見出し画像

何者でもなく / チュムポーン

2003/07/24

十三時発の長距離列車に乗った。行き先はチュムポーンという街だった。この街に何か目的があるわけではなかった。到着が二十一時過ぎであることをファランポーン駅の時刻表で知った。この時間ならまだ宿探しもできるだろう。それだけの理由だった。

車内で隣り合わせたのはイギリスから来た一人旅の女性で、彼女の行き先もチュムポーンだった。それほど熱心に言葉を交わしたわけではない。ぼくは与謝野晶子の『みだれ髪』を、彼女はユン・チアンの『ワイルド・スワン』を読んでいた。時折ページをめくる彼女の腕がぼくに触れた。

列車は定刻よりもだいぶ遅れてチュムポーン駅へ滑り込んだ。時計はすでに二十二時を回っていた。遅延。とにかくここから宿を探さなければならない。

降りる間際になって、「今夜の宿は決めているの?」と彼女は子供のような声で訊いた。何も決めてはいなかった。タイに関するガイドブックすら持っていない。状況は彼女もほぼ同じで、手許にはバンコクで買い求めたというマレー半島の広域地図があるだけだった。

チュムポーンの街は大規模な道路工事が行われていて、まともに歩ける部分がほとんどなかった。冷たくて寂しげな小雨まで降り出していた。

アスファルトの剥がされた瓦礫の道を不器用に渡った。水たまりとすら呼べないほどの雨水が溜まった舗道を、二人でタイミングを合わせて飛び越えた。思わず伸ばしたぼくの手を彼女は強く握り返していた。

「トレッキングに来てるみたいだね」と笑いながら言った。彼女の横顔に柔らかな笑みがこぼれた。

歩きながらようやくお互いの名前を教え合った。彼女は自分の名前をナダと言った。アフリカ系の褐色の肌に、彫りの深い端正な面差し。時おり見せる子供のように無邪気な笑顔が印象的だった。私の名前は「Nothing」という意味なの、と彼女は付け加えた。"Nada" means "Nothing" in Spanish.

学生の頃ヘミングウェイの短編をいくつか翻訳したことがあった。その中のひとつにキーワードとして出てきたのがこのスペイン語だった。Nada。私は何者でもない。

けれど今こうして彼女の手を握りしめながら、ぼくはその温もりを確かなものとして感じていた。彼女の黒く大きな瞳は確かにぼくに微笑みかけていた。

暗がりの街でどうにかチェックインできたのはインフィニティという名の寂れたゲストハウスだった。ツインベッドの部屋で100バーツ(約320円)。部屋をシェアすることでひとり50バーツになった。彼女と顔を見合わせて笑った。

荷物を降ろして交互にシャワーを浴び、ふたたび手を取り合って瓦礫の道を歩いた。ネットカフェを探し、コンビニでビールを買い求め、宿に戻ってナッツと揚げ菓子を分け合って食べた。彼女はいつもぼくに寄り添うようにいた。

宿のアレンジで彼女はパンガン島へ渡ることに決めた。タオ島の南、サムイ島の北に浮かぶ島だという。雨季のせいか、明朝のツアーバスにはまだ随分と空きがあった。ダイビングのライセンスを持つ彼女から一緒に島へ渡ろうと誘われた。あなたと一緒に、と。

その誘いは嬉しかった。彼女と一緒に島へ渡れたらどんなに幸せな日々になるだろう。けれど心のどこかでそんな行為の先にある何かに踏め込めない自分がいた。

旅を続けるのはさよならを言い続けるのに似ていた。出来ることならもう心を許したその先で誰かに別れを告げたくはなかった。あるいは人としての誠意や敬意の問題だったのかもしれない。

彼女を見つめ、そんなふうに折り重なった思いをひとつひとつ言葉に替えた。一緒に島へ渡れないこと。このままぼくは南へ行くこと。今以上に親しくなってしまったらもうお互いそれぞれの旅には戻れなくなってしまうかもしれないこと。

彼女はそっと唇を噛んだ。少しの沈黙の後、彼女は小さな声でこんなことを言った。彼女なりの気遣いの言葉だった。

「疲れてるでしょう? 明日、朝早くピックアップのバスが来てしまうから、きっとあなたも起こしてしまう。ごめんなさい。それが申し訳なくて……」

長い移動の疲れもあり、ビールの程好い酔いを借りてベッドに横になった。灯りを消した部屋の中でも言葉を交わした。彼女はいつでもぼくの英語に熱心に耳を傾け、穏やかな声でゆっくりと話をしてくれた。

「あなたと出会って日本に行ってみたくなった。友達が東京で英会話の講師をしているから、私もそれで暮らしていけたらって思う。ねえ、列車で私のバックパックを荷棚に上げてくれたでしょう。とても嬉しかった。少しの間だったけど、一緒に歩いてくれたり、話を聞いてくれたり、手を繋いでくれたり。私は、あなたの優しさが好きだ」

彼女の声は微かに震えていた。窓の外からトッケイとヤモリの声が何かの終わりみたいに激しく聴こえた。

翌朝、宿の主人が叩くドアのノックで目を覚ました。まだ彼女は眠っているようだった。彼女を起こさないようにそっとドアを開け、シャワーを浴び、コンタクトレンズを装けて歯を磨いた。ジーンズを穿いただけの格好で外のテーブルに座り、ボトルに残っていた水を一気に飲み干した。

部屋へ戻ると彼女はちょうど荷造りを終えてバックパックを背負うところだった。

彼女はぼくに微笑み、またいつかどこかで会えたらと言った。その言葉とほとんど同時にぎゅっと強く抱きしめられた。裸の背中に彼女の手のひらの熱が伝わった。悲しい温もりだった。彼女はぼくの胸に耳を当て、そっと目を閉じてさよならを言った。

腕の中で彼女の身体が小さく震えているのが分かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?