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我まどひの子 / トゥットゥッ(1)

2003/08/17

 Indonesia raya, merdeka, merdeka.
 偉大なるインドネシア、独立、独立。

八月十七日、インドネシア独立記念日。通りには紅白の国旗がたなびき、祖国インドネシアを讃える歌が鳴り響いていた。

本来であれば今頃、ドクラスのバイクに乗ってサモシール島をぐるりと回っているはずだった。けれど、今朝になってそんな気持ちは跡形もなく消え失せていた。

ドクラスは全周百キロメートルを超える島をわずか100,000ルピア(約1,400円)で回ると言ってくれた。破格と言うしかなかった。一緒だったらきっと楽しいはずだよとドクラスは無邪気に笑った。それなのにどうしても気分が乗らなかった。

昨夜もまた併設されたレストランのテーブルを囲んで夜中までギターを弾いた。パラパッの船着場の食堂と同じように、思いつくままさまざまな曲を歌った。途中で例のポーランド人も加わり、通り掛かった他の旅行者までもが何人も輪に入った。

宿の主人リオがバタックに伝わる曲を歌い上げ、ぼくの歌にもたくさんのコーラスが重なり、テーブルはまるで即席のライブステージのような熱気に溢れた。
 
力強いギターの音が夜に放たれていった。その音色はまるで、この世のすべてを引き受けてぼくらを柔らかく包み込むようだった。

声を合わせ、テーブルや椅子や空いたボトルで思い思いにリズムを取り、誰もがひとつの音の海へ飛び込んでいった。心に巣食っていたしこりやわだかまりが、顕微鏡の先でほどける細胞のように、絡み合った鎖を自ら解き放っていった。

そんな温かな高揚感の中で、これまでの人生で失ったものたちが脳裏をかすめていった。若くして死に、あるいは自ら命を絶った友人や愛した人。もう二度と、言葉を交わすことも触れ合うことも出来ない多くの温もりが、ぼくの肌を優しく撫でていった。

彼らはみなぼくに向かってこう告げていた。すべて起こってしまったことなんだ、もう誰のせいでもないんだ、と。

部屋に戻った時、身体がバラバラに砕けてしまいそうなほどの喪失感を覚えた。しっかりと膝を抱えていなければ乗り越えられないほどの痛みだった。

彼らは死に、ぼくはまだ生きていた。彼らを失い、それでもぼくは生きていた。遠く離れ、隔たれてしまった彼らのしぐさや息遣いが、まるですぐそばにいた時のように甦った。

それは同時に、彼らの死はぼくのせいだという確証のない罪悪感を、いつしか自分のアイデンティティにすり替えて生きてきたことへの激しい非難でもあった。彼らの死をぼくは利用していた。皮肉ばかりで素直になれないのを心に負った傷のせいにし、打ち解けようとしない偏屈さは影として敢えて身に纏おうとした。脳天気なお前らと一緒にしないでくれ、俺は十字架を背負っているんだ、と。

旅に出て初めて声をあげて泣いた。枕に顔をうずめて大声で泣いた。どこにこれほどの涙があるのかと思うぐらいに涙は溢れ、止まらなかった。

今朝目覚めた時、どうしても島をめぐる気持ちになれなかった。

朝食の席でドクラスに島巡りをキャンセルする旨を伝えた。もちろん彼は理解しなかった。今朝になって予定を覆したことに、彼は戸惑いと深い落胆を見せた。

「楽しみにしてたんだよ。もう今日の分のガソリンを入れてしまったんだ」と彼は言った。「申し訳ないけど、その代金だけでも払ってくれないとぼくも困るんだ」と。

楽しみにしていたのは同じだったが、ガソリン代に関しては少し奇妙な理屈だと思った。もちろんこの口約束を正式な契約として考えれば、当日キャンセルの違約金が発生するのは理解できた。けれど、いや、でも、どうして……。悲しげなドクラスの眼差しを見つめ、ぼくはすぐに思い直した。

おそらくドクラスは今日のために、借金か後払いかでガソリンを満タンにしてくれたのだろう。一緒に島を巡り、ふたりでがちゃがちゃと笑い転げ、ぼくの支払いを受け取ったその足で、助けてくれた人たちに返済するつもりだったのではないのか。

きっとそういうことなのだろうと思った。

提示されたガソリン代は30,000ルピア(約420円)だったが、40,000ルピア(約560円)を無理矢理ドクラスの手に握らせた。明らかに戸惑う彼に「気にしないで受け取ってほしい。キャンセルして本当にごめん。ぼくも楽しみにしていたんだ」と伝えた。

40,000ルピアを支払い、同時に島めぐりの機会も手放すことになったが、結局はそれで良かったのだと思った。ぼくはもっと大きなものを失ってきたし、昨日の夜、あんな形で彼らの温もりや言葉にもう一度触れ、自分自身の幼さにも気付くことができたのだから。

水の淵に投げし聖書を又も拾ひ 空仰ぎ泣く我まどひの子 — 与謝野晶子

ふと、そんな一首を思い浮かべた。捨てては拾い、また捨てては拾いあげ、人はみな、戸惑いの中で涙をこぼしながら空を見上げるしかないのかもしれない。

目の前に広がる穏やかな湖は、何かの終わりを告げるように、深く、その水を湛えていた。

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