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キャンセル・カルチャーをめぐる政治

キャンセル・カルチャー(Cancel Culture)が、アメリカ政治で大流行である。著名人や政治家などの、文化的・政治的に「正しくない」とみなされる行為や言動を批判し、「キャンセル」してしまうというムーヴメントだが、すっかり政治問題となってしまった。

日本ではまだ、「キャンセル・カルチャー」という言葉が政治の舞台で語られることは少ないが、もしかすると今後、いわゆるネット右翼を中心に浸透するかもしれない。今回は、そんな「キャンセル・カルチャー」(以下、鍵カッコなしで表記)について。

スター・ウォーズ俳優の解雇

スター・ウォーズのスピンオフ作品である「マンダロリアン」で戦闘員役を演じていたジーナ・カラーノが、制作サイドから解雇を言い渡されたのは今年の2月。新型コロナウイルス対策のマスク着用をからかってみたり、米大統領選挙で不正があったと言ってみたり、「お騒がせ俳優」のひとりだったのだが、共和党支持者に向けられる反感をナチスによるユダヤ人差別になぞらえたことが決定打となり、解雇となった(発言の詳細はこちら)。
ジーナ・カラーノの「キャンセル」は、単にその後の作品に出演しないだけに止まらなかった。彼女が演じた登場人物のフィギュアは製造中止、グッズはウォルマートでたたき売りに。おまけにテッド・クルーズ上院議員が、解雇を批判するような珍妙なtweetをして参戦するものだから、問題が政治化した。

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「キャンセル」の応酬

このようなボイコット運動に、2018年頃から、キャンセル・カルチャーというネーミングが付された。問題発言や行動があった著名人や企業に対し、あなたはもう好きじゃない、キャンセルする、というニュアンスだ。『ハリーポッター』シリーズの作者J. K. ローリングが、反トランスジェンダー的な発言をしたとして2019年にSNSで大炎上したときに、日本でも知られるようになった。アメリカでは、同年後半から、ドナルド・トランプなど保守系政治家がキャンセル・カルチャー批判に表立って参戦した。

「キャンセル・カルチャー戦争にMADが参入」
2021年4月1日にワシントン・ポストは、こんなタイトルのオピニオンを掲載した。原題は"The MAD turn in our cancel culture battles"。

MADというのは、米ソの双方が、核攻撃を受けてもなお確実に相手側を壊滅させる能力を持っていれば、核戦争は妨げられるという冷戦期の核抑止論ことだ。相互確証破壊(Mutual Assured Destruction)という奇妙なネーミングは、頭文字がMAD(狂気)となるよう、意図的に考えられた。

なぜキャンセル・カルチャーにMADが入り込んだと言われるかというと、政治的右派と左派の双方によるキャンセルの応酬が、まるで米ソの核戦略のようだということらしい。掲載されたオピニオンは、このメタファーを踏まえつつ、右派と左派が相互にキャンセルしあったところで、相手が壊滅するわけではないのでMADになっていないと指摘し、「不毛だからやめようよ(大意)」と呼び掛けている。

ところが、そんな良識的意見を嘲笑うかのように、4月3日には、「メジャーリーグ、コカ・コーラ、デルタ航空、JPモルガン(以下略)をボイコットしよう」と、トランプは支持者に対して呼びかけた。ジョージア州でトランプが望む選挙法改正が成立したところ、メジャーリーグ側がオールスターゲームを同州から引き揚げたためだ。キャンセル・カルチャーを批判してきたトランプは、この言葉を避けて「ボイコット」と言っているが、やっていることは同じである。

キャンセル・カルチャーをめぐる政治

トランプがキャンセル・カルチャーを批判しつつ、自分の呼びかけでは「ボイコット」と使い分けていることからわかるように、この言葉には政治のにおいが付きまとう。もとは、"You are CANCELLED"というネット・スラングに端を発した言い方だが、「これはキャンセル・カルチャーだ」と指さす場合には、「キャンセルする」主体への批判が含まれる。

政治的に不適切な発言というものが、往々にして、人種、出自、性別や性的志向などに関するものであるため、一般に「キャンセル」に類する批判は、リベラル左派から生じやすい。したがって、「これはキャンセル・カルチャーだ」といって批判に対する再批判を加えるのは、保守的な右派に偏る。とはいっても、右派だってボイコット自体は行っている。

ドナルド・トランプやテッド・クルーズもそうだし、2021年2月に共和党右派系の団体が行ったある政治集会では、"America UnCancelled”がスローガンに掲げられた。「キャンセルさせない」という言葉には、「不当にも我々の言葉を沈黙させようとする奴ら(を排斥しよう)」という政治的な含意が込められている。キャンセル・カルチャーそのものをキャンセルしよう、というメタな戦法だ。

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要するに、「キャンセル・カルチャー」という言葉自体が、客観的な記述ではない。それは、特定の「政治的正しさ」(Political Correctness)に依拠した主にリベラル側からの批判を、否定的にカテゴライズする政治的な言葉だ。

タテマエの運用能力

「異端」の考えを持つ人間を摘発し、社会集団から排除しようとするムーヴメントは、歴史的に特異ではない。簡単に思いつく例は、スターリンによる粛清や中国の文化大革命だが、冷戦初期の「赤狩り」だってその類だ。「タテマエ」が個々人に加える圧力に強弱があるだけで、圧力が強まると「息苦しすぎる」という反発も強まる。

たとえば、政治専門紙「ザ・ヒル」の最近の記事によると、キャンセル・カルチャーに関するある世論調査で64%が「キャンセル・カルチャーは自由に対する脅威だ」と回答した。キャンセル・カルチャーが「大いに問題がある」「やや問題がある」と回答した人は68%だった。つまり、ざっと7割弱の人がキャンセル・カルチャーを否定的に見ていることになる。

この結果は、「政治的正しさ」に関する意見と一致する。ケイトー・インスティテュートが2017年に行った調査で、71%が「政治的正しさにより社会的に必要な議論ができなくなった」と回答、58%が「自分の政治的意見を公表できなくなった」、と主張している。

つまり、タテマエの圧力に、70%程度の人は息苦しさを感じている。この圧力を「キャンセル・カルチャー」と呼ぶことにして、息苦しさを表明しよう、というのが、今の問題の正体だ。

それでは、タテマエの圧力はなくなるのか。もちろん、そんなはずはない。タテマエに賛成だろうと反対だろうと、タテマエは一定の行動規範が社会にある限り、必ず存在する。「そんなものクソくらえだ」という反応の新しいデザインが「キャンセル・カルチャー」という言葉での抵抗だとすると、次の攻防戦は「過去の行為や言動に関する私的制裁はどこまで許されるか」という線引きに落ち着ければ良いはずだった。しかしもはや、保守とリベラルのイデオロギー的対立の材料になってしまったために、膠着状態は続くことになるかもしれない。

つまり、やっぱりMADというメタファーは適切なのではないか、と思ってしまうのである。

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