３

　名簿を隅々まで確認して、その人の名前をそこに認めた時、即座に入社式で出会ったあいつだとわかった。気づいた瞬間、驚くほど何も湧きおこらないこの胸をそっと触って確かめながら、世間一般の普通っぽい人だったら少しは身構えたりするんだろうか、とか思う。

　男とか女とか、よくわからないけど、とりあえず出生のその瞬間に女とアサインされたので、とりあえずはアサインされるまま、戸籍とか、ランドセルの色とか、なんとなく受け入れてはきた。それほど幼くなくなってからも、どちらかといえばそういうことには無自覚で、だから高校2年の時に親友ののばらが、下駄箱の前で突如「でもさ、性別とかってさ、本質的にはあんまり意味ないよね」と言い放った時、新たな扉を開いてしまったなと感じたのだった。
　のばらは、めちゃくちゃに可愛い。それはもう、とびっきり可愛い。いかにもありがちだけれど、一緒に原宿を歩いていてスカウトマンに声をかけられなかったことのほうが少ない。艶がそこにあるというよりは艶そのものみたいな黒髪の先端は適度に緩やかなカーブを描いて心地良く肩にまとわりつき、そのシャープな小顔の中心に据えられた鼻はわずかに上を向いて凛々しく立っている。目はパティシエがくり抜いたみたいに、とかなんとかわたしが説明してもクソの役にも立ちはしないくらい、圧倒的に可愛い。容姿のことなんて、ほんとは別に言わなくてもいいんだけど、でものばらという人物の紹介をするのに、この人がめちゃくちゃに美しいという事実を抜きにしては、あらゆる文脈がずれて成立しなくなってしまうような気がするから、とりあえず言っておく。のばらとわたしとは高校1年の時に同じクラスになって以来の親友で、親友っていうのはつまり一番仲のいい友達ってことで、どういう因果かつかず離れずやっている。わたしだってそんなに容姿に問題があるというのではないと思うのだけど、と少なくとも自分では思うのだけど、でものばらが横にいると本当にもう、それは次元が違うよって感じなのだ。美っていうのは美術館とかテレビの中だけじゃなくて、わたしたちの生きているありふれた日常の中にも確かに存在するんだなあ。高校2年の夏休み前の試験が全科目終わって、あーこのままだと留年するかもーなんてどうせしないのに塗り絵を塗るみたいに空白を埋めていくみたいな会話を二人でしながら下駄箱まで階段を降りていったときに、そののばらが、唐突に言った言葉を今も忘れない。
　「ていうかわたし何気に現国大丈夫だったかもしれない、どうなるかと思ったけど」
　「あれは余裕っしょ、っていうか普通に2日目の数学が死んでる」
　「ほんとそれ、部分点がうまい具合に来ればいいけど、最初の4択も自信ないし」
　「まあなんとかなるっしょ最後には、去年だって化学9点だったけど補習もなしで進級したし」
　その後で、のばらは油性マジックの落書きだらけの上履きを自分の下駄箱に放り込みながら、なんでもなさそうに言ったのだ。
　「でもさ、男とか、女とか、性別とかってさ、本質的には無意味だよね」
　その瞬間、時空がわずかに歪んだ気がした。時間が急に前に進むのをやめて、わたしたち二人のために一拍分停止したようだった。周囲の音がすっと消えて、急にシーンがスローになって、わたしは思わず隣ののばらの横顔を見た。のばらがなんでもなさそうにこっちを見て、目が合う。ああ、この人、本気なんだ。そうわかった瞬間にまた世界は通常通り運転をはじめ、わたしたちは普通の時間軸の中へ戻っていく。
　でもさ、というのは、何に対する逆接なのか、ただの女子高生的な飾りなのか、話変わるけど、の略なのか、この世界というか世界を構成する文脈全体に対する逆接なのか、よくわからない。いまだに全然わからないけど、でも多分、この「でもさ」がなかったら、わたしはこんなとこ就職してなかっただろうなと思う。でもさ、と言いたい、わたしものばらみたいに。
　「ホンシツテキに無意味？」
　わたしはのばらみたいに本もたくさん読んでないし、育ちもよくないし、圧倒的な知的リソースに日頃からアクセスできるのばらにちょっと憧れていた。試験の成績も、当然ながらいつものばらのほうが良かったし、運動も、読書感想文も、美術も、音楽も、だいたいいつものばらのほうがよくできた。のばらはいつだってわたしに新しい世界を見せてくれて、わたしはのばらが見せてくれる奇跡の片鱗みたいな時間が大好きだった。
　「だからさあ、男か、女か、どっちか、っていう枠組みにはもうなんの意味もないんだよ。世界はその二択では語れなくなってきてるし、これからどんどんそうなっていくと思う。NHKだって10年後には大晦日に紅も白もないっていうことになってるかもしれない」
　「それって、性をなくしちゃうってこと？」
　わたしの愚問に対し、のばらは数秒考え、あるいは考えるふりをし、それからゆっくり口を開いた。
　「性をなくすっていうのとは、あたしは違うと思うな。なくすっていうよりも、広げるっていうか。でももしかしたらそういう解釈もあるのかも。性をなくす。まったく意味のないものにしてしまう」
　「男とか女とかそういう区別がなくなったら、なんだかずいぶん世界が味気なくなるような気がするけれど」
　この時ののばらの表情が忘れられない。わたしが繰り返し約束に遅刻したり、借りた漫画を返さなかったりしても絶対に感情的にならないし、一緒に映画を観に行っても涙をこぼしているところなんか見せたことがないのばらが、この時だけはちょっと感情を表現していたような気がしたからだ。
　「そんなことないよ。きっと、もっと楽しくなる」
　あれから6年が経ち、あの時ののばらの言葉の意味を少しは理解できるようになった今でも、わたしは性愛という感情を一切経験していない。そういう機会がなかったとかじゃなくて、感情自体がないのだ。みんなが普通にやっている、恋愛とか、性愛とかを、いまいちよく理解できない。理屈としてはわかっても、まったく腑には落ちてない。だから、ランダムに組まれるプレゼンの相方が男だろうが女だろうが、本質的には無意味なんだということは頭ではよくわかる。実際、何の感情も湧いてこないし、緊張すら全くしない。たぶん、のばらが言ってたのはこういう文脈ではないと思う。のばらは恋もするし、性もする。それはたぶん、生まれつきのものだ。わたしが恋をしないのもきっと生まれつきで、これから劇的な何かに出会っちゃうかもとか、何かあったらいいなとか、全然思わない。わたしはこれからも、性のない日常を、それなりに上ったり下ったりしながら元気に生きていくだろう。だから、性の前に緊張とかする人生も、どんなものなのかなって実はちょっと気になったりしている。自分のものではないけど、ひとつの生き方として。