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そこまでの空 / パダン

2003/09/05

パダンに滞在する目的はトランジットだった。明日のフライトに備え、今夜一晩だけ、どこか近場に泊まれさえすればよかった。

ちっぽけなリュックサックに安物のギター、ジーンズ、サンダル、色褪せたTシャツ。そんな格好でブキティンギを離れた。この街へたどり着いた時と同じアウルクニンのバスターミナルから。

ミニバスの狭いシートで身を折るようにしてパダンまでの道のりを過ごした。脳裏には生徒たちの笑顔ばかりが浮かんだ。視線を窓の外に向けると、街がスピードに溶けて色を失くした。

もう歩き出してしまった。そう何度も言い聞かせた。子どもたちの指先を離れた風船は凍えながら天へ消え、もう二度と腕の中へは戻れない。

あやふやな陽炎の揺らぎの中へいくつもの願いを放った。唇が震えていた。この悲しみを今はまだどうすることもできなかった。

ゆるやかなカーブの続く坂道をしばらく走った後、バスは何の前触れもなく路肩に停車した。窓から見える商店の看板には、すでにパダンの文字が染め抜かれていた。運転手はシートから身を乗り出すとピンポイントでぼくにこう叫んだ。

「ここで少し待っててくれるかい? アンクル・ジャックのゲストハウスでいいんだろ?」

ブキティンギを離れる時、ひとりの生徒がしきりに運転手と話をしていた。「あの人をバスターミナルの手前で降ろしてあげて。アンクル・ジャックの宿の近くでいいんだ」と。

早朝の便に乗るぼくのために、生徒たちは前日から手近な宿をいろいろとあたってくれた。市街地よりも手前のビーチの方が空港からは近いのだという。

運転士はクラクションを何度か鳴らし、すれ違う他のミニバスに合図を送った。どうやらぼくをここで降ろし、もっと近くまで行くミニバスへ乗りかえさせようとしているようだった。

リュックサックを背負い、左手でギターを掴んだまま、ミニバスを降りて前方に回った。クラクションを鳴らす運転手のまなざしを見つめ、通り過ぎるクルマの列を眺め、もう一度、運転手の横顔を見つめた。

やがて、クラクションに応じた一台のミニバスが減速し、反対の車線にぴたりと停まった。いくつかの単語が飛び交い、歩み寄った運転手はぼくを振り返ってから、数枚の紙幣をミニバスの車掌に手渡した。

「もう払ったから大丈夫。じゃ、こっちのバスに乗り換えて!」運転手は手招きをしながら白い歯を見せて言った。

メダンと同じ窮屈なミニバスに揺られ、さらに十分ほどの距離を走った。車掌に示された路地の入り口に降り立ち、笑顔でありがとうを伝えた。

「どれくらいかかるかな?」

「さあ、行ったことないからね」

「ここで合ってるんだよね?」

「アンクル・ジャックだろ? 合ってるよ!」

足元に並べた荷物を背負い直して小さく息を吐いた。遠ざかるミニバスの後ろ姿をしばらく見つめた。こうしてまた旅人に戻ったのだと、そんなことを思った。

距離感がまったく掴めないまま寂れた路地を進んだ。崩れかけた商店がぽつりぽつりと並び、スラムとも住宅地とも呼べない雑多な家並みが続いた。

脇の畑ではアヒルたちがせわしなく走り回り、上半身裸の子供たちが、棒切れを手に地面を叩いていた。海辺の宿と聞いていたが、どこにも海の気配はなかった。

幸運にも、途中から地元の青年のバイクに乗せてもらうことができた。荷物を背負って歩いているぼくに何かを感じ取ってくれたのだろう。青年は人懐こい笑顔を浮かべ、何度も何度も「乗りなよ」と言った。

「アンクル・ジャック、歩いて行ける距離かな?」

そう問いかけるぼくに、彼はいたずらっぽい眼差しでこんなことを言った。

「途中であきらめなければね。どこまでだって歩いていけるよ」

そんな言い方が可笑しくて、嬉しくて、何度目かのやりとりの後、素直に彼の厚意に甘えることにした。「ごめんよ。実はあきらめ早いんだ」と。

片方を後ろ手に支え、もう片方の手でギターを担いでシートに跨った。不安定な姿勢のぼくには構わず、むしろ面白がるようにして、青年は軽快に砂利道を疾走した。

スピードが上がるたびにギターが風にあおられ、身体ごと後方へ持っていかれそうになった。危ない、と本能が警報を鳴らした。けれど、どこかでそのスリルを楽しんでいる自分がいた。

きっと懐かしかったのだろうと思う。無茶をすることばかりに夢中になっていた少年の日の記憶。頬を切る鋭角の風はあの時の風に似ていた。

「ねえ、さっき、どこまでだって歩いていけるって言ったよね?」

「そうだよ。前に進むために足があるんだから」

「だったらどうして君は歩かないの?」

「え?」

「バイク。ガソリン無くなったらどこにも行けないよ」

面白いようにバウンドを繰り返す悪路の上を、大声で言葉を交わしながら進んだ。いつでも青年は楽しそうに笑った。

時折、すれ違う人たちから声を掛けられたりもした。ギターを担いだ姿が滑稽に映ったのだろう。中には指を差して笑う姿さえあった。照れくささとは裏腹に、その大きな笑顔に救われている自分がいた。

「確かにね。ガソリンがなきゃどこにも行けない」

「エンジンを掛けるために足があるってこと?」

「ある意味ではね。いや、だから君に声を掛けたんだよ」

「だから?」

「そう、ガソリンが無くなったら押して歩かなきゃいけないだろ? でも、ふたりだったら押すのも楽だ。一緒に押しながら歩いて行けばいい」

ふたりで笑った。まるで幼馴染みと過ごしているみたいだった。

ゲストハウスは椰子の林のなかにひっそりと建っていた。アンクル・ジャック。この砂浜で唯一の宿だった。左に食堂を兼ねた母屋があり、右にはゲスト用のコテージが何棟か並んでいた。中央には屋根のついた小さなバーカウンターがあり、ソファセットに、ささやかなファイヤーピットまでしつらえてあった。

チェックインを済ませ、シャワーを浴びて汗を流した。水を口に含むとかすかに海の匂いがした。しばらく目を閉じたまま水に打たれた。耳をふさぐシャワーの水音が平衡感覚をあやふやにした。

浮遊した一瞬の連なりの中で、そっと一滴の涙をこぼした。たった一粒だけ泣くことを自分に許した。

濡れた髪のまま、夕暮れ間近の砂浜へ出かけた。見渡す限り人影はなく、一匹の赤茶けた犬だけが潮の名残りを懐かしむように歩き回っていた。

曇り空の下、海が練り色の波を立てながら砂に消えた。傾いた陽射しが雲の隙間を縫って降り注ぎ、地上に、のろまな夕暮れの影を落とした。

打ち寄せられた流木に腰掛け、しばらく海の姿と光の帯を見つめた。潮の香りを抱きしめた風が、包み込むようにぼくの肌を撫でていった。

 そんな一匙の砂
 世界が黄土色に変わる
 遊び方も
 あり方も知らない
 一匙の砂
 内側に流れる
 さらさら
 地平線に流れて
 あの先にいる誰かより
 あなたの輪郭になりたい

いつの間にか、そんな一編の詩を思い出していた。南半球の、夕暮れの、誰もいない砂浜の片隅で。

ずいぶんと遠くまで来てしまった。満足に歩けもしないのに、ふとした拍子につまづき、そのまま前のめりに走り出してしまったみたいだった。

足取りは今も縺れたままだ。上手になんて歩けやしない。いつだってつまづきながら生きていくしかなかった。へとへとに疲れ、何もかもに嫌気がさし、意味のない悪態をついて、自信を失くし、でも、それでもなお。

海を照らす淡い緋色の光の、そのずっと向こう側に、ぼくはいくつもの思いを飛ばした。

ふと、頭の片隅で何かがパチンと弾けた。かすかな痛みを伴ったそれは、やがて、ひとつの朧気な予感へと形を変えた。

今日かもしれない。今日が、最後なのかもしれない。

予感が少しずつ確かな輪郭を結び始めた。旅と呼ばれるこの手触りは、今日で最後かもしれない。その痛みをこの場所にうずめるためにここまで旅を続けてきたのだ。

この旅のどこでも感じなかったそんな緩やかな終わりの感覚を、ぼくはひとりきりの砂浜で強く感じ取っていた。

 そこまでの空
 細かく千切った私を
 両手でばら蒔いている
 確かめるように
 私 両手でばら蒔いてゆく

足先をさらう砂粒を両手ですくった。湿り気を帯びた黄土色の砂は、握りしめると、曖昧なかたちに崩れて手のひらからこぼれ落ちていった。

潮の遠鳴りに耳を澄ます。夕焼けが雲の向こうに霞んでいく。濡れた髪が耳に触れる。言葉をつかみ取れない。光が海に沈む。潮風が頬を撫でていく。

遠くで、犬の鳴き声が聴こえる。

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