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いのちの戦場/5分で読める現代短歌13

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
/服部 真里子


戦って勝つ


ために生まれた


戦って 勝つ ために生まれた


戦って勝つために生まれた


戦って勝つために生まれた

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 冬の歌、だと思う。
 上句〈野ざらしで吹きっさらしの〉からは、乾いた広野/荒野が見える。〈肺である〉と自身の身体を認識できるとき、その身体は機能的あるいは感覚的に〈私〉の外にある。たとえば、冬の冷えた空気を深く吸い込んだように。胸の奥が、外界とつながっていることを感じる。樹木の枝葉のように、わたしたちの内の奥まで張り巡らされた外。

野ざらしで吹きっさらしの肺である

 〈肺〉は、言わずもがな呼吸器として、あらゆるわたしたちの呼吸、空気の循環、酸素-二酸化炭素交換を担っている。常に、空気と触れている。花の色を目が見つめ、揺れる葉音を耳がとらえ、香りに鼻がくすぐられるのと同じように、肺は世界との接点にある。口の奥、気管を潜った先の内臓でありながら、肺は常に〈野ざらしで吹きっさらし〉の接触面でしかありえない。わたしたちが呼吸をする限りにおいて、肺は常に吹きすさぶ風に晒されている。無事でいられるはずがない。

 それは言い換えると、わたしたちの在り方そのものの話だ。

 望むと望まざるとに関わらず、わたしたちはこのようにしか生きられない。自身の意思とは別の地平で、〈野ざらしで吹きっさらしの肺である〉ものとして世に生み落とされてしまった。下句〈である〉には、このさだめとも言える所与の条件として受け入れざるを得ない在り方への、力強い対峙を感じる。

 この歌でのかみしものあいだには、転回がある。
 〈野ざらしで吹きっさらしの肺である〉という、与えられてしまった苦難、原罪じみた肺の痛みと空虚を胸に実らせたまま生きなければならないわたしたちを、冷ややかなほど淡々と定義する姿勢。しかし、決してその運命に流されるままではないと踏み止まる強い〈である〉から、主体は主体性を取り戻す。

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた

 〈戦って勝つために生まれた〉 すなわち、上句のbe bornに自らの手で意味を与える決意表明。〈生まれた〉ことが、わたしたちの手の中に取り戻される。ここで、主体は何と〈戦って〉いるのか。すべてである。
 この世、わたくしの呼吸のある限りに接し続ける、外界のあらゆるものごと。そして、そのようにして“生まれた”わたしたちの生まれ方、誕生の瞬間から受動的な存在であり続けてしまいうるわたしたちの生命という構造に対して、戦って、勝つ。

 ここに転回がある。
 上句が、わたしたちの実在の受け身性の象徴として〈肺〉を定義するのに対し、下句ではその〈肺〉こそを、そのようにして存在し続けるわたしたちが如何に能動的に生きているかの証左として掲げる。
 むしろ、このようにして主体性を獲得することこそが“生きる”ことなのかもしれないとすら感じる。〈戦って勝つために生まれた〉と宣言するとき、すでに“戦って勝って”いるのです。であれば、ほかのすべてにも勝てるでしょう。いま・ここに存在することそのものを手中にしているのだもの。いくら負けたって、生きているこのありさまを手放さない限りには、根底の部分で勝っている。

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた

 整理する。
 上句では、外界との接点、受難と存在の象徴として〈肺〉が定義される。わたしたちの最深にありながら、つねに外気と地続きの空洞。〈私〉と私以外の、入り交じり、交換される生命の現場。いわば、生命は常に侵食を受けているし、果敢に攻め入ってもいる。肺は、拮抗するいのちの戦場である。このように自身の〈肺〉の活動を認識するとき、すなわち自身の生命は常に"勝ち"続けることで保たれていると了解するとき、主体の生命が生命としての主体性を獲得する。その宣言、意思表明、主体性の発露、高らかでありながら〈私〉ひとりのためでしかありえない宣戦布告が、下句だ。戦って勝つために生まれた。

 韻律も、この力強さに一役買っている。ややもすれば拙い印象を与えそうな〈野ざらしで吹きっさらしの〉という半リフレインから、明確にギアの切り替わる下句へ。t, kの音が小気味いい。戦って勝つために生まれた。〈勝つために〉には、まだ〈戦って〉の音が滲んでいる。何度でも呟きたい。戦って勝つために生まれた。そうでしょう?

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた

 冒頭で、冬の歌だろうと述べた。確かに、上句の発見に至るシーンを自身の経験から想像したときには、冷えた空気を深く吸い込んで胸の奥がわずかに痛むような冬の景色をおもいだす。しかし、冬でなくとも、わたしたちはわたしたちひとりひとりの肺でもって、ひとりひとりの生命を戦っている。秋のもの悲しいなかを、春の慌ただしい日々を、夏の息苦しいほどをどうしようもなく、自身ではないすべてといのちを交換しながら、野ざらしで風に吹かれながらでしか保てない呼吸をやめないでいる。

 生きていることの主体性を忘れそうなとき、たとえばこの歌を口ずさむ。そのとき、あなたの肺は、歌をうたうために新たな空気を迎え入れる。冬枯れの木々のように、その隅々まで張り巡らせてなお戦っている。そして、勝っている。誕生の瞬間から、勝ち続けている。競争社会だとか、だれかと比べてどうだとか、そういった規模の戦いに限らなくとも決してこぼさないすべての生命活動において、いわばいのちのプライドを賭けて、あなたは勝ち続けている。

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
/服部 真里子『行け広野へと』


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