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See you next life / トゥットゥッ(5)

2003/08/24

結局、以前の宿へ戻ることにした。もう一度あの場所へ帰ろうと思った。バグース・ベイで過ごした時間が、あれほどまでに混乱した思考を静かになだめてくれた。それはまるで回復という言葉そのものだった。

宿へは三十分ほど山道を歩く必要があった。悠然と水を湛える巨大なカルデラ湖の姿を噛み締めるように見つめた。本当にさよならを告げるのはまだ先でいい。

宿にオーナーのリオの姿はなかった。ドクラスの姿も見当たらなかった。

リュックサックを担いだぼくを迎えてくれたのは、ヤンティとシスカの二人の少女だった。二人はぼくの姿を見つけると揃って声をあげた。大声で何度もぼくの名前を叫び、満面の笑みで駆け寄ってくれた。嬉しさと照れくささがごちゃ混ぜになって、ぼくはただ笑顔で頷くしかなかった。

「もうとっくにここを離れたと思ってたのに!」

両手を腰に当て、ヤンティはふてくされた顔で言った。そしてすぐに茶目っ気たっぷりの笑顔を見せ、ぼくの腕を叩く真似をした。そんなヤンティにぼくは照れ隠しみたいに言った。

「違うんだよ、二人の作るルンダンアヤムがまた食べたくなって」

それからの数日はまるで陽だまりで過ごすような安らぎの中にあった。

日がな一日ぼんやりと湖を眺め、気まぐれにギターを弾き、小さなノートに文字を記し、いつものベンチで看板犬のクレムと昼寝をした。

アンバリータという集落まで足を伸ばし、小さな古本屋に立ち寄って背表紙をぼんやり眺めることもあった。子供たちに呼び止められ、道の真ん中でサッカーの真似事をして遊んだりもした。

リオやドクラスとも他愛もない話題で笑い合い、夜になれば湖から吹く風の音に耳を澄ませ、ともに歌い、その優しさに包まれて眠った。

ある日の午後、ヤンティとシスカに、ペナン島のナイトマーケットで買ったビーズのアクセサリーを取り外して渡した。本来はチョーカーだったが、ペナン島で買って以来、二重にして左の手首に巻きつけていたものだった。

ヤンティは緑のビーズを、シスカは赤いのを選んだ。ぼく自身の手で、それぞれの手首に巻きつけてから二人に笑顔を見せた。

彼女たちはこの安物のビーズをとても大切にしてくれた。たとえば洗濯の際、湖に流してはいけないとわざわざ取り外して棚に仕舞い、料理の際どこかに引っ掛けやしないかと、また外して小皿の上に並べたりした。また手首に巻いてと照れながらぼくの元にやってきては、この小さな光をいつも嬉しそうに眺めていた。

一度、戯れで、ヤンティがぼくに対する愛情の深さをパーセンテージで示し、それを紙に書いて見せてくれた。メモ帳を受け取って中を覗くと、そこには小さな文字で「My love is 85%」と書かれていた。85パーセント。ヤンティは恥かしそうに肩をすくめ、そっとぼくの名前を呼んだ。

その様子を見ていたシスカもまた、メモ帳を奪うように取ると小さな声でこう呟いた。あのね、私の愛情はね……。差し出されたメモ帳には、ヤンティよりももっと小さな文字で「86%」と書かれていた。そんな彼女のいじらしさに思わず頬が緩んだ。

少しの沈黙のあと、ヤンティがシスカを見つめながらこんなことを言った。ねえタイラ、あなたの愛情は何パーセントなの? それぞれの数字の横に、それぞれに対する愛情のパーセンテージを書いて、と。

正直どんな数字を書けばよいか分からなかった。いくら戯れの冗談とはいえ、彼女たちをがっかりさせる訳にはいかなかった。しばらく迷った挙句、ぼくが書いたのはその数字を筆算で足した合計の数字だった。ちょうど、こんな具合に。

  My love is 85%
+)My love is 86%
─────────────
       171%

無茶苦茶な答えなのは分かっていた。でも他にどうすればいいと言うのだろう。片手でメモ帳を隠し、そう書き加えたところで裏に返した。

「いい? ぼくが席を外すまで裏返しちゃダメだよ。でもね、本当はね、愛情を数字でなんて言えないんだよ」

そう言い残し、サングラスやら読みかけの小説やらを手に立ち上がってレストランを離れた。そのすぐ後ろで、メモ帳を裏返した二人の声が聴こえた。笑いと不満の入り混じった声。

それからすぐに耳に飛び込んできたのは、ふたつの「I love you, Taira」という言葉だった。ヤンティの声は大きく、シスカの声は小さく戸惑っていた。二人の保護者にでもなった気分だった。そんな彼女たちの思いがたまらなく愛しかった。

最後の晩にキャムと美鈴がお別れの宴を開いてくれた。酒を持ち寄り、いっぱいの料理を並べ、夜が更けるまで一緒に歌った。音に誘われ、あちこちからバタックの男たちも集まり、もちろん笑顔のジャックも加わり、この土地での最後の夜を分け合った。そこにはもう涙はなかった。

翌朝、オーナーのリオと一緒にトゥットゥッを離れることにした。対岸のパラパッまで四十五分の船旅だ。感謝の気持ちを伝えようとしたが、ありがとうと言うだけで精一杯だった。胸に積もった思いは上手く言葉にならなかった。

チェックアウトを済ませ、鍵を返し、清算を終え、ボートが来るまでの時間をレストランのテーブルで過ごした。ヤンティとシスカにも別れを告げなければならなかった。

「あのね、おとといの夜、夢の中にあなたが出てきたの」とヤンティは言った。そして昨日の夜、今度はシスカの夢の中にぼくが出てきたという。彼女たちの夢の中でぼくはどんな言葉を発したのかを知りたかったが、何度訊ねても彼女たちは「忘れちゃった」と繰り返すばかりだった。

ヤンティは、ぼくへの愛情はもう95パーセントを超えたと言った。日ごとに好きになっていくの、と。そして、その言葉を耳にしていたシスカもまた、ぼくに向かってこんなことを言った。

「私の愛情はもうとっくに100パーセントなんだから!」

そう告げるシスカの声は、これまで聞いたことがないくらいに大きく切ないものだった。ぼくは二人の言葉にどう答えてよいか分からず、唇を噛み締めたまま二人の姿を見つめるしかなかった。

ボートの時間をもう一度訊ねた。時間通りならばあと数分で到着するという。

ヤンティもシスカも、もう何も言わなかった。こんな陽だまりのようなやりとりがどこへも行かないことを、誰よりも理解していたのは彼女たちの方だった。二人はぼくの愛情がどれくらいなのかを再び問うことはなかった。

ぼくはこの街を離れていく。きっともう、二度と会うことはないのだろう。その意味とその事実を、彼女たちは、もう……。

リュックサックを担ぎ、船着場へ向かうべく立ち上がったぼくに、ヤンティは目に涙をためて絞り出すように言った。

「I love you Taira. See you next life.」(タイラ、愛してる。来世で会いましょう。)

それは実際の声として、生身の少女の声として聞くには余りにも哀しいものだった。視線をずらすと、シスカも目にいっぱいの涙をためて、ふてくされたように床の一点を睨みつけていた。

さよなら、と思った。さよならヤンティ、さよならシスカ。See you next life. もしも叶うのなら、いつかまた、この未来のどこかで。

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