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匂いと記憶

 先日職場で、眠気覚ましに売店で購入したカフェラテ(ノンシュガー)を飲んでいると、ふと既視感を覚えた。
 なんだろう、この懐かしい感じ・・・・・・。
 味? いや、味ではなくて、どちらかというと匂いだ。この匂いをずっと昔にどこかで嗅いだことがあるような気がする。

 そこまで考えたところでひらめいた。
 これは・・・・・・オートバックスの匂いだ。

 スターバックスではなく、オートバックス。車検とかタイヤ交換をしたり、カー用品が売っていたりする、あのオートバックスだ。
 子どもの頃、父がオートバックスに行くとき、よく一緒についていった。父が用事を済ませている間、カーナビとか芳香剤とか、棚に並んださまざまな車グッズを眺めるのが楽しかった。あとは、なんといっても洗車。洗車の機械にちょっとずつ車が飲み込まれていって、巨大なブラシのようなもので窓が塞がれて真っ暗になっていく感じ。大量の水が流れる音。当時の私にとってはちょっとしたアトラクション感覚で、安全な車の中から様子を眺めているのは心からワクワクした。一度、窓を少しだけ閉め忘れていて、泡が入り込んできて慌てたこともあったっけ。

 そうだ。この匂いは、オートバックスの店内の匂いだ。新品のタイヤというか、新車に乗ったときの匂いというか。私は、その匂いが好きだった。
 それにしても、最後にオートバックスに行ったのはいつだろう? 下手したら20年近く前かもしれない。中学生くらいからは「父の用事について行く」ということも少なくなったし、私は運転免許を持っていないので、大人になった今は全然縁がないのだ。
 そう考えると、嗅覚に紐づく記憶というのは強いんだな、と思う。

  *

 私は高校の頃、吹奏楽部に入っていた。
 合奏を行う音楽室とは別に「楽器庫」という部屋があり、そこは名のとおり、みんなが部活で使う楽器を置くための部屋だった。フルートやクラリネット、サックスなどの木管楽器、トランペットやホルン、チューバといった金管楽器。ティンパニにマリンバ。私の身長よりも大きいコントラバス。楽器を運ぶのための毛布と、折り畳まれたたくさんの譜面台。
 振り子式のアナログなメトロノームは、巻いたねじが終わるまで動かしておかないとダメ、というよく分からない伝統があって、棚にずらっと並んだ各パートのメトロノームたちが、カチカチカチカチカチと忙しなくテンポを刻んでいた。

 その部屋に入った瞬間の、何と言えばいいのだろう・・・・・・古びた木と金属の入り混じった、もったりとした湿度の高い匂い。今でも、鮮明に思い出すことができる。
 同時に、高校時代の苦しさともどかしさ、自分自身への不甲斐なさや情けなさなど、当時の感情が襲ってきて、なんとも言えない気持ちになる。
 10代って若くて楽しくてキラキラ、みたいに語られがちだけれど、実際のところ人間関係は社会人である今よりもずっと過酷だし、親の許可なしでは何もできないし、基本的に学校と家庭が世界の全てだし、けっこう苦しいよなあと思う。
 もちろん楽しい記憶だってたくさんあるし、吹奏楽部で活動した3年間はいい思い出だけれど、もう1度あの頃に戻りたいとはとても思えない。ほんの1日限定、とかだったらいいかもしれないけれど(ただし、大の苦手だった体育の授業がない日でお願いしたい)。

  *

 小学生の頃、夏休みになると、名古屋にいる祖父母の家に泊まりに行っていた。祖父母の朝は早く、私や姉が目を覚ます頃にはもう二人ともすっかり起きていて、家事をしたり机に向かって日記を書いていたりと活動していた。
 一足遅く起きた私と姉が朝食を食べ終え、その後片付けやら洗濯やら家のことが一段落した午前10時頃になると、「休憩」としてみんなでお茶を飲んだりお菓子をつまんだりした。正直、私と姉は皿洗いをしたくらいで特に何もしていないし、第一、先ほど朝食を食べたばかりなのだけれど、この時間をとても楽しみにしていた。
 休憩時間になると、決まって家のなかにはコーヒーの匂いが溢れた。当時の私にとって、コーヒーは大人の飲み物だった。たしか祖父母の家では、きちんとソーサーのついたティーカップを使っていたと思う。どんな味なんだろう、とちょっとだけ口をつけたりしたけれど、苦くてとても飲めなかった。でも、匂いだけはとても好きだった。

 つい先日、母から連絡があった。近いうちに、名古屋の祖父母の家を売却することになったらしい。
 祖父は十年以上前に亡くなっていて、祖母も現在は高齢者向けのマンションに入居しているから、今祖父母の家は空き家だ。人の住んでいない家、それも特に一軒家を管理し続けるのは大変なので、少し寂しいけれどやむを得ないと思う。庭の手入れや空き巣などの心配もあるし。
 今でもコーヒーの匂いを嗅ぐと、あの頃の幸せなワクワクした気持ちを思い出す。でも当たり前だが、あのときと「全く同じ匂い」を感じることは二度とない。だってあの匂いは、当時祖父母が暮らしていた家で、洗剤とか湿布とか、当時すでに年代物っぽかったクーラーとか畳とか、そういう様々な要素が混ざった匂いでもあるからだ。そして、それらは決して再現できない。そう考えると切ないような果てしないような、不思議な感覚になる。

 今、毎日生活していると、朝起きて仕事に行って、帰ってきてご飯を食べて入浴して寝て、という日々がこれから先も永遠に続くように錯覚しそうになる。特に社会人になってからは、学生の頃のように進級とか卒業といった分かりやすい区切りがないから尚更だ。
 でも、今この瞬間はたしかに今しかなくて、いつかはこの生活にも終わりが来る。後戻りすることはできない。だからできるだけ、毎日を大切に生きようと、この文章を書いていて思った。
 なんだか妙に壮大な話に着地してしまった。

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