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電車で文庫本を読んでいた女の子

 毎日は、小さな(時には大きな)選択で満ちている。

 今日は何を着よう。
 お昼ごはん、どっちの定食にしようかな。
 帰りにスタバに寄ろうか、それともまっすぐ家に帰ろうか。

 ケンブリッジ大学の研究によると、私たちは1日になんと最大で3万5000回もの決断をしているらしい。
 その数字に一瞬驚いたけれど、それもそうかと思い直す。だって極端な話、生理現象など自分の意志でどうにもならないこと以外は、ほんの些細なことだったとしても、自分が「こうしよう」と選択した結果なのだから。

 さて。私が最近、日常の中で最も「選択」を強く感じる瞬間といえば、これだ。
 スマホを触るか、触らないか。
 この二択を迫られる場面は多い。通勤電車の中や昼の休憩時間、仕事帰りに立ち寄ったカフェ、帰宅後から眠る前まで、生活のありとあらゆるシーンで直面する。
 しかしこの二択、後者を選択するのがなかなか難しい。
 毎日、通勤鞄には文庫本を入れているにも関わらず、気づくとついスマホを触ってしまう。

 大学4年の頃にスマホを手にしてから、早10年以上が経った。仕事をしているときや眠っているとき以外は、なんだかんだで四六時中スマホを手に取っている。
 ガラケー時代、初めての場所に行くときは事前に自宅のパソコンで地図を検索し、その画面を携帯で撮影してから出かける、ということをよくしていた。今では、グーグルマップと位置情報に頼り切りだ。
 また、外出先で「家に帰ったらネットで調べよう」と思っていた事柄が何だったのか、帰宅していざパソコンの前に座ると全然思い出せない、ということもよくあった。
 書き出してみると、どれもなんだかすごく昔のことみたいに感じる。もはや、スマホのない生活など考えられない。きっと、この感覚は私だけではないはずだ。

 先日、電車の中で、制服を着たかわいらしい女の子が熱心に文庫本を読んでいる姿を見かけた。
 私はその姿に、少しのあいだ目を奪われてしまった。
 何と言えばいいのだろう。若くてかわいい、今っぽい感じの女の子が、「移動時間に本を読んでいる」ことがものすごく新鮮で、魅力的に感じたのだ。本のタイトルが気になったが、あまりじろじろ見るわけにもいかない。裏表紙にバーコードのシールらしきものが貼られていたので、おそらく図書館で借りたもののようだった。
 電車に揺られているあいだ、彼女はスマホを取り出すこともなく黙々と本を読み進め、駅に到着すると文庫本をさっとリュックにしまい、制服のスカートを翻しながら降りて行った。

 空き時間にスマホを触るのではなく、本を読む。ただそれだけのことなのに、彼女の姿は強く印象に残った。なぜだろう。
 それはきっと、今の生活にあまりにもスマホが入り込みすぎているからだ。ホームで電車を待つ時間、エスカレーターに乗っているあいだ、注文した料理が運ばれてくるまで。わずかでも時間が空けば、鞄の中からスマホを取り出している。眠る直前まで、ベッドの中でスマホを触っている。そのせいで、寝るのが遅くなることも多々ある。
 そういえば最近、休日に家にいても、「暇だなあ」「やることないな」と感じることがなくなったような気がする。もちろん悪い意味だ。
 暇だな、何しようかな、と考えるより前に、ほとんど無意識にスマホに手を伸ばしている。特に調べたいことがあるわけでもないのに、とりあえずスマホを触る。以前と比べて明らかに物覚えが悪くなったし、文章も書けなくなった。また、人と話していて言葉が出てこないことが増えたのも、きっと無関係ではないだろう。

 昨日のスクリーンタイムを確認すると、私は7時間近くもスマホを見ていたらしい。下手したら1日のうち、1/3をスマホに費やしていたことになる。しかも昨日は平日で、日中は仕事だったというのに、いつのまに・・・。 
 もちろん、スマホがすべて悪いものだとは全く思わない。便利だし、世界は広がるし、最強のコミュニケーションツールでもある。
 しかし、知りたくなかった情報をうっかり知ってしまったり、強い言葉で人や社会を攻撃しているSNSなどを目にするたびに、目に見えないナイフでちょっとずつ心臓を刺されているような感覚になる。別に、その言葉が自分に向けられたものではなかったとしても。

 そして、やはりこう思う。
 スマホを見ていたこの7時間、他のことをしていれば。
 他のことといっても、資格の勉強とか大層なことでなくてもいい。本や雑誌を読んだり、サブスクで映画を観たり、趣味の小説を書いたり、あるいはただ眠るのだって最高だ。
 少なくとも、スマホを見てちょっとずつ傷ついたり、不安になったりするよりは、ずっと健康にいいはずだ。精神的にも身体的にも。

 必要な時以外、積極的にスマホを触らない、という選択がしたい。
 やっぱりスマホの誘惑に負けそうになったら、あの電車の女の子を思い出そう。手にした文庫本を見つめる横顔は、とても美しかった。

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