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ふへんてきな/5分で読める現代短歌23

恨まれる心づもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た
/榊原 紘「でも窓辺から」

 第二回笹井宏之賞を「悪友」で受賞(同時受賞は鈴木ちはね)し、副賞として出版された歌集『悪友』より。(榊は木偏に神)

 同時受賞・同時出版の鈴木ちはね『予言』と並んで"個人的"であるのだが、このふたつでは、その差し出し方がかなり極端に異なっている。
 前者では〈私〉のモノの見方、外界への視線を強く感じた。読者は、〈私〉と視線を共有する。それに対し『悪友』では、主体自身が歌の題材になるとき、その思想や意思、信条が主に語られる。〈私〉のモノの見方そのものが語られる。読者は、そのように語り語られる〈私〉を見出す。
 題材の面から言い換えれば、その大きく異なる点は〈私〉個人と外界の接点だ。『予言』が都市的な日常の生活(に滲む反骨心や皮肉)詠が多かったことに対し、『悪友』では他者との関係性、異質性に重みがある。〈私〉が現れるための境界が、何との接点として差し出されるか。

恨まれる心づもりはできていて

 主体は、誰かに(おそらくはある特定の親しいひとに)〈恨まれる心づもり〉ができていると言う。すでに《恨まれている》のではなく、〈心づもり〉と合わせれば、まさしくこれから〈恨まれる〉ことになると確信し、相手の抱くであろうネガティブな心証を受ける覚悟ができていると言う。〈私〉とそのひとの関係がこれからどのように悪くなってしまうのか、ぼんやりと予想がつきつつ、しかしそれをただ嘆くのではなく引き受ける/再び築き上げようという意思が僅かに感じられる。
 その意思の尾をとらえて、下句の転回が成される。

恨まれる心づもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た

 ここでの〈でも〉には、ふたつのニュアンスが混ざり合っていないか。
 ひとつは、「すでに〈恨まれる心づもり〉をしながら、(でも)共に陽を見た」という同時性。上句のマイナスに対し下句をプラスに位置付けて、それらを同時に成したんだという強意。
 もうひとつは、時制の差。上句〈できていて〉に対し下句〈見た〉は過去の出来事、記憶として扱われる。もちろん、散文ではない、詩においてはこういった時制の揺らぎはそれほど厳密なものではない。前述のとおり、文末の〈見た〉の時制が歌全体に係り、「すでに〈恨まれる心づもり〉をしながら」と読ませうる。しかしこの歌においては、そのように確定させかねるだけの力点が〈でも〉にはかかっていると私は感じる。上句の意思の残滓が〈でも〉に力を込めるから、この読み筋、ニュアンスが濃くなっている。

 〈窓辺〉も効いている。韻律・リズムも違和感なく整え、歌全体が観念的になりすぎないよう、すこしだけ物理的な場所を示して抑える。
 この歌からは、明確に誰かと陽を見たことはわかるのだが、その"誰か"については不明瞭だ。ここには関係しかない。

恨まれる心づもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た

 それどころか実のところ、「悪友」と名付けられた連作含めこの歌集全体を通じて、主体が関係をもつ〈君〉や〈あなた〉の姿は朧げで、決して明確な人物像を結ばない。なんとなくの性格や生活感は扱われるけれど、特に年齢や性別、職業と言った社会的なプロパティは示されない。
 そうではなくて、あくまでも〈私〉から見たそのひとの姿だけを描写しようとしている。その視線の送り方、反射の仕方にこそ関係がある。誰か特定の人物像をイメージさせるのではなく、ひととひとの関係という、ある程度以上に普遍的なことをうたう。勿論ひとつひとつの関係は独立しているが、そのようにして関係が結ばれるということ自体は普遍的なものだ。

これは意図されている、歌としての美意識に関わる点だと思う。
(一方で、「ハイキュー!!」「血界戦線」といったエンタメ作品を題材にとった連作も4つ収められており、こちらは"あのキャラクターへの目線だな", "あのシーンだな"と推測しやすい。これはメタ構造の話)

恨まれる心づもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た

 その普遍性は、また別の形でこの歌集に現れていると感じる。遍く物事は普遍的、否、不変的では無いという思想だ。具体例を引くことは控えるが、この歌集においては、国家や歴史、死や記憶といった要素の色が全体に濃い。各連作タイトルを概観するだけでも、なんとなく感じられるのではないか。巻末に置かれた、2020年に歌壇賞次席となった連作「生前」など。

 榊原は2015年から、未來短歌会「陸から海へ」欄で黒瀬珂瀾に師事していた。最近の黒瀬の歌ではなく、第一歌集『黒耀宮』や第二歌集『空庭』のあたりに通じるものを感じる。

ああ吾は誰かの過去世まなかひに雪ふる朝を地の底として
/黒瀬 珂瀾『空庭』
ああ今が君の生前 林檎飴持ちかえてから手を取ってみる
/榊原 紘『悪友』

 歌集のなかでこの榊原の歌を読んだときには上句時点で黒瀬の歌を思い出すなどしたが、しかし『空庭』において〈吾〉を客体化しているのに対して『悪友』では〈君〉のことをうたっているところに徹底したものを感じた。ただ、冒頭で書いたように自身の思想信条、立ち位置を自ら語るところは『悪友』における〈私〉の現され方にも共通している。

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 徐々に歌そのものの評から離れてしまっているので、すこしだけ戻す。

 前述のとおり、非・不変的なものとして外界を捉える視線があるとしたとき、やはり主体と外界との関係も不変的ではありえない。いずれ消えてしまうとか。いつか忘れてしまうとか。たとえば、恨まれることになるとか。
 このようなメンテリティが満ちる歌集のなかにおいて、掲出歌における〈陽〉の朝夕が定まらないことに、ぼくはいたく感動する。

 一読した時から何故か夕陽だと思ってやまないのだけど、それに確固たる根拠はない。これから〈恨まれる〉ことがわかっている主体の〈でも〉に懸ける気持ちの強さが、白く昇る朝陽ではなく、残火の夕陽に近しいと勝手に感じているだけ。ここが歌の中で明言されていないから、好きだ。
 陽は必ず沈んで、また昇ってくるはず。ずっと変わらないその仕組みのなかで、そのときのその陽を、共に見た。

恨まれる心づもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た
/榊原 紘「でも窓辺から」


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