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からっ風 / トゥットゥッ(3)

2003/08/19

悲しみを置き去りにして宿を離れた。いくつもの感情が心の底で大きな渦を巻いた。そんな息苦しさを抱えたまま、湖畔の道をあてもなく歩いた。

どうにか気持ちを切り替えなければと、そんな焦りばかりが胸を埋め尽くした。けれど、そう思えば思うほど、どうしていいのか分からなくなって余計に混乱した。

ふと、バンコクにいる友人にメールでも送ろうかと思いついた。伝えたいことは何もなかったが、そんな使命を敢えて自分に課せば、時化の海も少しずつ凪いでいくのではないかと思った。

正常に動くパソコンを求めて数軒のゲストハウスを訪ねて回った。けれど、島の通信事情はあまりに貧弱で、ちょっとの加減ですぐ不通になった。至るところにパソコンはあっても、確実にネットへ繋がるものは皆無だった。

「インドサット(インドネシア国営電話局)が怠けてるんだ、諦めてくれ」

繋がらない理由をいくら訊ねても、返ってくるのはそんな責任転嫁の返事ばかりだった。もちろん無料というわけではなかった。ネット接続を試みたことへの料金をいつでも請求された。微々たる金額ではあったが、そのたびに釈然としない思いが残った。

唯一メールならできるかもしれないと教わったバグース・ベイというコテージへも出かけた。目についた宿のスタッフに声をかけ、ネット接続が可能かどうかを訊いた。一方的に捲くし立てたと表現した方が正しかったかもしれない。

対応してくれたのは温和そうなバタックの青年だった。

「ネットはできないんだ」と彼はすまなそうに言った。「昨日も試したんだけれど……」

青年の傍らには、この宿に泊まっているらしき旅行者の姿があった。一見して日本人であることが判ったが、どこか場馴れした雰囲気が漂っていた。彼もまた何か言いたげな雰囲気だったが、次の瞬間、ぼくはサングラス越しに目を逸らし、その存在を忘れることにした。

面倒臭い、と反射的に思った。日本人旅行者というだけで気持ちが萎えた。またオンナとハッパかよ、と。日本語で話なんてしたくなかった。

結局、ひとことも日本人の青年には話しかけることなく、スタッフの青年とインドネシア語だけでやりとりを終えた。何をどうしようとネットには繋がらない。つまりそういうことだった。

深いため息をつくと、積み重なった疲労が一気に身体にのしかかった。かれこれ一時間近くもさまよい歩き、結局、そのすべてが徒労に終わっていた。

このまま立ち去るのも選択肢のひとつだったが、ふと思い直し、温和そうなバタックの青年にこんなことを訊いた。今夜ここに泊まれるだろうか、空いてる部屋があったら見せてもらえないか、と。

青年はパッと明るい表情を見せ、空いてるよ、案内するよ、こっちだよ、と笑った。どこから来たのかと訊ねられ、仕方なく日本だよとぼくは答えた。これがきっかけで隣にいる日本人旅行者と知り合う事態になることだけは避けたかった。

案の定、青年は隣にいる彼をこう紹介した。彼も日本から来てるんだよ、インドネシア語はそんなに話せないけどね、と。

知ってるよ、知ってたよ、だからって知り合いになりたいわけじゃないんだと心の中で呟いた。もちろん声には出さなかった。バツの悪さばかりが先に立ったが、紹介された手前、無視を貫けるほどぼくは強い人間ではなかった。サングラスを外し、彼に向かって日本語で「どうも」と小さく会釈をした。

結局、バタックの青年に案内されるまま部屋を見て回り、その日本人旅行者にもいくつか言葉を掛けられ、あっさりとチェックインを済ませて荷物を下ろした。いずれにしても、どこかで今夜の宿を決める必要があったのは確かだった。

宿帳にサインを書き終えると、日本人の青年に促されて、併設されたレストランへ向かった。まあ落ち着けよ、と。

温かな紅茶を頼み、煙草に火をつけて深いため息をつくと、彼はこんなことを言って笑った。「なんかすげーヤツ来たなって。インドネシア語で喧嘩ふっかけんのかよって」

彼はぼくよりも若く、「からっ風」という名でライブハウスに出演する歌い手だった。粗野な受け答えが照れ隠しなのはすぐに分かった。改めてあんな態度で接したことを謝罪すると、彼は豪快に笑い飛ばした。

偶然はどこにでも転がっているもので、話が進むにつれ、お互いの間にある奇妙な共通点にぼくらは驚き、唖然とした。

同じ大学の人間だった。あのグランド坂や学食やキャンパスの景色をぼくらは共有していた。決して楽しい思い出ばかりではなかったが、ふたりの人生のある一時期が、確かにあの場所に含まれていた。こんなスマトラ島の山奥で出会えるなど想像すらできないことだった。

それ以上に驚いたのは日本での住所だった。呆れたことに二人とも同じ市に住んでいた。東京都下、三多摩、まるで東京都であることさえ言い憚れるような、あのお荷物みたいな市に。

ぼくらは大学どころか、人生の大部分を占める場所の記憶まで共有していた。ありえない話だった。もし仮に前もって約束をしていたとしても、こんなタイミングで出会うなどできなかっただろう。驚きを超えて呆れるしかなかった。

「ふざけんなよ。近えよ、近すぎなんだよ!」

そんな彼の言葉に、もうそれ以外のリアクションも思いつかず二人で笑い転げた。

その夜、からっ風の案内でバタックの男たちが集う地元の居酒屋へ向かった。トゥアックと呼ばれる椰子酒を飲みながら、島の男たちがバタックに伝わる歌を大合唱するという。

この島の男たちの歌声、いや、この島の音そのものにぼくもすっかり魅せられていた。パラパッの船着場で、あの宿に併設されたレストランで、ぼくは既にバタックの音の海を何度も泳いでいた。

店は居酒屋というよりも悪党たちのアジトとでも表現した方が相応しい場所だった。一人だったら恐ろしくてまず入れない。無造作に置かれたテーブルと、煙草のヤニですっかり黄色く変色した壁。仄暗い裸電球の中にあって、なぜか鋭さばかりが強調された男たちの目つき。

旅行者向けの小洒落た店に慣れていたぼくにとって、それは一種の恐怖であった。それと同時に、こうやって連れてこられた心強さも手伝って、どうしようもなく好奇心が揺さぶられる空間でもあった。

音楽は唐突に始まった。男たちの一人が、この旅のためにとからっ風が日本から携えたギターを手に取ると、その瞬間、すべてが一気に音楽へと走り始めた。

男が力強くコードをかき鳴らした。Aマイナーだ。シンプルで、どこか哀愁を帯びていて、けれども掛け値無しにまっすぐな響き。それはまるで、音そのものがここに在るという事実をグサリと胸へ突き刺してくるような瞬間だった。

突如、男たちの澄んだ歌声が、天を切り裂くように高く放たれていった。力強く、前へ、空へと。

バタック語の意味などひとつも分からなかったが、分からないからこそ、彼らの音には意味を超えて迫り来る強さがあった。鼓膜で感じればいい。肌で感じればいい。男たちの歌声は確かにそう告げていた。

メロディが進むにつれ、テーブルのあちらこちらから三度五度のコーラスが重なった。男たちは瞳を閉じ、腹の底からありったけの声を絞り出した。薄暗いアジトの空気がビリビリと破けてしまいそうなほどだった。

夢でも幻でもなかった。紛れもない事実なのは理解していた。けれど、うまく信じられなかった。これが今、実際に目の前で起こっている出来事だなんて。

音楽が生まれる瞬間だったのかもしれない。ぼくは今、こんなスマトラ島の山奥で、音楽が生まれる瞬間に立ち会ってしまった。そう思うと、全身に鳥肌が立つような寒気を覚えた。男たちの声が皮膚を通して体中に染み込んでいった。鼓膜で感じればいい、肌で感じればいいんだ、と。

ぼくは掴んでいた両手を一気に離して、その音楽の海へ全身で飛び込んでいった。音楽は一瞬たりとも止むことがなかった。次から次へとギターの弾き手が入れ替わり、リードとコーラスが自在に絡み合い、音がひとつの塊になって天へ突き抜けていった。

けれどもそれ以上に驚いたのは、からっ風もまたバタックのメロディを圧倒的な確かさで歌い上げていたことだった。バタック語を自在に操り、男たちのコーラスを引き連れて、彼の歌声はトバ湖の空を一気に駆け上がっていった。

男たちの一人が嬉しそうにこんなことを言った。「こいつはもうバタック人なんだよ」と。

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