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四葩がゆれて/5分で読める現代短歌14

曲がつてる道は遠くが見えなくて安心できた 四葩がゆれて
/魚村 晋太郎

 四葩(よひら)は、紫陽花のこと。鬱蒼と茂った紫陽花の道が、さらに曲がっている。先行き、不明。〈ゆれて〉いるからには、たまのような紫陽花の花々が、わずかばかりに伸びた茎の先に付いているのだろう。行く手を阻む紫陽花に目を向ければ、ひとつふたつの大きな球形だった紫陽花の色が、小さな花の集合だと分かる。さらに細かく視れば、その小さな花に見えていたひとつひとつは額であって、花弁らしい花弁はないが確かに蕊などを抱えていることがわかってくる―――

 とまで読むことは知識が先行しているようだが、少なくとも、紫陽花の花がちいさな花の集合であることはこの歌では意味を持ちうるように思われる。視線の向け方、ピントの話だ。

曲がつてる道は遠くが見えなくて安心できた 四葩がゆれて

 上句〈遠くが見えなくて〉と語られるとき、その道で見えているもののひとつが紫陽花である。ややもすれば壁のようにかたまって球形に花をつける紫陽花が、主体の視線を近くに引き付ける。この歌では《遠くを見たくない》とも《近くを見たい》とも書かれていない。〈遠くが見えなくて安心できた〉という結果だけがある。
 しかし、この〈安心できた〉を歌にするとき、その背後にあるであろうわずかばかりの後ろめたさ、仄暗さを思わずにはいられない。あくまでも過去の話として、どことなく継続性を感じさせる〈安心できた〉。一回きりの安心ではなく、そのような日々があったという記憶。曲がってる道ではない道では不安だったという日々だ。
 下句〈四葩がゆれて〉は必ずしも上句の理由として置かれてはいない。が、その因果にあるほんのすこしの跳躍、ひとの想像の余地、シナプスのひらめきが詩情になる。紫陽花の道、どれほどの生い茂り方だろう、雨は降っているのか、止んだのか、地面のぬかるみはどうだ、ゆれているのは風ゆえか、誰かがわずかに触れたのか。どうして、安心/不安なのだろう。

 短歌をするひとびとの一部から“つぶやき実景”と呼ばれる構造の歌群がある。その呼称のとおり、上句で主体の心情や主張が“つぶやかれ”て、下句ではシンプルな実景の描写が置かれる構造。この歌は下句が〈ゆれて〉と流しているので、まさしくというわけではないが、十分に含まれるだろう。(まあ用語というほど定着しているわけでもないので、含まれようが含まれまいがどちらでもいいのですが……。たとえば《ゆれゐる四葩》など、やりようによっては“つぶやき実景”の射程のど真ん中を抜けることも可能だとゆうに想像できるだろう。)
 まさにこういった体言止めをしなかったところにも、主体の意識のおぼろがみえる。真っ直ぐであること、行き先が定まっていること、見通しの良さが奨励されること……そういったあかるさに、なにか落ち着かないものを感じるのだろうか。まるで見透かされては困るような、なにか後ろ暗いことがあるのかもしれない。深淵よろしく、わたしたちがなにかを見るとき、あちらからも見られうるのだ。

曲がつてる道は遠くが見えなくて安心できた 四葩がゆれて

 ここまで長々と主体の〈安心できた〉の背景や実景について書いてきた。それはわたしがこの歌から主体の心情を想像することができるからだ。しかし、これは必ずしも私が主体の心情に共感していることを意味しない。

 実際のところ、個人的には、真っ直ぐの道の方が安心する。陰から突然なにかが現れたり、死角に恐ろしい罠の仕掛けられている可能性が低い。見えるだけすべて見えていてほしいと思う。真っ直ぐの道の写真だけを撮り溜めていたりもする。真っ直ぐの道がそう多くない、狭い都市部で生まれ育ったことも影響しているかもしれない。
 そういった趣味嗜好の私でも、この主体の心情、これが歌のかたちをとることの意味を想像することはできる。いい歌だと思う。ここで主体の気持ちがよりありありと明記されていたり、あるいは下句が異なる景であったなら、また違う読後感になっていただろう。この歌では、想像することができる。理解することができる。そして共感できる部分と、できない部分がある。

 わたしは、これが短歌のおもしろいところのひとつだと感じている。

曲がつてる道は遠くが見えなくて安心できた 四葩がゆれて

 わたしたちは短歌のなかで、何者になることもできる。ただひとりの人間の像を結ぶ〈私性〉すらも乗り越えようとする、前衛短歌の時代も経て現代に立っている。
 しかし、そのような歌を読む私自身からは逃れることができない。むしろ、歌を読むことで、作中主体との同一化を試みるなかで、私自身と主体との差分が明確になる。

 他者に触れて、わたしの輪郭が分かる。

 あまりに近すぎる相手では、互いに全体像をつかむことは難しい。私たちの視野はそれほど広くなく、精細でもない。ほどほどに分かり、ほどほどに分からない、その曖昧な見通しの悪い部分に、他者を感じる。紫陽花が、大脳のように揺れている。

曲がつてる道は遠くが見えなくて安心できた 四葩がゆれて
/魚村 晋太郎「鬼蓮」

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