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こたえのないもの / ブキティンギ(3)

2003/08/28

昨日はふたつの授業に飛び入りで参加しただけだったが、今日からは本格的に教鞭を取ることになった。九十分の日本語クラスがふたつ、中学生の英会話クラスにもゲスト講師として。まさに真剣勝負の一日。

日本語の授業が行われる部屋は他の教室とはレイアウトが異なり、生徒たちはコの字に配置されたテーブルを囲うようにして、直接カーペットの敷かれた床に座っていた。

教室に招き入れられると、彼らは立ち上がって声を揃え「おはようございます」と頭を下げた。ぼくも同じように頭をぺこりと下げて「おはようございます」と返したが、その紋切型とでも言いたくなる目の前の光景に小さな違和感を覚えた。

「どうしてムスリムの彼女たちが頭を下げなければならないのだろう。日本語を学んでいるから? 目の前に日本人がいるから? それが日本式の挨拶だと教わっているから?」

でもそれはもう仕方のないことだと思った。もし彼女たちの一人に「だって日本人はこうやって挨拶するんでしょう?」と訊かれたら、きっとぼくはあやふやに頷くしかできなかった。いや、確かに、実際はそうなんだけれど、と。

顔をあげた生徒たちの目には少しの緊張と照れと、これから始まるぼくの授業への期待とが、奇妙なバランスで交ざり合っていた。もう少しで泣き出してしまいそうな瞳まであった。イイップの言ったとおり、目の前にいるこのぼくが初めて接する日本人だという、そんな生徒も少なくなかった。

「みなさん、おはようございます」

ぼくはもう一度笑顔を見せてゆっくりと日本語で言った。奇妙な違和感は拭うことができなかったが、少しずつ時間をかけ、いつか彼らにもこの違和感を伝えられたらいいと思った。生徒たちのまっすぐな瞳に、ほんの少しだけ後ろめたさを感じながら。

授業は主にインドネシア語で行われた。ぼくに授業が務まるだけのインドネシア語のスキルがあったかどうかは疑問だったが、板書をする時には必ず「ひらがな」「アルファベット表記」「インドネシア語」「英語」の順に書いて対処した。

ひらがなの部分を発音し、まだきちんと読めない生徒のためにアルファベット表記を指しながら繰り返し、対応できる単語があれば、その都度インドネシア語を指して意味を伝えた。

ひとつのセンテンスに四種類の表記と発話が必要だったが、インドネシア語の部分では、一年間ほど広島大学に留学したことのある女性講師のリスマール先生の助けを借りた。

文法的な側面から、あるいは助詞の意味と用法、語形変化や用言の活用まで、ざっくりとした内容ではあったが、クラスごとの習熟度に合わせた内容を伝えることに努めた。

満足なテキストもなく、すべて手探りで日本語を教えることに何度も挫けそうになった。日本語という言語をいちばん分かっていないのはぼく自身ではないのかと、そんなことさえ思った。

外国人向けの日本語教授法として印象的だったのは、用言の活用に独特の考え方があることだった。五段活用や上一段活用なんてどこ吹く風だ。言葉の変化を、構造的な側面ではなく、センテンスの中で捉える意図があったのだろう。動詞はこんな分類がなされていた。

「辞書型」:食べる 笑う
「ない型」:食べない 笑わない
「ます型」:食べます 笑います
「た型」:食べた 笑った
「て型」:食べて 笑って

形容詞、形容動詞についても様々な工夫がなされていた。当然のことながら、リスマール先生もこの型をもとにぼくへの質問や確認をすることになった。それは初めのうち、インドネシア語をマスターするよりもずっと難しい考え方に思えた。

「タイラ先生、『食べて、笑って』は、『食べる、そして、笑う』と違いますか、同じですか?」

アドバンスクラスの生徒の一人がそんな質問を投げかけた。「『て型』は、うしろへ続く、できます」と。

洞察力のある質問だと思った。彼女が問題にしているのは、「て型」という語形変化に含まれる接続助詞「て」のことだった。ある意味、これほど答えに窮する質問も他にないかもしれない。多くの日本人にとっても、前提の違う文法環境で学んだ彼らに満足な解説をするのは至難の業だろう。

ぼくはまず彼女にこう答えた。「とてもいい質問です」と。そして、すでに板書してあった「食べて 笑って」の下に「食べる そして 笑う」と書き加えた。

「答えから先に言いますと、このふたつの表現は違います。もちろん『て型』はうしろに続くことができますが、それは『そして』を使って並べる場合とは違う場合があるのです」

リスマール先生が思わずこう言葉を漏らした。「タイラさん、とても難しいです。私も分かりません」

そんな彼女の言葉にぼくも微笑んで言った。

「リスマール先生、実はぼくも分かりません。これはとても難しい質問です。でも、違うということは確かです。同じではありません。これから日本語を学んでいく中で、この疑問はとても大切なものになると思います」

ぼくは質問を投げかけた生徒に向かってゆっくりと語りかけた。「ぼくらが学んでいるのは、知識ではなく言葉なのです」と。

「今からぼくが話す内容は、もしかしたら正しい説明ではないかもしれません。でも、皆さんはすでにたくさんの日本語を学んできているわけですから、今までとは違う観点から日本語を考えることもできるはずです」

ぼくはそんなふうに解説を始めた。もちろん接続助詞「て」の説明をしたところで埒が明かないのは分かっていた。だいいち「原因」だの「理由」だの「継起」だの「完了」だの、そんな文法上の知識を彼らは求めているわけではなかった。

「て型について考える前に、まず、変化する動詞そのものを考えてみましょう。動詞と呼ばれる言葉には色々な種類がありますね? 『食べる』『笑う』それから『話す』『見る』『考える』なども、すべて動詞です」

言いながらホワイトボードに大きな円をふたつ描き、ぼくは、それぞれの上に「tindakan(action)」と「emosi(emotion)」という文字を記した。さらにそのふたつを虹のアーチで結び、中央に「kata kerja(verb)」と書き加えた。小さな笑みを浮かべて振り返ると、生徒たちはふたつの大きな円とぼくとを交互に見つめた。中にはぼくの意図するものを察し、こぼれそうな笑顔を見せる生徒もいた。

ぼくが伝えたかったのは、つまり、そういうことだった。

単純に「そして」で動詞を並列につなげてみても、そこに理由や感情は生まれない。けれど、「て」型の接続助詞を使ってつなげると、原因や動作や思いや戸惑いまでが寄り添い、互いに結びつくことで、ぼくらは本当の意味で言葉を理解できるようになるということだった。

彼らが授業を通じて学ぶ日本語は、今はまだ川の流れに点在する岩のようなものだった。「そして」で両者をつなぎ、ふたつの意味が分かればそれでもう充分なのだ。でもぼくが伝えたかったのはもっと丸みのある言葉の世界だった。互いに連鎖し絡みあって生まれる、あやふやで柔らかな感情の連なりだった。

スマトラ島の山奥で彼らの真剣な眼差しに触れながら、ぼくはふと自分が学生だった時のことを思い出していた。勉強と名の付くものをことごとく毛嫌いし、教師という存在すら小馬鹿にする生徒だった日々を。

高校時代、いったいぼくはどれほどの日数を教室で過ごしたと言うのだろう。三年間かけて出席した日数は二年分にも満たなかった。留年せずに卒業できたこと自体が奇跡だった。

山ほどの本を抱えては校舎の屋上で読み耽り、すでに常連客となっていた小さな喫茶店の片隅でも、傍らにコーヒーを置いてページをめくってばかりいた。

「それではみなさん、感情を表す動詞にはどんなものがありますか? それから、動きや変化を表す動詞にはどんなものがありますか?」

どれだけの生徒がこの解説を理解できたのかと思う。厳密に言えば、ぼくの話した内容はすでに語学の枠から外れてしまっていたし、質問への回答というよりも、それを足がかりに言葉の世界を垣間見ようとする試みでさえあった。ある意味でぼくはもう講師ですらなかった。答のないものをどうにか伝えようとしていたのだから。

でも、それでも、とぼくは確かな気持ちで思う。人生には解答のないもの、例えば偶然と呼ばれる大きな力についても、受け止めて理解しなければいけない瞬間があるのではないか、と。

こうして異国の小さな街で彼女たちと日本語を学び、挙句に学校で寝起きをするだなんて、いったい誰が予想できただろう。

ぼくは偶然を奇跡と呼ぶほど信心深い人間ではなかった。そもそも信仰すら持っていなかった。けれど、この温もりだけは特別なものだということを、ぼくはすでに理解していた。

それは、答え合わせで正誤が決まるような冷たい世界ではなかった。

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