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涸れて湧く / ブキティンギ(1)

2003/08/27

いくら最上位クラスのバスとは言え、パラパッからの道のりは想像以上に過酷なものだった。

ブキティンギまでの十五時間、急カーブが延々と続く山道をバスはノンストップで走り抜けた。水平にまで倒したシートに身体を沈みこませ、どうにか眠りに就こうと努めたが、結局、一瞬たりとも眠ることができなかった。シートベルトは何の役にも立たなかった。

両脚をつっぱり、肘掛けをしっかり握っていないと、急カーブの遠心力でバスの通路に投げ飛ばされそうになった。そうかと思えば、今度は反対側の壁に激しく打ちつけられた。そんな深夜の移動が十五時間だ。絶望的な吐き気を覚えたが、もはや胃の中のものを吐き出す力すら残っていなかった。

這うようにバスを降り、そのままバスターミナルの片隅に倒れ込んだ。身体の重心がすっかり狂っていた。激しい目眩と関節の痛みに襲われ、しばらくまっすぐ立つことすらできなかった。背中や腕に当たる縁石の冷たさだけがせめてもの救いだった。

この街について何も知らない状態で、いったいぼくはどこへ向かえばいいのだろう。旅に出て初めて、そんな呆れるほど本質的な疑問にぶち当たって挫けそうになった。

ガイドブックすら持たず、そもそも事前に宿を予約して旅をしているわけでもなかったから、とにかく自力で宿を見つけて交渉しなければならなかった。とはいえ、こんな朝の早い時間にチェックインをさせてくれる安宿があるとは思えなかった。

どうにか立ち上がり、バスターミナルの出口にあった売店でミネラルウォーターを買った。その場で一息に飲み込むと、そのまま激しく咳き込んでほとんどを吐いてしまった。滲んだ涙をTシャツの肩で拭ったが、涙はなかなか止まらなかった。

どこをどう進んだのか記憶する余裕すらないまま、それでも気力だけでブキティンギの街を歩いた。激しい吐き気に襲われて道端にうずくまることも一度や二度ではなかった。

どれくらい歩いただろうか、気がつくと緩やかな二叉路の前に立っていた。無意識のうちに右を選んだが、急に人通りが途絶え、道幅も狭くなってしまった。こんなところにゲストハウスがあるとは思えなかった。

腕時計の針はようやく朝の七時半を過ぎた頃だった。ちょうど短針と長針がひとつに重なるぐらいの時刻だ。

しばらくすると、道路脇の建物から一人の青年が飛び出してくるのが見えた。そして、しきりに何かを叫んでいた。でもまさかその声がぼくに向けられたものだとは夢にも思わなかった。

「ねえ、君だよ! 君のことだよ! フラフラじゃないか、こっちで休んでいきなよ!」

足を止めて声のした方を振り返ると、青年は道路を突っ切ってぼくのもとに駆け寄り、そのまま手を取って建物へ招き入れてくれた。見るからに温和そうな青年だった。

「疲れてるでしょう? ダメだよ、休まなきゃ」と彼は笑顔で言った。

訳も分からず中へ通されると、ロビーのような空間に数台のパソコンが置かれ、レセプションのカウンターでは制服姿の女性たちが微笑んでいた。ブックバンドで結んだ数冊の本を手にした少年たちや、頭からすっぽり布を被った少女たちも、ぼくの姿を見てにっこりと笑った。

いったい何が起こっているのかまったく分からなかった。

青年に言われるまま、ひとまず荷物を降ろしてソファに座った。「とにかく休んだ方がいいよ」と、彼はまた人の良さそうな笑顔で言った。

しばらく閉じていた両目を開けると、いつの間にか向かいの椅子にレセプションの女性たちも加わっていた。彼らはみな穏やかな目でぼくを見ていた。「大丈夫?」と女性のひとりが英語で言った。ぼくは小さく首を横に振って力無く笑った。そうだったらいいんだけど、と。

彼らは辛抱強くぼくのペースに合わせてくれた。不思議なもので、彼らの穏やかな笑顔を見ているうちに、涸れたはずの力がふたたび湧き出してくる気がした。ぼくはソファに座り直し、背筋を伸ばしてもう一度小さく笑った。

朦朧とした頭では英語もインドネシア語もうまく出てこないことがあったが、それでもゆっくりとしたペースでさまざまなことを伝えた。彼らの興味の中心は、なぜこんな場所に日本人が来たのかという、そんな素朴な驚きについてだった。

一通りの質問が終わると、彼らは熱心にこの街について説明してくれた。わざわざA4サイズの紙に大きく地図を描き、皆であちこちに書き込みをした。マーケットの立つ場所、ネットカフェ、ゲストハウスが集まるエリア、安くて美味しい食堂の場所。それから、今ぼくらが座っているこの場所の位置についても。

「そうだ、ごめんね、すっかり忘れてた。何か温かいものを出してあげなきゃ」

青年は急にそう言って立ち上がると、奥からコップに入った白い液体を運んできてくれた。直感的にホットミルクだと思ったが、勧められるままひとくち含むと、それは温められた甘い豆乳だった。懐かしくて柔らかな味がした。豆乳と一緒に、彼らの温かな気持ちまで身体中に染み渡るようだった。

この建物の正体が何であるかを知ったのは、それから実に一時間以上も経った後だった。その間、訳も分からず保育所のようなスペースに案内され、子供たちの英語の歌声を聴いたり、一緒に写真に収まったり、事態を一向に飲み込めないまま、それでも奇妙なほど歓迎されていることだけは強く感じていた。

結論から言えば、ここは「IBTI(Institute of Business & Technology Indonesia)」という教育施設だった。さっきの子供たちはジュニア英会話クラスの生徒だという。パンフレットを一部もらってカリキュラム表に目を通すと、英語やマンダリンに混ざって日本語クラスまで設置されていた。

しかし、ようやく状況を把握できた頃には、別の意味で手遅れの状態になっていた。

どこまでお人好しなのかと自分でも呆れてしまうが、言われるまま飛び入りで英会話クラスの教壇に立ち、担当講師の進行で日本についての質疑応答を行った。

漢字やカタカナ、ひらがなについて伝え、食文化や伝統行事、果ては音楽や映画のことまで、彼らが次々に問いかける話題を英語とインドネシア語を総動員して伝えた。時間にして、実に一時間半も。

彼らにしてみれば、こんなふうに日本人と接する機会をみすみす手放すわけはなかった。ここは豆乳屋でもなんでもなく、れっきとした教育施設なのだから。

その後、うっかり昼食までご馳走になり、よく冷えた紅茶やお菓子まで手渡された。どこを向いても何をしても、目に入るのは彼らの笑顔ばかりだった。今のぼくを支えているのは、彼らのこんな穏やかな眼差しなのだと思った。

いつの間にかロビーの片隅に置かれたテーブルが定位置となり、まるで出版記念イベントのような状況で大勢の生徒にぐるりと囲まれた。求められるまま彼らの差し出すノートに日本語で一筆書き入れ、インドネシア語で意味を添えるという謎の作業を延々と繰り返した。体力的にはすでに限界を超えていたが、せっかく出会えた彼らの好奇心を無碍にすることなど出来なかった。

しかし、午後二時を回ったあたりであっけなく力尽きた。目を開けていることさえ苦痛になり、生徒たちと話をしながら、唐突に、けれど決定的に崩れ落ちた。意識が飛んだと言った方が正しいかもしれない。

次の記憶は朧気なものだった。荷物すら持たず、彼らに支えられながらどこかを這うように進んだところまでは覚えている。けれど、記憶はそこでぷっつりと途切れたままだった。

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