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存在の炎 / トゥットゥッ(2)

2003/08/18

時々、喜びと悲しみの区別がつかなくなることがあった。子供の頃から何度も指摘されたことだったが、今でもこのふたつの感情をうまく使い分けられないようだった。

周囲の大人たちは呆れ顔でいつもこう言った。そこは嬉しいって言うんだよ、悲しい、じゃなくて。何度か自分なりの説明を試みたことがあったが、いつしかそれも止めてしまった。

穏やかな昼下がり、レストランの片隅に置かれた流木のベンチに寝そべってサガンを読み返した。ページを繰るのはクラビで買って以来もう四度目だった。

活字を追うのに疲れてしまうと、目を閉じて風の音を聴いた。軒先に吊るされた竹の風鈴がカラコロと乾いた音を立てた。あの夏の終わり、森の中から聴こえたリンディックという竹琴の音色を思い出した。

島に人影はなく、レストランも開店休業中だった。湖のほとりから、住み込みで働くヤンティとシスカの笑い声が小さく聴こえた。

どれくらい眠っていたのか、気配を感じて目を開けると、この宿の看板犬クレムの顔がすぐ目の前にあった。垂れ耳でクリーム色の可愛いらしい犬で、最初に会った時からすぐに懐いてくれた。

笑顔で首筋を撫でておいでとベンチを叩いた。クレムは慣れた様子でぼくの隣に飛び移り、ぴったりと身体を寄せると、安心したように目を閉じた。そんな仕草にぼくもすっかり気を許し、湖から吹き付ける風の音にふたたび耳を澄ませた。

ふと、こんな午後がずっと続けばいいのにと、淡い悲しみの中で思った。

数日前あれほど声を上げて泣いたはずだったが、それでも時々、胸の中にさまざまな思いが浮かんだ。誰かの面影や、愛しい仕草や、切れ切れになった言葉たち。

ある者は溜め息をこぼし、ある者はぼくを抱きしめ、ある者はきっぱりと別れを告げ、それぞれの道を歩いていった。誰ひとり戻ってはこなかった。

ぼくの思考そのものまでが断片となって飛び散り、独立記念日の朝以来、うまく文章を繋げられずにいた。

連夜のギターと歌が深く心に染み込んでいるのは確かだった。こんな体験はもう二度と起こらないだろう。そんな予感が何度も胸を埋め尽くし、いつしか、この高鳴りが消えないうちに立ち去るべきだと思うようになっていた。

この宿もこの島も、今のぼくにはあまりにも居心地が良かった。だからこそ心のどこかで、誰かと親しくなりすぎることへの迷いや戸惑いがあった。

心を開くということは、そこから受ける痛みに耐えることと同義だった。そして今のぼくにはまだ、その痛みに耐えられるだけの器も自信もなかった。

翌朝、朝食を終えたタイミングでチェックアウトの旨を伝えた。オーナーのリオもスタッフたちも、その突然の言葉に明らかな戸惑いを見せた。

「何が気に障ったのか? どの人間に問題があったのか?」と、リオはそう矢継ぎ早に訊いた。

ドクラスは既に客引きのためにパラパッへ出ていたが、住み込みで働くヤンティとシスカの二人の少女は、今にも泣き出しそうな眼差しでぼくを見つめた。

「リオ、何も問題はなかったよ。楽しかった。本当にありがとう。ただね、別の場所にも泊まってみたくなったんだよ」と、快活な声でぼくは嘘をついた。もちろんそんな言葉が通用するはずがなかった。でも、そうとしか言いようがなかった。

シスカが両手で顔を覆い、小走りにどこかへ駆けていった。ヤンティも唇をきつく噛み締めて下を向いた。リオは両腕を広げ、必死になって何度もぼくを引き止めようとした。

「好きな絵葉書をどれでも取っていい。この宿からの贈り物だ。なあ、どれか一枚を選んでくれないか」

リオは哀願するような眼差しで言った。レセプションに置かれた絵葉書をぼくが一枚選べば、それですべてが丸く収まるとでも言うように。

「今夜また一緒にギターを弾こう。お願いだよ、日本の歌をたくさん教えてほしいんだ」

リオの言葉はすでに叫びに近いものだった。

彼の気持ちは痛いほど理解できた。本当はチェックアウトをしたいわけではなかった。けれどもうぼくは言ってしまったのだ。

「また、いつか会いに来て」

そうヤンティが絞り出すように言った。その瞳は既に涙で滲んでいた。つらい気持ちになった。いつか必ずと繰り返す彼女の思いに、ぼくは何ひとつ声を掛けることができなかった。

結局のところ、ぼくは誰かの厚意や親切をいとも簡単に踏みにじることができる人間なのだと思った。たとえ思考がうまくまとまらない状態で発した言葉であっても、それはもう言い訳にすらならないものだった。涙を必死に隠し、駆けていったシスカの悲しみも、ぼくが癒すことのできるものではなかった。

判断の軸となるものさえ分からずに生きるのはとても苦しいものだった。こうして気まぐれな思い付きにすがり、必死に断片をかき集め、それと引き換えに誰かを深く悲しませるなんて。自分の存在を消してしまいたいと思うのは、いつもこんな瞬間だった。

いや、本当のところはぼくにも分からなかった。何がきっかけでこんなにも頭が混乱してしまったのか、どうして言葉を適切に選ぶことができないのか……。ひとつ言えるのは、ぼくの手元にはもう処方された抗うつ剤が一粒もないことだった。

例えば、とぼくは必死になって言葉を繋ごうとした。例えば、例えばもし、暗闇で揺れるロウソクの炎を躊躇いもなく吹き消してしまうみたいに……。

深いため息をついた。そんなふうにして、いったいぼくは何をおしまいにしたいと言うのだろう。

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