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偶然と必然のあいだ / ブキティンギ(2)

2003/08/27

目を覚ました時、自分がどこにいるのかよく分からなかった。

枕元には「英語・インドネシア語」に対応した工業系の専門書が並び、脇のテーブルには目覚し時計と小さな鏡が置かれ、隣には数冊の雑誌が積み上げられていた。時計を見ると、すでに夕方の六時半だった。

今に至るやりとりを思い出そうと試みたが、寝ぼけた頭ではうまくいかなかった。生徒たちに囲まれ、たしか日本語で一筆書いてはインドネシア語で意味を伝えていたはずだ。はにかんだ笑顔、穏やかな笑い声、いくつもの真剣な眼差し。そして、それから……。

身体を起こし、もう一度部屋の中を見回した。ドアのすぐ隣には枯れ枝のような形状の衣装掛けがあり、その足許に寄り添うようにして、南京錠が掛かったままのぼくのリュックサックが置かれていた。ドアの手前には一枚の小さな刺繍布が敷かれ、その上に、きちんと揃えられたぼくのサンダル。

おもむろに立ち上がり、仄暗い光のこぼれる窓辺へ足を運んだ。そっと板ガラスの窓をスライドさせて外を眺めると、屋根の両端が鋭く天に伸びた風変わりな建物が見えた。初めて目にする意匠だったが、青く浮かぶその輪郭から厳粛な趣を感じ取ることができた。

そして、にわかに始まるアザーンの歌声。

しばらくの間、目を閉じて礼拝を告げる歌声に耳を澄ませた。拡声器から流れる哀愁を帯びた響きに、はるか遠い褐色の街を思い浮かべた。まだ見ぬ砂漠の都市、モスクを彩る瑠璃色のタイル、風の音、照りつける陽射し、人々の匂い。

いくつもの思いを遠くに飛ばして小さく息を吐いた。背中で壁にもたれたまま、結局最後までアザーンを聴いた。この歌声は今、どれだけの人間の胸に届いたのだろうか。ふと、インシャラーという言葉が頭に浮かんだ。アッラーの御心のままに。

心の奥深くから透明な水が滾々と湧き出し、幾重にも波紋を広げて胸を埋め尽くしていった。こんなイメージが思い浮かぶのは初めてのことだった。そして、何が大丈夫なのかさっぱり分からないけれど、ぼくはもう大丈夫なんだ、生き延びたんだと、そんな確信にも似た何かがぼくを包み込んだ。

気がつくと閉じた両目から涙が溢れていた。涙だと気がつくまでしばらくかかるぐらいに自然な涙だった。指先でそっと頬を伝う涙を拭った。涙は体温よりも温かく、雨よりも優しかった。

授業準備を終えたイイップが部屋を訪ねてくれたのは、それからしばらくしてからだった。朝と変わらぬ穏やかな笑顔で彼はこんなことを言った。

「ぐっすり眠ってたね、もう平気?」

両手を大きく広げて素直に頷くと、彼はポケットから取り出した鍵の束を左右に振ってにっこりと笑った。

「ボスがね、この部屋、空いてるからずっと使っていいよって」

「ボス?」

「一人だけネクタイの人がいたでしょう? あの人が校長先生」

「まだ若い人だったよね?」

「んー、三十五歳だったかな。さっきね、タイラが生徒にいろいろ書いてくれてた時に言ってたんだ。後で空いてる部屋に案内してあげなさいって」

「……そうだったんだ。まったく知らなかった」

「そりゃそうだよ。だって案内した時にはもう寝てたもの」

「待って、ここって何階?」

「三階だよ」

「……つまり、寝ながら階段上がったってこと?」

「覚えてない?」

「あんまり」

「すごかったよー。両手をついて上がったんだ、こうやって」

イイップは笑いながら赤ん坊がハイハイする真似をしてみせた。彼のそんな仕草がとても楽しげで、照れくさくもあったがつられてぼくも笑った。

「そうそう、これね、校長先生から」と、鍵の束を手渡され、この部屋とメインのエントランスとシャッターの合計三箇所の鍵を教わった。厳重なんだねと感心しながら頷くと、イイップは可笑しそう言った。

「心配しなくて大丈夫だよ。奥に校長先生の家族も暮らしてて、シャッターはいつもセキュリティのおじさんが管理してくれてるから」

「じゃあ、この鍵を使うことは滅多にないかな?」と、ぼくはシャッター用の鍵を指してイイップに訊いた。

「まず使わないと思うよ。真夜中じゃお店どこも開いてないし、野犬だってたくさん出てくるし」と彼は笑った。

「ところで、ちょっと遠いんだけど、うちで一緒にごはん食べない? 家族にもタイラを紹介したいんだ」

すっかり日の暮れたブキティンギの街をイイップの案内で歩いた。交差点や目印になりそうな場所まで来ると、朝と同じように彼はあれこれと解説を付け足してくれた。いったいどこまで親切なのだろうかと驚くしかなかった。

彼は二十四歳で、三年間の専門学校を出たあとに大学に通い始めたこともあり、肩書きはまだ大学生だった。今はちょうど長期の休みにあたり、帰省も兼ねてブキティンギに戻ってコンピュータークラスのアシスタントとして働いていた。

「ねえ、忘れてたんだけど、ボスにお礼言うの明日でも平気かな?」と、ぼくはイイップに訊いた。

「お礼なんて要らないよ。授業にも出てくれたし、生徒たちもすごく喜んでたでしょう? だってあの子たち、日本人と話をしたのが初めてだった子も少なくないんだから」

「そうだったんだね。でも、なんだか本当にありがとう。今朝、声をかけてくれてすごく嬉しかった」

「ぼくも嬉しかったよ。だってほら、こんなにすぐに仲良くなれて」

そう言って、イイップは朝と同じように穏やかな笑顔を見せた。

イイップの自宅は、ブキティンギの丘に広がるパサール・アタスという市場から、さらに北へ進んだ静かな住宅地にあった。彼に勧められるままドアの内側へ進むと、目元の優しげな、すべてを包み込むような笑顔の彼の母と、恥かしがり屋で、でも芯の強そうな可愛らしい妹が出迎えてくれた。

「お母さん、お会いできて嬉しいです。妹さん、どうもはじめまして」

咄嗟にそんなインドネシア語が口をついて出てきた。それはマラッカの宿で働いていたシティというスマトラ島出身の女性から教わったフレーズだった。

突然目の前に現れた外国人がそんなインドネシア語を発したからか、ふたりの表情がパッと明るくなるのが分かった。

「今日ね、学校で生徒たちにいろいろ話をしてくれたんだ。ぼくら、もうすっかり友達なんだよ」

イイップはそんな言い方でぼくを紹介してくれた。「友達なんだよ」という言葉の温かみが、イイップの穏やかな声に乗って胸に響いた。

見知らぬ土地で出会い、言葉を重ね、今こうして一緒に居られる事実がたまらなく嬉しかった。今朝イイップが手渡してくれたのは、きっとあの暖かくて甘い豆乳だけではなかったのだろう。

もう一度、ぼくは幸せな気持ちのまま「こんばんは、タイラです。日本から来ました」と笑顔を見せてふたりに言った。

それからイイップをちらりと見やり、「ぼくのインドネシア語、あってるよね?」と、小声で冗談めかして訊いた。彼の母と妹の、ふたつの穏やかな笑い声が聴こえた。

「大丈夫だよ、全部あってるよ!」

イイップはまた穏やかな笑顔を見せ、嬉しくてたまらないとでも言うようにぼくの肩へ腕を伸ばした。身長差を埋めるためにぼくも膝を屈めて、不格好にイイップと肩を組んだ。そしてまた、ふたりで顔を見合せて笑った。

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