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ずっと忘れない / ブキティンギ(7)

2003/09/03

授業を終えた午後、すっかり馴染みになったネットカフェへと足を運んだ。バリ島で落ち合うことになっているバンコク在住の友人から、そろそろメールが届いているはずだ。

1997年の夏、最初に彼と出会ったのもバリ島だった。うだるような熱帯の光の中で、ぼくたちはオニオンリングを肴にビールを飲み、若さあふれる文学話に花を咲かせた。

「1件の未読メッセージがあります」

強調された文字をクリックして友人のメールを確認した。了解。どうにか二日後の土曜日にはバリの海辺で。

ぼくらはもう互いに学生ではなくなり、それぞれのささやかな決意を胸に生きていた。けれども、一緒に何か行動を起こす時には、難しい理屈や思想は必要なかったのだろう。大仰な言いまわしも、とってつけた理由でさえも。

「最初に出会った時みたいにバリ島でまたビールを飲もうよ」

目的は本当にそれだけだった。そして、こんな提案をしてくれた彼の心持ちが好きだった。異国でビール。シンプルでまっすぐで、様々な期待に満ちている。

友人の予定を頭に入れ、学校へは戻らずにそのままパサール・アタスの旅行代理店へ向かった。前日に予約した国内線のエアチケットを受け取るために。

旅行代理店は丘のてっぺんにある時計塔(ジャム・ガダン)広場の一角にあった。「ここがいちばん親切ですよ」とリスマール先生に教わった業者で、評判の通り、いくつかあるバリ島までのフライトを彼らは根気よくあたってくれた。嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しみさえしながら。

結局、彼らの尽力で、国内線マンダラ航空を乗り継ぎ、ジャカルタ、スラバヤを経由するフライトを押さえることができた。888,000ルピア(約11,000円)という驚くほどの安さだった。促されるまま、受け取ったチケットの旅程を確認した。最初のフライトは午前八時パダン発となっている。問題はなかった。

チケットをかばんに詰め込み、ジャラン・ヤニという大通りを足早に戻った。学校で明日の準備をしなければならなかった。この街で過ごして八日間。日課となった授業準備に、インドネシア語と英語の表現のおさらい。そして明日また、彼らとの真剣なひと時が待っている。

郵便局に差し掛かったあたりで、通りの反対側から名前を呼ばれた。最初はひとつだったその声は、ふたつになり、みっつになり、通りの向こうに目を向けた時には、何人もの生徒たちが手を振りながらぼくの名を叫んでいた。

行き交うクルマを気にしながら車道を横切り、彼女たちのもとへ急いだ。総勢七名の女生徒たちは、これから揃ってパサール・アタスへ買い物に行くという。

「先生、もし予定がなかったら一緒にどうですか?」彼女たちは口を揃えて言った。「これから学校? 今は? どこ行ってたんですか?」

「パサール・アタスだよ。ほら、チケットを取りに」かばんから航空券を取り出してぼくは言った。

「えー、私たちも買い物なんですけど。もう一回行きません?」

「実はね、もう今日だけで二回も行ってるんだよ」

「なーんだ。じゃあ、おんなじだから三回目も行きましょう! 決まり!」

まただ、と改めてぼくは思った。またインドネシアのノリに押されてしまった。彼女たちに両手を引かれ、連れ戻されるようにして、たった今降りてきたばかりの階段へ向かった。今日三度目のあの長い階段へ。

歩きながら、ふと思いついて生徒のひとりにカメラを預けることにした。目についたものをなんでも好きに撮ってみて、と。そう伝えたところでカメラ用の電池を買い足すつもりだったことを思い出し、ぼくはひとりで苦笑いを浮かべた。結局もう一度この階段を昇らなければならなかったのだ。

「電池、途中でなくなるかもしれないから言ってね。パサールで買うから安心して」そう付け足したぼくの声に、彼女はほっとした表情を見せた。

操作の仕方を教えると、彼女はおそるおそるシャッターを切りはじめた。最初はぼくたちの姿ばかりを被写体にしていたが、やがて時計塔や街の姿、市場の中や風景なども進んで撮るようになった。時に笑顔のまま、時に真剣なまなざしで。

パサールの中を、まるで遠足の子供たちみたいにひとかたまりになって歩いた。はしゃぎながら、時には手を叩いて大笑いをしながら。

何度歩いてもこの空間の匂いや光が好きだった。角を曲がるたびに新しい温かみが待っていてくれた。この空間はぼくにとって、いつでもそんなふくよかな思いに溢れた場所だった。

ビーズのアクセサリーがずらりと並び、子どもたちが使うのだろう可愛らしいイラストの文房具が山と積まれていた。別の店では、干したタウナギやタナゴに似た銀色の魚の干物が、俵ほどの大きな麻袋に詰め込まれて並んでいた。

そんな光景のすぐ隣には、生徒たちがブキティンギ名物と笑う「かりんとう」や「キャッサバチップス」の問屋が幾重にも軒を連ね、どこからか漂う揚げ菓子の匂いや、香ばしいスパイスの匂いや、鉄板を叩く金ベラの音がパサールをいっそう活気づかせた。

「がまの油」のようなたたき売りのパフォーマンスを眺め、キャッサバチップスをひと包み買ってみんなで分け合い、時に笑いころげながら、ぼくたちは賑やかに歩き回った。

途中、何人かの生徒が昼食をとっていない事を知り、ぼくはみんなで食事をしようと提案した。どこへ行くかは彼女たちに任せることにして、ただ、どんな形であれ、みんなにご馳走をしたいと思った。

入ったのはパサールの奥にひっそりと佇む小さな店だった。看板もメニューなく、カウンターについた瞬間に調理が開始されるような場所だ。けれども店はそれなりに繁盛していて、こんな多人数でいきなり押しかけてはと躊躇したが、忙しく動き回る店主はさっとぼくらの姿を認めると、白い歯を見せて頷きながら席を作ってくれた。

わいわいとカウンターを囲み、おしゃべりをしながら料理が運ばれるのを待った。こんな放課後を味わうなんていったい何年ぶりだろうと思った。

カウンター越しに手渡された料理は、まるであんかけそばのような見た目のものだった。皿のいちばん下には全粥を寒天状に固めたロントンと呼ばれる名物料理が並び、その上にゆでた焼きそばの麺、たっぷりのもやし、仕上げにはこれまたたっぷりの甘辛いピーナッツソースが掛けられていた。

ため息が出るほどおいしいというわけではなかったが、それでもシャキシャキとしたもやしの歯触りや、ロントンのほのかな甘みが優しくて、こうしてみんなで食べるのに相応しいものだと思った。

食事をしながらもカメラを預けた生徒は嬉しそうにシャッターを切っていた。他の生徒たちも、店員たちとミナンカバウ語で楽しそうに言葉を交わし、こうしてぼくらが食べにきていることなどを話していた。

そんな光景を目にしながら、ぼんやりと、これまでの旅を心に思い浮かべた。九週間。日本を出て既に九週間が過ぎようとしていた。

様々な出会いがあり、様々な別れがあった。深い悲しみがあり、止まらぬ涙があり、心を包む音楽があった。でも、ぼくはそのすべてに別れを告げながら新たな街を目指してきた。

ひとつの場所に留まることがない以上、別れはいつだってぼくを待ち構えていた。避けることはできなかった。そうすることが宿命であるかのように、別れはいつもぼくの身体から何かを無情にさらっていった。

別れたくない。

不意にそんな思いが心を鷲掴みにした。別れてはいけない、ここに留まるんだ、と。それは旅に出てはじめての感情だった。そして、そんな自分の感情に気付いた時、両目から涙が溢れた。

慌てて涙をぬぐって小さくため息をついた。本当は隠す必要などなかったのに、思いを悟られまいと横にいた生徒にこんなことを言った。「ねえ、これちょっと辛いね」「やだ、先生、泣いてるの?」「あははは。うん、ちょっと辛くて……」

生徒たちの何人かはこれから家へ戻って手伝いをしなければならなかった。他の生徒たちもまた「授業の復習をしなきゃ」と恥ずかしそうに笑った。ともに歩き回り、食事をし、おしゃべりをして、気付けばかれこれ二時間以上もはしゃぎまわっていた。

「先生、パサール・アタスの奥にあるパサール・プティ(白の市場)まで行きましょう」と、生徒のひとりが言った。衣類や布地だけを専門に扱う市場なのだと別の生徒が言葉を足した。そして、今日はそこでおひらきにしましょう、と。

二階建ての布地問屋の通路に並んで、最後に集合写真を撮ることにした。カメラを預けた生徒はもう一度その真剣なまなざしを見せてくれた。小さなモニターを見つめる彼女の瞳は、いつか見た深い海のように黒く輝いていた。

一枚撮り終えたあとで彼女は「チエー・ラギ(もう一枚ね)」とミナンカバウ語で言った。ぼくは思わず彼女を制し、反射的にこう伝えた。「今度はぼくが撮るから、さあ、みんなと一緒に並んで」と。

けれど、彼女が口にしたのはこんな思いがけない言葉だった。「先生、私たちのこと忘れないでね。私も先生のカメラでみんなの写真を撮ったこと、ずっと忘れない」

温かな気持ちのまま生徒たちと別れ、学校までの道をひとり歩いた。いつかまた、パサール・アタスへと続くこの坂道を歩くことがあるかもしれない。けれど、もう二度とこんな気持ちで帰ることはないだろう。すっかり見慣れてしまった街並みを、ひとつひとつ、なぞるように胸の奥に仕舞った。

別れたくない。そんな思いを代弁するように、舗道にこすれるサンダルの音が、背中から追いかけてくるみたいに響いた。

明日の朝、ぼくの最後の授業が始まる。そして、この街を離れていく。

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