見出し画像

小鳥をのせる/5分で読める現代短歌16

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖
/荻原 裕幸


 荻原おぎはら裕幸の、19年ぶりの第6歌集。1990年代前半に新たな短歌表現をしこうする“ニューウェーブ”の一員(ほか穂村弘, 加藤治郎, 西田政史)として第一線を走り、現在まで積極的な活動を続けている。(ニューウェーブについてはしばしば特集や座談会なども組まれているが、この特集誌が最新で俯瞰的に整理されている)

 わたしは萩原の歌集を初めてまとまって読むが、とてもよかった。第5歌集までの全歌集『デジタル・ビスケット』も買おうかなと思い始めている。以前、大阪は中崎町の詩歌書店「葉ね文庫」で見かけたが、もう無いだろうな。手に入ったとしていつ読むんだろう……。

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖

 歌集全体を通じて、妻の歌が多い。この歌もおそらくそうなのかな、と読む。しかし、この一首単体でも相聞歌として十分に楽しめるだろう。もっとも、相聞ではない読みも可能だ。見ず知らずの誰かの描写としてもいいし、自分自身のこととしてもいい。短歌の読みに“正解”は無い。その読み, 評が他者にどの程度受け入れられるかと、自身の人生にどのような歌として寄り添わせるかは、別の話だ。
 わたしは相聞として読んでいるので、相聞としての読みを以下に書きます。

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖

 歌はおおきく、上下それぞれで描写になっている。上句が、わたしたちをつつむ大きな光景。下句が、わたしの目の前の小さな情景。そこに主体の“つぶやき”は無いけれど、言葉遣いに価値観や心情が感じられる。いい歌だと思う。

ここはしづかな夏の外側

 初句7音の上句。〈しづかな〉がどこにかかるか、やや読みが分かれうるか。わたしは、意味合いとしては《夏のしづかな外側》として読んでいる。語順からは〈しづかな夏〉〈の外側〉も可能だが、初句二句の句切れがあるので〈しづかな〉〈夏の外側〉だ。
 前提として、〈夏〉は明るく、賑やかで、エネルギッシュなイメージがうっすらとある。その〈しづかな〉〈外側〉は、夏から切り離されたような、時間の流れから外れているような印象を受ける。ほの暗く、涼しげで、ゆったりと心地よい。陳腐に言えば、時間が止まっているみたいな。初句7音含め、3・4・3・4のリズムもいい。

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖

 下句、誰の〈頬杖〉かは明記されない。しかし、主体が心を寄せる相手だろう。〈小鳥をのせるやうな〉からは、主体の慈愛が感じられる。
 〈小鳥〉はひとつのちいさな生命であるが、ここでは主体から見たその相手のいのちそのものですらある。ちいさくて、軽やかで、うつくしく自由で機知に富む、そのようなあなたである。どことなく、相手の顔立ちまで見えてくるような気がする。〈てのひらに小鳥をのせるやうな〉仕草に、そのひとの落ち着いた品の良さが見える。主体自身が自身の頬杖を〈小鳥をのせるやうな〉と描写するとは、わたしには思えない。

 〈頬杖〉は、ちょっとした小休止だ。物思いに耽っているのか、すこし退屈を感じているのか。流れる日々のなか、ひと息ついて落ち着くためのちいさな止まり木のひとつだ。だから〈小鳥〉なのです。
 夏は毎年やってきて、おおきく見ればあまり変わり映えしなくなっていく。けれど、その日々を分解してみると、当たり前だけど二度とないシーンの連続だろう。目に留まらない暮らしも、思い出深いエピソードも、永遠めいた一瞬もある。短歌・俳句は写真的であるとする論もあり、なるほどそうかもしれない。その像はわたしたちの目の奥、脳の裏、こことしか言いようのない場所に結ばれる。

 たとえば、ふたり居室の卓に着いている。外から激しいまでの明るさが滲んで、部屋の灯りはつけなくてもいい。子どもや蝉の声を乗せた風が、薄いカーテンとあなたの髪を揺らしている。どこかから、ちいさな鳥の囀りが聞こえる。

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖
/荻原 裕幸「不断淡彩系」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?