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雨に抱かれて/5分で読める現代短歌12

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき雨に抱かれたようにうれしい
/北村 早紀


 うまく話せるかわかりません。いい歌だと思うので選びましたが……。歌のうしろには、混濁と言うか、愛憎入り混じる感情がベースにあって、そこはもうぐちゃぐちゃなんですけど、その発露として〈怒鳴る〉ことは明白に〈うれしい〉という、結果にしか歌の情報が向けられていないように感じています。ゆえ、読者の受け取った感慨がもうすべてで、その背景にある感情や経緯は、全然特定されない。それが良いとか悪いとかではなく、そういう歌で、結果以外はなんでもいいんです。なので、読むことのハードルはたいへん低いのですが、関して話すことの難しさ……でもね、がんばってみるよ 神さまもきっとびっくり

 例によって、歌意/修辞/韻律に分けて取り組んでみましょう。

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき雨に抱かれたようにうれしい

 歌意については前段に書いたとおりで、〈うれしい〉に至るまでの条件設定、どういったシチュエーションでのどういった“うれしさ”なのかを教えてくれる歌ですよね。書いてあるままと言うか、「あ~そういう“うれしさ”か~」という感慨を、つよく納得させてくる歌。謂わば、結句〈うれしい〉のための舞台装置や演出を用意している歌のように読めます。
 映画や舞台のト書きらしくもあり、下句〈雨に抱かれたように〉は直喩の体裁をとっていますが、もう降っていると言っても過言ではないテンションです。実際、この直喩は修辞のレベルで〈雨に抱かれ〉る主体を読者に見せています。〈雨に抱かれた〉までを読んだとき、すでに雨は、おそらくは明るい昼の大降りの雨は、主体とその周辺のすべてを濡らしているでしょう。〈ようにうれしい〉と直喩で感情へつないでも、その雨はそうそうすぐには消えません。そこに雨が降っていなくても“降らせる”ことが、心象と芸術の機能です。

 この歌においては、主体の〈うれしい〉という感情は、読者に追体験させるものではなく、すこし距離を取って鑑賞する対象としてうたわれています。〈雨に抱かれたように〉まで主体と読者はかなり同化していますが、〈うれしい〉とはっきり書かれることで、俄かに鑑賞対象としての距離が生じます。こういった、感情そのものに収斂するタイプの歌は、その感情への共感とはまたすこし異なる道のりと手ざわりで、読者に感慨を渡してくれます。

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき

 先ほど、舞台装置的な修辞であると書きました。その〈うれしい〉を鑑賞させる、距離をもって読ませる歌だということです。必ずしも共感をベースにしないので、その“うれしさ”に関して身に覚えが無くても、理解できます。
 ただし、同時に、上句はかなり同化志向だとも書きました。具体的な〈しあわせだ、しあわせだ!〉という発話と、その修飾としての〈怒鳴る〉です。個人的にはクエスチョン/エクスクラメーションマークなどの記号を直接用いる修辞には韻律と作者の手つきの観点からかなり懐疑的なのですが、この歌の場合は良い効果を得ていると感じられます。仮にエクスクラメーションマークが無い《しあわせだ、しあわせだって怒鳴るとき》とすると、元の歌と比較して、上句の発話性、すなわち身体性が物足りません。〈怒鳴る〉を補うとともに、ダメ押し気味のリフレインに意味を持たせ、不自然ではなくします。このようにして身体が事前にわたしたちに与えられていなければ、下句〈雨に抱かれたように〉は説得力を持ちえません。

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき雨に抱かれたようにうれしい

 上句では〈しあわせだ、しあわせだ!〉までは発話だということが三句目〈怒鳴るとき〉で了解されるわけですが、歌全体では感情と心臓のサンドイッチになっています。〈しあわせ〉だと〈怒鳴る〉ことが〈うれしい〉という、精神と精神のあいだに身体の差し込まれる構造です。この歌においては、精神と身体の関係性は、対置されているようです。ただ、それは相反するものとしてではありません。相互に影響を与える別のものとしてです。

 〈怒鳴る〉は字のごとく“怒り”に基づく行動なのですが、この歌においては〈しあわせだ、しあわせだ!〉とあるように、プラスの感情が念押しされています。この発話が自己暗示的な側面を持つことは感じられるでしょうが、この発話は全くのウソであり、実際は怒りに塗れている……という読みは困難でしょう。最後にはその声も雨も歌のなかでは流れゆき、〈うれしい〉だけが残るのですから。《叫ぶ》とか他の語を選択することももちろんできるなか、〈怒鳴る〉とする斡旋の背景に、主体の折り合いをつけがたい愛憎のような、光差す嵐天が吹きすさんでいることは感じられるかと思います。どういう感情なのか、名前をつけて特定することはできません。ただ、そういうものだったのだろうか、と読後から振り返って想像するだけです。

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき雨に抱かれたようにうれしい

 つかみづらい感情と切り替わる身体との関係性を、つよく張る韻律の統一感が引き締め、歌を勢いよく読ませています。結句〈ようにうれしい〉以外、すべての句に濁音dが含まれています。感情、雨の勢いと途方も無さを感じさせる……と言えなくもないかもしれません。また、〈しあわせだ〉〈に抱かれた〉の母音踏みもリズミカルです。上句のリフレインもあり、かなり愛唱性のある歌だと感じます。

 〈うれしい〉までのすべてが、その感慨の演出装置。初句は勢いよく出てきて〈しあわせだ、しあわせだ!〉と〈怒鳴り〉ますが、〈うれしい〉に至る頃には、もう落ち着いたモノローグになっている。エクスクラメーションマークの前後で、独白にまで切り替わります。その急激な落差の流れを、韻律の舟で下る。
 爆発しそうな感情は直接コントロールする対象ではなく、身体性をもってそれらを発露する。発露することに喜びを感じる。そのようにして、結果的に収斂する嵐。大降りの雨がすべてを等しく濡らすように、その感情に全霊をゆだねるなか、ひかりが差す。名前がついて光明の兆す〈うれしい〉までを読み終えたとき、どのような主体の姿が舞台に見えるでしょうか。

しあわせだ、しあわせだ!って怒鳴るとき雨に抱かれたようにうれしい
/北村 早紀「天秤のこころ」

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北村は、短歌結社「星座」, 学生短歌サークル「京大短歌」の出身。
掲出歌を含む連作は、サークル機関誌『京大短歌20号』に収録されている。

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