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【武将温泉 徳川家康編】江戸時代に温泉の宅配?家康が愛した熱海温泉

数々の戦国武将を癒した温泉大国日本の温泉

歴史ロマンにつかる旅

とっぷりと温泉につかる。
「あ~気持ちいい~」思わず声が漏れる。
全国各地の温泉につかると必ず最初に感じる感覚は、日本人なら誰しもが持っている感覚でしょう。歴史をさかのぼり、時は戦国時代。武将たちが命をかけた戦いで傷つき、疲れ切った身体を温泉で癒していたのは、ごく当たり前のことだったと思います。
湯を気持ちいいと感じることができれば、ストレスが緩和されて身体の治癒力が高まるという効果はかなり大きいです。
現代の私たちが直面している、体の不調の多くは「病は気から」というようにストレスからきていることが多いのは、毎日忙しく働いている皆さんならよくわかるはず。
特に対人関係で疲れ切った身体と心を休めるのに温泉地は最適!

武田信玄や豊臣秀吉は、「病は気から」ということがわかっていたような気がします。だから将兵に温泉を使わせ、自らも温泉に入って、のんびりと過ごして、再び戦いや政治の場に戻っていったのです。
私は歴史好きが高じて全国の遺跡巡りをするのだけれど、そこには「〇〇の戦い合戦場跡」という石柱があるだけで、味気ないことが多いので、出発時の興奮と帰宅時の落胆のさがあることもしばしば。当然、今は戦国時代ではないのだからリアルを求めてはいけないのはわかっているのですが...。

しかし温泉巡りのリアルは、あの戦国武将が使ったであろう「温泉」と同じものが今なおこんこんと湧き出ていて、それにゆっくりとつかることができるという点なのです。
温泉は歴史ロマンの宝庫であり、そのロマンにつかれる場なのだとこの機会に皆さんにもお伝えしたいとおもいます。また、同行者の人にも飽きさせないような観光スポットも併せてご紹介したいと思います。


「健康オタク」徳川家康が愛した熱海温泉

260年続いた徳川幕府を開いたのが「徳川家康」ということは誰もが知っていることでしょう。また、2023年の大河ドラマ「どうする家康」でもその功績を大きく取り扱うと思います。
その徳川家康が愛したのは、静岡県の熱海温泉。この熱海温泉は、家康が使うまではあまり知られていなかったというのは驚きですよね。
家康は、実際に訪ねて温泉に入るだけでなく、江戸にまで熱海の湯を運ばせていたのです。その後も、温泉の“宅配”は続けられ、徳川将軍たちは、江戸で温泉を楽しむことに。彼らはそのおかげか、長生きする人が多かった。まさに、260年の江戸幕府を支えたのは、温泉だった?!

JR熱海駅前で足湯「家康の湯」

JR熱海駅前の「家康の湯」

熱海駅前にある、天然温泉を使用した足湯。徳川家康来熱400年(2004年3月)の記念事業として設置され、連日多くの人でにぎわっています。
お湯は16:00以降にすべて抜いて毎翌朝掃除するので清潔。新湯を再び張り、利用する“かけ流し”足湯です。オリジナルタオル1枚100円(税込)を自販機にて販売していますので、気軽に立ち寄ることができます。
温度/約41度(源泉は68度) 、泉質/ナトリウム・カルシウム-塩化物、効能/神経痛・筋肉痛・関節痛・打ち身・慢性消化器病・冷え性・疲労回復・切り傷・火傷など

世界に類を見ない260年の平和な時代江戸時代

なぜ、江戸時代は260年もの間平和をたもつことができたのであろうか?
戦国の世は、群雄割拠していた時代であり、家康はその時代を生き抜きそして平和な時代を築く土台を作っていった。以下に第2回「徳川記念財団コンクール」家康賞 佐俣君の文章にある逸話が心に残る。

第2回「徳川記念財団コンクール」
家康賞(優秀賞)

「平和をもたらした天下人・家康」
静岡市立安東中学校1年  佐俣 竣介 
今、世界中で内戦や紛争が起こっている。戦禍に巻きこまれている人々は約二十三億三千万人。世界人口の約三分の一に及ぶ。僕は、多くの人や物が犠牲となる戦争は、絶対にあってはならないものだと思う。今、日本に武力による戦争はない。しかし、つい七十年ほど前までは、日本も戦争を行っていた。権力者達による政治の主権や土地をめぐる争いや、他国との戦争などにより、たくさんの人の命を犠牲にしてきた。では、そんな日本の、長い歴史の中で、戦争や争いがほとんどなく、一般の人々が安心して生活していた時代はあったのか。実は、あった。約四百年前に、徳川家康が江戸幕府を開いたことで始まり、約二百六十年間栄えた時代。そう、江戸時代。江戸時代は、戦争がほとんどなく、農民や商人の暮らしも豊かだったことで知られ、「歴史上一番平和だった時代」とも言われる。そんな平和な時代をつくった徳川家康とは、どんな人物だったのだろう。僕は興味を持ち、調べてみた。

徳川家康は、若い頃は今川義元や織田信長に仕え、六十二歳で豊臣(羽柴)秀吉に次いで二人目の天下統一を成しとげ、江戸幕府を開いた戦国大名だ。ではなぜ、家康の上司でもあり天下統一へあと一歩まで迫った信長や、戦国大名で初めて天下を取った秀吉ではなく、家康が平和な世の中をつくったのだろう。

そもそも、平和な世の中をつくるために必要なものとは何だろう。たくさんの武将を従えるための、知力や財力。戦に勝つための行動力と忠実な部下。確かにこれらは天下統一をする上で必ず必要となると思う。しかし、平和な世の中をつくるために最も必要なのは、当然ながら「平和を求める心」だろう。実際にこんなエピソードがある。

千五百六十年。家康は十八歳。今川家と織田家の間で、有名な「桶狭間の戦い」が起こる。当時、家康は今川家に仕えていたため、今川家方として戦いに参加したが、今川家は織田家に敗れてしまう。この戦いで何とか生き残った家康は、負けたのは自分のせいだと思ったのか、「自分は自害する」と家来達へ伝えたそうだ。家来達も驚きを隠せない。するとそんな中、一人のお寺の住職が家康にこんな事を言った。

「あなたは武人として敵を殺していますが、なぜそんなことをするのですか。」

家康はこう答えた。

「天下を取って、自分の名前を残すためだ。」

すると住職は怒るようにこう言った。

「あなたは人々のために天下をとって、人々の苦しみを無くすことのできる人だ。」

この言葉は家康の胸に強く響いたのか、以来家康は「極楽浄土がおとずれることを願う」という意味の「厭離穢土・欣求浄土」という言葉を旗印としてかかげ、「人々の平和のために」と戦に臨んだという。

この話を知って、家康が平和な時代をつくることができた理由が分かった。住職から平和を求める心について学び、「平和な時代をつくってみせる」という強い意志によるものだったのだ。家康は辛い時、人々が平和に喜ぶ顔を想像して、自分の原動力にしていたのではないだろうか。

http://www.tokugawa.ne.jp/hamamatsu/2016/03.htm

徳川家康ゆかりの温泉「日航亭・大湯」

かつて家康の本陣があったという場所に日帰り温泉「日航亭・大湯」があります。
ここは家康が1602年と1604年に熱海を訪れています。その時に家康を癒した温泉が今もなお残っています。(現在でも、館内敷地内を10m掘ると90度の温泉が湧き出しています。)

  • 源泉かけ流し

  • 源泉の温度:約90度以上

  • 泉質:塩化物泉

  • 色:無色透明

  • 効能:筋肉痛、関節痛

徳川家康ゆかりの温泉「日航亭・大湯」
徳川家康ゆかりの温泉「日航亭・大湯」

ここは、熱海の代表的な源泉で、今を遡ること1200年以上の昔、平城の時代に噴き出した温泉です。

慶長の時代に徳川家康が、熱海で湯治を行なった。家康は熱海温泉の効能をたいへん気に入り、京都の伏見城にいて、熱海の湯五桶を取り寄せました。

90度以上の温度がある源泉だからこそできた温泉の宅配?!

戦国の乱世が終わり、天下泰平の時代になった江戸時代には、将軍・大名や武士の支配階級から農民・職人・商人などの庶民にいたるまで、温泉に入浴して病気を治す湯治が全国的に盛んになりました。江戸に近い熱海温泉には多くの大名が湯治に訪れており、本陣であった今井家の宿帳には、寛永6年(1629年)から幕末の弘化2年(1845年)までの200年余りの間に、全国の城主65名が来湯した記録が残っています。
特に熱海の温泉を愛した将軍として名高いのは徳川幕府初代将軍・徳川家康公です。
源頼朝を尊敬した家康は「自分もいつかは天下を統一したい」と、頼朝が学び、頼りにしていた伊豆権現(現在の伊豆山神社)の再興に寄与しました。「徳川家康は、関が原の合戦前に熱海に入湯し、その温泉パワーをもらって天下統一を成し遂げた」とも言われています。
また慶長2年(1602年)に熱海に湯治、そして慶長9年(1604年)3月、家康公は義直(のちの尾張徳川家)、頼宣(のちの紀州徳川家)の2人の子どもを連れて、7日間熱海に滞在しました。この年の9月、京都で病気療養中である吉川広家のお見舞いとして熱海のお湯を運ばせました。京都の近くにも名湯があるにも関わらず、わざわざ「熱海の温泉」を運ばせたことからも、家康公がいかに熱海温泉を気に入ったかが窺い知れます。
熱海から江戸城まで温泉を運ばせた「御汲湯」の始まりは、4代将軍家綱公が大湯の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み約15時間かけて江戸城まで運ばせたのが始まりであり、その後歴代徳川将軍に継承されました。特に8代将軍吉宗は8年間で3643個の湯桶を運ばせています。

御用汲湯の想像図(熱海市公式サイトより引用)

徳川将軍は長生き?

熱海温泉は、塩分を多く含む塩化物泉で定期的に入浴することで、免疫力の向上が効果が期待できる温泉です。特に四代将軍家綱は幼少の頃より体が弱く、年に数回江戸城で御汲湯につかっていたとされています。その効果もあってか、当時の平均寿命である40歳まで生きたとされます。家綱は徳川将軍の中では有名ではないのですが、歴史の中では大きな時代の分岐点にいた将軍だったといわれています。というのも、三代将軍家光の頃までは戦国の気風がまだ根強く残っていて、御家取り潰しなどにより町には浪人があふれているといった治安の面からも、世の中がまだ定まっていませんでした。家綱の時代になってからは、なるべく大名を取り潰さない、そのことにより浪人が出ないということにより世の中が安定していきました。
家綱のエピソードがあります。江戸で大規模な火災(明暦の大火 1657年 死者10万人以上)があったときに江戸城の天守閣も燃えてしまいました。天守閣は将軍の権威をしめす大切なもの。しかし家綱は天守閣の修繕はせず、江戸庶民の生活や街の復興のために尽力をしたのでした。家綱が長生きしたことが260年の平和をもたらしたのでした。
ここで歴代将軍の没年齢をおさらいしましょう。

  • 家康 75歳

  • 秀忠 54歳

  • 家光 48歳

  • 家綱 40歳

  • 綱吉 64歳

  • 家宣 51歳

  • 家継 8歳

  • 吉宗 68歳

  • 家重 51歳

  • 家治 50歳

  • 家斉 69歳

  • 家慶 61歳

  • 家定 21歳

  • 慶喜 77歳

当時の平均寿命が40歳だとすると、とても長生きな将軍が目立ちますよね。家康は麦やみそを中心とした粗食に徹し、タカ狩りや剣術で体を鍛え自分で漢方薬を調合するほどの今でいう健康オタクでした。五代将軍綱吉はハリ師を召し抱え、暇さえあればハリやあんまをしてもらい、八代将軍吉宗は家康に倣い粗食に徹し、毎朝武芸のけいこをしていたといいます。その吉宗も御汲湯を積極的に取り入れていました。

温泉以外の観光スポット

熱海市には、温泉以外にもたくさんの魅力的なスポットがあります。例えば、「熱海海水浴場」では、美しい海を眺めながら海水浴を楽しむことができます。夜は「熱海海上花火大会」も催され、多くの観光客でにぎわっています。
また、「熱海長浜海浜公園」は、海を望む公園として有名で、海を眺めながら散歩やカフェ巡りを楽しむことができます。遊具も充実していますのでお子様連れでお出かけの際も、退屈しなくて済みそうですね。
さらに、「熱海銀座商店街」では、1975年まで銀行として営業していた建物を利用した熱海商工会議所があります。重厚でレトロな建物は当時の風情をそのまま残しています。
銀座商店街を歩くと、軒先に吊るされた干物や、昭和のままの姿で営業を続ける喫茶店など、昔と変わらない日本の風景に出会えます。最近では地元素材を使ったカフェや、地元の人と旅人のふれあいを提供するゲストハウスもオープンしリノベーションを感じられる通りになりました。

熱海サンビーチ
熱海海上花火
熱海長浜海浜公園
熱海銀座商店街

その他にも、「熱海城跡公園」や「熱海山水園」、「熱海水族館」など、さまざまなスポットがありますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。


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