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人類の繁栄は/5分で読める現代短歌22

ドーナツの箱が道路に置いてある 人類の繁栄はこれから
/鈴木 ちはね

 第2回笹井宏之賞(2019, 書肆侃侃房)において連作「スイミング・スクール」で大賞を獲り、副賞として出版された歌集『予言』より。ミニマルで、個人的で、都市と生活詠が多い。また同時受賞の榊原 紘 (木神)の『悪友』も大変に良い歌集で、語彙や思想のレベルで志向の異なるこの歌たちが並んで受賞・出版の運びとなった頃を眩しくすら思う。

 それはそれとして、この歌の話。

 鈴木ちはねの歌には、駄洒落的とも言えるシンプルで平易な韻が度々登場する。極端で少し異質だが分かりやすい例としては、〈太陽が食べたいよう〉など……。こういった音遊びをギャグや小道具として用いるのではなく、単純な音の気持ちよさで歌を転がすことに主眼を置いている部分があるように思われる。

ドーナツの箱が道路に置いてある

 “ドーナツ”と“道路に”の頭韻。フラットな文体のなかでこんなふうにあっけらかんと使われると、なんだか純朴な散歩とでも言うような心地よさを感じる。下句〈繁栄は〉の跨りといい、擽るような快楽をくれる。

 歌意は、いわゆる“つぶやき実景”のパターンで読み取れるだろう。上句が、主体の見ている実景。下句が、つぶやきのような感慨。必ずしも上下に内容的な連関は無いが、もちろん繋がりを見出して読んでもよい。と言うか、その一字空けの飛躍に読者各々が読み取るものが詩情なのかもしれなければ、どのような繋がりを見出すか/見出さないか、こそを、一読した瞬間からの自分と話し合うのが楽しい。

 ここでの〈ドーナツの箱〉は、一目見てそれが〈ドーナツの箱〉であると了解されるのだろう。三角屋根のおうちを奥に引き伸ばしたような、あの形状の箱を須らく〈ドーナツの箱〉としている可能性もあるが、ミスタードーナツなど、よく知られたチェーン店のロゴや店名が書かれているのかもしれない。いずれにせよ、その箱はあるひとつの楽しさ、娯楽快楽、色とりどりの砂糖と油、ポップでキュートなアイテムが詰まっていた/いる箱である。個人的には〈箱〉は既に開封されており中身は解き放たれてココではないどこかにあると読んでいるが、未開封の状態でも〈ドーナツの箱〉ではありうる。
 また、それが〈道路に置いてある〉のであり《落ちてある》などではないことも修辞として重要だ。ここで〈置いてある〉とするとき、その箱を道路に"置いた"何者かが想定される。《落ちてある》では、他者が出ない。《捨ててある》であれば人間が想定されるけれど、そうではなくて〈置いてある〉と主体が受け取るような状態でそのような場所に、その〈ドーナツの箱〉があった。ここで、その箱を置いたのは、別に誰でもいい。誰かが置いた。誰かが置いたんだな、と直観する瞬間で想定されるあまねく何者か、という射程が、下句〈人類〉へと繋がる。

ドーナツの箱が道路に置いてある 人類の繁栄はこれから

 ここで、私には〈ドーナツ〉のイメージが純な楽しさと期待と、道路にあることからの僅かな抵抗感、鬱屈に対する開放への志向性を添えて下句の感慨を渡してくる。だけど、もちろん〈ドーナツ〉に対する期待値の違いが、全く異なる歌意、読後感をもたらす可能性も大いにある。おお、なんと不健康な嗜好品、空虚で画一的な欧米基準の"繁栄"か……。

 などと考えるとき、この歌集の出版が平成の終わり/令和の始まりであったことや、この歌の収録されている100首連作「感情のために」が当時の天皇(現上皇)が天皇としての在り方や皇位継承問題について表明した“お気持ち”を詞書に備えていることが大きな意味を持ってくる。特に後者に関しては、連作の表題歌と響き合うものがあるだろう。ドーナツがドーナツであるためには、認めざる穴が必要。"人類"の繁栄はこれから。

感情のために何ができるだろう 東京の地図にある空洞


ドーナツの箱が道路に置いてある 人類の繁栄はこれから
/鈴木 ちはね「感情のために」

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