、発酵がうまく進むからです」

 納豆の製造工程を見学させてもらった。工場のなかに入るために白衣に長靴、頭にはネットを被り、クリーンルームを通る。清潔さは菌を扱う工場の必要にして最大の条件である。クリーンな環境が雑味のない味を生むのだ。
 バックヤードには入荷されてきた大豆が積み上げられていた。当たり前のことかもしれないが、空袋などのゴミが積み上がったりはしていない。トヨタほどではないにせよ、在庫管理には気を配っている、と南都は言う。
「大豆は油脂分が酸化しやすい生鮮食品です。なるべく在庫は持たないように、使う分だけを入れるようにしています。他にも酸化を防ぐため、ひき割り納豆の製造に使うひき割り機も自分たちで所有し、直前に粉砕しています」
  僕もはじめて知ったことだが、スーパーでひき割り納豆を買うときに原材料表記を確認 して欲しい。ひいた状態の大豆を仕入れている場合は〈ひき割り大豆〉、原材料からひいていれば〈大豆〉と表記されているそうだ。ひきたてがおいしいのは言うまでもない。
  料理をしていても、大豆の鮮度については考えたことがなかった。アメリカ産の大豆にも納豆に適した品種が開発・輸入されてはいるが、鮮度を考慮するとやはり国産に分がある。
 入荷した大豆は選別され、洗ったあと、研磨される。米と同じようにとぐ工程はコストと時間がかかるので行わないメーカーも多い。
 浸水した大豆を圧力釜で煮ていく。圧力釜はコンピューター制御の最新式だ。時間と温度を管理することで大豆のえぐみやアクを抜く。
「昔は鉄の地釜で煮ていたのですが、よりおいしく炊きあげるために最新の技術を導入し ています。逆に発酵には昔ながらの方法を守る。すべて昔ながらのやり方を守る、というのも一つの考え方かもしれませんが、伝統的な方法と新しい技術を組み合わせることで、 よりおいしくしたい、と考えています」
 大豆は限界までやわらかく茹で上げられ、それから台に移される。
「ちょっと食べてみますか?」 勧められて少しつまんで食べてみた。口に入れると、余韻の長い甘さが広がる。よくテ レビ番組の食レポートでボキャブラリーの少ないタレントが「甘い」と「やわらかい」と しか表現しないと思っていたが、本当に甘く、やわらかいのだから仕方がない。
「おいしいでしょ!」南都が眼鏡の奥の目を輝かせる。「よくこれを売ったら? と言われるんですけど、この煮豆の賞味期限はせいぜい半日です。昔の人はこの煮豆をできるだけ長く食べたいと納豆に加工したのではないでしょうか」 生産現場に足を運ばないと味わえない味、というわけだ。
 煮た大豆は少し温度を下げてから、納豆菌をまぶし、経木で包んでいく。潰れていたり、 皮が傷ついていたりする大豆はこの工程で、丁寧に取りのぞかれる。

三角形に折り畳まれた経木包みの煮大豆は室で二十四時間、発酵させる。
「炭を入れた七輪にやかんをかけているので、交代で火の番をしています。だから、工場にはシャワーもありますし、泊まれるようになってるんですよ」

  一晩中、かかりきりで発酵させた納豆はその後、温度を下げることで菌の活動を止める 熟成と呼ばれる時間を挟んで、いよいよ完成である。
「下仁田納豆の包装を開くと、大豆がぴっちり並んでいるじゃないですか。あれにはなにか秘密があるんですか」
 僕がそう質問をすると「秘密はありません」と真顔で返された。
「こんな風にパートさ んがひとつひとつ丁寧にやっている、というのが本当のところです。細かいところに心が行き届いていてはじめて、お客様に満足していただけるんじゃないでしょうか」 

 製造工程を見てみると、材料をきちんと選び、一つ一つの工程を丁寧に積み上げることが味の差に繫がっていることがわかる。神は細部に宿るという有名な言葉があるが、味をつくるのは細かな部分の蓄積だ。
 こうしたおいしい食べ物を紹介すると、どうしても価格が気になる人もいる。小売店によって差はあるが、シェアNo 1 のタカノフーズの製品と比較してみよう。ある大手スーパーでは輸入大豆を使った『極小粒ミニ 3』が五十グラム、三パックで税込み八十四円、国産大豆を使った『国産丸大豆納豆』が四十グラム、三パックで税込み百二十二円だった。
 下仁田納豆の代表的な製品『しもにた』は八十グラム、三パックで二百五十円(たれなし)、群馬の老舗である醬油メーカー、有田屋のたれがつくと三百円ほどで売られている。
 価格差は大きいが、大豆一グラム当たりで計算すると国産大豆ではメーカー間での価格差はそれほどなく、輸入大豆が安価であることがわかる。ここから先は個人の価値観に委ねられる。
 一円でも安い方がいいのか、それともおいしいものを選ぶのか。
 そう訊ねると誰もが「それくらいだったらちょっといいものが......」と口を揃えるが、小売店の方から話を聞くと、やはり安い製品が売れるという。納豆は豆腐などと並んでスーパーなどの小売店からの値下げ圧力が高い商品として知られている。消費者の心理を摑むのは難しい。
「小売側からの価格要求などはありませんか?」
「あることはあります。豆腐や納豆は同じパッケージで売られているために販売店としては差別化しづらい。だから、どうしても価格勝負になってしまう、という側面があるんですね。ただ、うちは幸いなことにパッケージの形が他社のものと違いますので、比較的ラッキーだったのかな、と」
 下仁田納豆は現在、百貨店や高級スーパーなどを中心に多くの店に商品を納めている。全国各地の優れた食品を扱うことで知られ、東京都郊外の羽村に本店を持ち、立川や六本木、秋葉原などに展開しているスーパー福島屋の棚にも下仁田納豆は並んでいる。おいしいけれど、多少割高、という納豆が、消費者から支持されるまでには、どんな経緯があっ たのだろうか。
「私も家業を継いだばかりの頃は安い納豆をつくらなければ、と考えていました。そもそ も、私は家業を継ぐつもりなんてまったくありませんでした。納豆を売る父親を見て、 『スケールの小さい仕事だな』と思っていたくらいです」

 高専を卒業し、サッシメーカーに技術者として就職した南都に転機が訪れたのは、平成五年の正月に帰省した時のことだ。
 家族でテーブルを囲んでお茶を飲んでいると、
「そろそろ廃業しようと思う」
 と父がぽつりと言った。四人の子供を育てた父はその時、六十二歳。町の人口自体が減 っていたので、以前に比べて納豆の売り上げも下がっていた。廃業は自然な流れで、兄弟もみな頷いた。
 ところが、である。
「ちょっと待ってくれ」と南都は口に出していた。「親父さえよかったら、俺に継がせてもらえないか」
 自分でもどうしてそんなことを言ったのか、わからなかった。それまで田舎なんてと思 っていたが、都会で生活しているうちに生まれ故郷が懐かしくなっていたのかもしれない。
 父親は当然、反対したが「廃業するのも俺がやって潰すのも一緒だろ」と南都が言うと折れた。
「わかった」と父は言った。「代わりに製造は俺が面倒を見る」

 こんな風にして南都は家業を継いだが、売り上げは振るわなかった。父親に習って引き 売りをしてみたが、三日で止めた。引き売りで豆腐や納豆が売れたのは朝、ご飯を炊いて、 家族揃ってご飯を食べる家だけで、そんな家はもう少なくなっていたからだ。
  ならば、とスーパーに営業をかけても、反応はかんばしくなかった。
「納豆なら水戸じゃないの? 下仁田なんて......」
「納豆屋なんかして大丈夫なの。早いうちにサラリーマンに戻った方がいいよ」
 バイヤーのなかには逆に南都を心配する人もいて、そんなアドバイスをもらうほどだった。最初の月の売り上げは七十万円。資材や原料代などを払うと手元に残ったのは二十万円ほど。父と母、自分で割ると一人あたり七万円だった。サラリーマン時代は手取りで三十万円以上もらっていたので、これでは生活が成り立たない。
 答えを求めての暗中模索がはじまった。大手メーカーに対抗して安い納豆をつくらなければと値段も下げたが、売り上げは良くならなかった。
 悩んだ南都がはじめたのは同業者への挨拶回りだった。挨拶というのは口実で、実際は他の会社がどのようにして経営を成り立たせているのか、知りたかったのだ。納豆屋をしていると話すとかえってくる反応はスーパーのバイヤーと似たようなもので、悪いことは言わないからやめた方がいい、と何人かにアドバイスされた。
 ある時、高崎にあったスーパーを訪れた南都は売り場で三百六十円もする豆腐を見つけた。
「こんな高い豆腐って売れないでしょう」
 南都がバイヤーに訊ねると「いや、これがうちで一番売れている豆腐ですよ」と教えてくれた。それが、もぎ豆腐店の『三之助とうふ』だった。
 一体、どうやってこんなに高い豆腐を売っているんだろう、と彼は不思議に思った。
 それからしばらくして、国道十七号を走っていると、三之助とうふの看板が目に飛び込できた。
(あ、ここか)
挨拶してみるか、と車を止め、彼は埼玉県本庄にあるもぎ豆腐店の門をくぐった。飛び込みにもかかわらず、社長の茂木は笑顔で迎えてくれた。
  茂木は洒落た印象の人だった。ネクタイは締めておらず、左手には腕時計、右手にはブレスレットをしていた。腕時計は見るからに高級品で、着ている白いシャツもいい仕立てのものだった。全身から疲労が滲んだ南都の身なりとは対照的だった。
 あとからわかったことだが茂木は一流好みだった。食事をする店一つとってもランクの高い店を選んだ。それは単なる散財ではなく、自分も常にいいものに触れていなければ、本当の一流はつくれないという信念に基づいていた。
 事務所の奥、社長の机の隣にある応接スペースに腰を下ろし南都が自己紹介すると「若いのに家業を継ぐなんて偉い」と茂木は言った。
 南都はこれまでの経緯を説明した。都会の暮らしに疑問があって、田舎の良さに気付き、家業を継いだこと......すべてを聞き終えた茂木は南都に質問した。
「で、君はこれからどういう納豆を売っていきたいんだ」
 南都は答えに困った。値段を聞かれたことは何度もあるが、こんなことを聞かれたのははじめてだ。
「今、売っているのは九十円の納豆です。これからは大手と対抗していくためにおいしくて安い製品をつくっていくことが重要だと思うんです。だから、安くていいものを探すよう努力はしています」
 南都がそう答えると、茂木の表情が険しくなった。
「帰れ!」
 茂木は鋭い口調で言うと、手元にあった茶碗に入っていたお茶を南都の顔にぶっかけた。
 南都は呆然とした。なにが起こったのか理解できず、ポケットからハンカチを出してテーブルをふいた。
「すみません」と南都は訳がわからず、思わず謝っていた。人間は思いもがけないことに遭遇する とつい謝ってしまうものだ。
「なにか失礼なことを言ってしまいましたか?」
「君は自分のところの納豆屋を潰したくないから家業を継いだんだろう。売価を自分で決 めることは商売で一番、大事なことだ。それなのにどうして、そんなプライドのないこと をするんだ。自分の商売に誇りが持てないならさっさと辞めたほうがいい」
 茂木は硬い表情で、そう言った。辞めた方がいいとは色んな人から言われていたが、これほど真剣な言葉ははじめてだった。
「君のやり方では間違いなく会社は潰れる。今の売り上げはどれくらいだ?」
「七十万円です」
「とすると材料費は二十万くらいで、自分の報酬は七万円だろ」
 ぴたりと言い当てられて驚いていると茂木は立ち上がり、机から会社の通帳や帳簿を運んできて、すべての数字を教えてくれた。
「うちの売り上げは月五千万円ほどだ。原価は売り上げの三割だから材料費は千五百万円。つまり材料のために千五百万円、使えるということだ」
 材料費がかかる、ではなく使えると茂木は言った。そこから素材に対する自信と誇りがうかがえた。
「南都君、醬油はなんでできている?」
「醬油は大豆と小麦と塩です」
「では、豆腐は?」
「......大豆と、ニガリですか」
「そうだな。ちゃんとしたニガリを使うと甘味が出るんだ。で、納豆はなにからできてい
る」
「大豆です」 
「そうだろ。納豆の原料は大豆だけだ。それだけ材料が大事なんだよ。君の親父さんはいい腕なんだろう。でも、職人技の部分はせいぜい三割。味の七割は材料で決まる。人間でも食べ物でも素性が大事で、ごまかしは利かない。うちで使っている大豆をわけてあげるからそれで納豆を作って売りなさい」
 茂木はそう言ってメモ用紙に大豆の品種と数量、原価などを書き出した。大豆の値段から頭のなかで売価をざっと計算してみたが、売る自信はとてもなかった。
「これだと売価が二百円になっちゃいますよ」
 南都が不安を口にすると、茂木はこともなげに答えた。
「うちの豆腐で一番高いのは一丁、五百円。それでも買ってくださるお客さんはいるんだよ」
 もぎ豆腐店の『只管豆腐』の五百円という価格は当時でも破格の値段だった。極上の大豆を使い、天然ニガリで固めているのにかかわらず、舌触りはごくなめらか。上質なプリンのように口の中で溶ける。只管という名前の通り、仕事に打ち込んできた茂木稔の一つの達成だった。
 それでも南都が決心をつけられずにいると「それなら俺が売ってやるから、毎日つくれただけもってこい」と茂木は言った。
  南都は頷いた。もうこうなったら言われたとおりにやってみて、それでダメなら仕方がない。この人をこれから師匠と仰ごう、と。

 わけてもらった国産大豆でつくった納豆は、見事な出来だった。それを届けると、月の支払日には代金が振り込まれた。七十万円ほどだった月商があっという間に三百万円ほどになった。つくっては送るとその分だけ買ってくれる。信じられないくらいに月商は順調に伸びていき、経営は安定した。
 ある時、茂木から電話がかかってきた。
「君のところの室にはネズミがいる。退治してこい」
 そんなはずはないのだが、一応、室を点検し、設備を確かめた。しかし、異常はどこにもない。しばらくするとまた、同じことを言われ、そんなはずはないと説明しても、
「いや、いるはずだ」
 と茂木は言うだけだった。
 電話では真意を教えてくれそうもない。直接、事務所に行くと、机の上に先日、届けた 納豆が置かれていた。
「ネズミの話は一体、どういう意味なんですか?」 
 南都が質問すると、茂木は「この納豆を見てみろ」と言った。言われた通りに経木の包みを開けると、大豆が並んだ三角形の頂点が欠けていた。
「食われているだろ」
「いや、師匠。手作業で詰めているんです。一つくらいこういうのが出るのも手作りの味じゃないですか」
 苦笑しながら言い訳すると、茂木は厳しい表情になった。
「なに言っているんだ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえっていう言葉があるが、うちの豆腐は角が立っているので死ねる。それぐらいの気持ちでつくっているんだ。安い豆腐なら角が欠けていても許される。でも、値段をとるなら駄目だ」
 南都は自分の言い訳が恥ずかしくなった。茂木のところでもやわらかい豆腐は当然、手作業でパック詰めしている。たくさんのものを寸分違わず同じにつくるのが日本の職人技なのだ、と思った。
〈人様に旨いと言ってもらえる味を出すのは簡単じゃないよ〉
 いつだったか茂木がぽつりと言った。
 もぎ豆腐店は元々、疎開して埼玉に逃れた茂木の父、茂木三之助が創業した豆腐店だ。茂木の父は毎年、鎮守稲荷神社に油揚げと豆腐を納めていた。跡を継いだ茂木もそれに習い、油揚げと豆腐を奉納していた。
  ある年のこと、古老が「三之助の豆腐は旨かったのになぁ」と呟いた。それを聞いた茂木は恥ずかしくなったという。
 茂木の名前で豆腐を納めていただけで、自分の豆腐は旨くないのだ、と。
〈心のどっかで『俺はこの仕事を好きでやっているんじゃない』って思っていたのかもな。それをすっかり見抜かれた気がした〉
 それから茂木は豆腐作りに打ち込んだ。
 南都が見学させてもらった茂木の工場は清潔で、新しい設備もそろっていた。昔ながらの豆腐作りでは呉(大豆をすりつぶしたもの)を釜で炊き、豆乳を絞る。釜で炊く際に泡が出やすいので消泡剤を使うところもある。しかし、三之助豆腐ではボイラー蒸気の圧力釜で炊き、豆乳を絞った後、消泡剤などは使わず手作業で泡を取りのぞいていた。
 もっと旨い豆腐はつくれないか。茂木は新しい技術もいいものであれば積極的にとり入れた。すると、豆腐の評価は自然と上がっていった。不思議なもので父親の豆腐に負けない味だ、と言われるようになった。
 茂木は尊敬と感謝の気持ちを込めて、自分の豆腐に父の名前を貰って三之助とうふと名付けた。その話を聞いた南都は〈伝承と伝統は違うのだ〉と思った。伝承は昔ながらの味を守るだけだが、伝統をつくっていくためには、常に革新していく必要がある。穏やかな川にも、たえず新しい水の流れがあるように。
 そんなある日のこと。南都は茂木に呼び出された。
「うちはもういい。君のところの納豆はもう買わない」
 その通告は突然だった。南都は食い下がったが、茂木の決定はくつがえらなかった。
「今のままじゃ、お前はうちの下請けだ。もっといい大豆はないのか?  どこか売れるところはないのか。自分で探してみろ」
 会社に帰った南都は、どうせならトップもトップである日本橋三越に持ち込んでみよう、と考えた。一度は救ってもらった命だ、と南都は思った。また言われた通りにやってみよう、と。
 電話を入れると不思議なことに、すんなりとアポイントメントがとれた。
 約束の日、東京駅の八重洲口から日本橋に向かって歩いた。首都高の下をくぐり、日本橋川を渡ると、百貨店が見えてくる。歴史を感じさせる重厚な建物だ。
打ち合わせスペースで約束のバイヤーに挨拶をすると、なぜか快く迎えてくれた。
「いや、お会いできて嬉しいですよ」
 開口一番バイヤーはそう言った。もちろん、バイヤーとは初対面だった。
「どこかでお会いしていますか」
「いえ、お会いするのはもちろんはじめてです」
 バイヤーは和やかな笑みを浮かべた。
「三之助とうふさんからちょくちょくサンプルを送っていただいていたんですよ。気に入ったから仕入れようかと思って、茂木さんに聞いてみたら『そのうちそれを作っている若い奴がちゃんと挨拶に行くからその時にはどうぞよろしく』という話で......明日から棚に並べたいのですけど、手配はできますか」
 他の店を廻ってもバイヤーたちは同じように歓迎してくれた。茂木は納豆を売っていると言いながら、実際にはあらゆるところにサンプルを送っていたのだ。
  南都はすぐに茂木のところにお礼に行った。すると茂木は、「結局、商売も人生も人との繫がりなんだ」と言った。「別にお礼を言われるようなことじゃないんだ。君が今度、 同じように志のある作り手を見つけたら同じことをしてあげればいいから」

  茂木が目をかけていたのは南都だけではなかった。栃木県那須郡那珂川町で天然醸造味噌をつくっている五月女清以智も、薫陶を受けた一人だ。
 味噌醸造元に生まれた五月女は家業を継ぐ前はライターとして食の安全などをテーマに執筆活動をしていた。一九八〇年代後半は大量生産、大量消費とは違う価値観が徐々に広がっていた時代で、茂木は五月女が取材した良質な食品をつくっている生産者の一人だった。
「君の実家は味噌店なんだろう。だったらこれを読んでおけば大丈夫だから」
 ある日、五月女は茂木から一冊の本を渡された。『体質と食物』(秋月辰一郎著)という薄い文庫本で、帰りの電車のなかで早速読んだ。人間の体質をつくるものは環境と食物であり、先人の知恵が込められた味噌汁こそ不健の鍵だとそこには書かれていた。
「その時、直感的に『味噌屋になろう』と思った。それでライター仕事を続けながらだったけど、ここに戻ってきたわけ」
 と語る五月女も南都と同じで、家業を継いだ理由は自分でもわからないという。でも、茂木が言った「大丈夫だから」という言葉はずっと覚えている。
 五月女が家業を継いだ時、味噌店は廃業寸前の状態だった。後を継ぐのではなく、一からつくらなければ、と彼は新しく法人を立ち上げ、味噌造りをはじめた。
 しばらくすると茂木から大量の大豆が届いた。
「この大豆で『お前が一番いいと思う味噌をつくってみろ』と言われたんですよ。その時の大豆は本当に素晴らしかった。鮮明に憶えているんですけど、手洗いしていてびっくりした」
 農家が一粒一粒、手で選別している大豆という話だったが、洗っていると生産者の想いが自分のなかに流れ込んでくるのがわかった。
 この大豆にふさわしい最高の材料を選びたい。
最高の材料はこれまで取材し、出会った生産者たちのものから選んだ。米は山形のおきたま興農舎、塩は伊豆大島の海の精(現在は石垣の塩)という具合に。そして、はるこまやの味噌『春駒純情紀行』は生まれた。

 やがて、五月女の味噌は「無添加での受賞は困難」と言われている全国味噌鑑評会で大臣賞に次ぐ「食料産業局長賞」を受賞するなど、高い評価を受けるに至る。
「比較するなんて、とじつは鑑評会には当初、否定的だったんです。でも『お前のところはたまたまおいしくできただけだ』と同業者の方に言われた時、そのとおりだな、と鑑評会で客観的に評価を受けてみようと思って。もちろん認められるのが本当に難しいのはわかっていましたけれど、結局、この九年で七回受賞させていただいたんですが、これは自分たちの技術だけでなく一緒につくっている生産者の方々が評価されたわけですから、素直に嬉しいことです」
 今でも味噌造りは楽ではない。東日本大震災にともなう原発事故の風評被害に巻き込まれるなどの不運もあった。
 大丈夫だから、という茂木の言葉の意味はなんだったのかはわからない。でも、五月女は困難に襲われても味噌を造り続けてきた。茂木が言いたかったのは自分の仕事に誇りを持て、ということだったのかもしれない。その気持ちを忘れなければ大丈夫だ、と。

 石川県で豆腐をつくっている山下ミツ商店の山下浩希はサラリーマン生活を経て、実家の豆腐店を引き継いだ。今では北陸を代表するような名店として知られるが、はじめは南都と同じような環境だったという。
 もぎ豆腐店を訪れた山下はステンレス張りの近代的な設備で豆腐を製造する様子に驚いた。天然ニガリを使った豆腐作りは難しいと聞いていたが、穴の開いたステンレスの板を沈めるようにして、一気に混ぜ込む作業は見ていると簡単そうだった。
「うちもこのやり方にしよう」
 と山下は思った。茂木は豆腐作りのイロハを包み隠さず教えてくれたので、はじめは楽観的に考えていた。しかし、実際には天然ニガリを使った豆腐作りは簡単ではなく、試行錯誤が必要だったが……山下は今でも茂木を師匠と仰いでいる。
「最初に見たのが茂木さんの工場で良かった」と山下は語る。「他所のところを見ていたら今のような豆腐作りはしていなかったと思う」

 しかし、師匠と弟子について書かれた他の多くの物語のように、人の関係にはいつか終わりが訪れる。二〇一三年八月、出張中だった南都は出先で茂木が亡くなったという知らせを受けた。
 すべての予定をキャンセルし、妻が運転する車で茂木のところにかけつけた。対面したが呆然として、言葉が出なかった。南都は自分でも驚くほど泣いた。数年前から体調が良くないということは聞いていたが、突然のことに集まった関係者もみな、信じられない面持ちだった。列に並びながら、はじめて知り合った日のことをぼんやりと思い出していた。
 通夜の後、蕎麦屋で仲間と集まった。お酒が好きだった茂木の分まで日本酒を注文して、みんなで飲んだ。
 白木のカウンターの上に青い江戸切子の徳利と小さなぐい吞みが寂しげに置かれていた。病気中は酒を止めていたので、今日くらいはゆっくりと飲んでくれているかもしれない。
 茂木はいつも酒を飲むと「うちの豆腐もいつか売れなくなるかもしれない」と言っていた。その時はこんなに成功しているのにどうしてと思ったが、今ではその恐怖がよくわかる。食品業界は厳しい世界だ。少しでも味が落ちれば評判に響く。
 普段通りの仕事をこなしていれば、悲しみは襲ってこなかった。仕事をしている限り、茂木の存在を感じることができたからだ。師匠の教えは今も自分の仕事のなかに生き続けているのだ、と南都は思った。

 話を聞き終えた僕は、日本人がどうして食文化という形のないものを今まで受け継いでくることができたのかわかった気がした。
 納豆に醬油を混ぜ、あるいは豆腐に醬油をかける。炊きたてのご飯に味噌汁と漬け物を添えれば立派な食事になる。納豆も醬油も豆腐も味噌もすべて大豆からできている──日本の食文化は大豆で米を食べることを中心に成り立っていた。
 取材に訪れた日には北海道から大豆の生産者である の梶宗徳さんが見学に来ていた。梶さんは北海道十勝で、ジャガイモやビート、大豆や小麦などを生産している。
「青大豆とかだと背丈が高いので収穫も大変なんです。だから、自分が育てた大豆がどんな風な製品になるのか、わかるのはやっぱり嬉しいですよ。大豆って自給率が低いじゃな いですか。僕たち結構、たくさん作っているんですけどね」
  そう言って梶さんは首をかしげる。
「こういう現場同士の繫がりみたいのが今はなくなってきちゃっているのかな」と南都は 笑う。「人と人との繫がりが一番大事ですよ。みんな志持ってやっているから、日本の食 の未来は暗くないと思います」
 下仁田納豆の本社兼工場には頻繁に中小メーカーが相談にきたり、小売店が視察に訪れる。問い合わせがあれば、快く受け入れる。志のある小さなメーカーが集まれば、日本の食卓の未来が豊かになるはず、と考えているからだ。 若い頃、南都が何もないと思っていたこの町に、気が付くと多くの人が訪れるようになっていた。人と人が繫がることで、おいしさが生まれる。食べ物の味は消えてなくなってしまうけれど、僕らはその形のない想いを受け継いでいくことができる。師匠から弟子へと想いが伝えられていくように。


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