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頭の良しあしと文字の巧拙

 おはようございます、須恵村すえむらです。
 本名ではなく、父の旧姓を少しもじってビジネスネーム的に使っています。

 趣味で小説を書きながら、音声書き起こし(反訳)の内職をしています。
 こちらでは、言葉や仕事術についての雑文を公開しています。


 今回は古い日記の整理をしていて拾った話を転載します。
 (少しリライトあり)
 といっても、速記にも文字起こしにもあまり関係ありません。
 例えるなら、Xツイッターの「△△の話題」で、たまたま一つ二つ単語が一致したから拾われたんだろうな…という程度の関連です。



あるオジサマとの会話


 役所勤めをしていた頃、選挙事務で駆り出されることがありました。
 投票所で入場券を確認して名簿と照合したり、投票券を配ったりするアレです。

 大体、居住地の近くの投票所に割り振られるのですが、そのときはたまたまあまり縁のない地区で、しかも同じ部署や同期など1人もおらず、その上女は自分1人という、かなり心細い状況でした。

 現代だったらもう少し配慮されるかもしれませんが、女手=昼食時はお茶を入れたりする人という任を期待される要員ということです。
 その日は気のいいおばさまが、「係の皆さんでどうぞ」と言いつつ、イチゴを差し入れてくれたりしたので、へた・・を取って昼食後のデザートとして出すため、給湯室にあった中で一番小さな皿に分けるという仕事もありました。
 それが選挙事務要員として普通の仕事なのかどうかは分かりませんが、地方の住宅地だし、「そういうこともある」という程度の話です。

 お昼は用意してもらった仕出しお弁当を、隙を見て交代で食べるのですが、他部署の今まで全く接点もなかった中年男性職員とたまたま一緒になり、差し向かいで食事をしたことがありました。

 まだ若かった上に人見知りの私は、年齢がかなり上のその人と、何の話をしていいのやら全くわかりませんでした。
 が、幸か不幸か、相手から話題が振られました。

 オジサマ(「以下「オ」):あんた、議会の速記者だってな?
 私:はい
 オ:じゃ、字書くの速い?
 私:いえあの…速記ってそういうものじゃなくて…
 オ:(私の返事を聞く前に)字きれいか?
 私:え、恥ずかしながらきれいでは…
 オ:じゃ、多分頭いいな。医者とか大抵字汚ねえだろ。
 私:は……?

 再度つけ加えますが、私が話した相手は8歳の少年ではありません。
 45~50歳(推定)の成人男性です。

 速記というのは、今や化石のような技能ですが、符号を運用して人の話などを書き取る技術です。
 その符号を日本語に起こす作業を「反訳はんやく」といいます。
 私は、ワープロがやっと少しずつ普及したかな?という時代に資格を取ったので、手書きの反訳に慣れている方ではあったと思いますが、いずれにしても、人の話を聞いたそばから普通の字で書いているわけではないので、速記者だから字を書くのが速いというのは、かなり見当違いの発想です。

 が、速記と自体がそう知られているとはいえない以上、そういう誤解もあるのでしょう。問題にするほどではありません。
 話をまともに聞かずに遮られたことにはモヤモヤしますが、それはまた別の話です。


字の巧拙とは


 次に、字の巧拙うまへたについて。
 例えば本当に自分の字が自慢だったとして、「はい、きれいです」と答えられるほど吹っ切れている人を、私は知りません。
 せいぜい「一応書道(ペン習字)やっていましたので」とか、「親(教師)から口うるさく注意された結果ですが」とか、少し遠回しな言い方をするものじゃないでしょうか。

 私の字は、褒められるほど美しいものでもありませんが、「乱雑過ぎて読めない」と言われたことも人生において一度もありません――という程度です。

 そのオジサマに、字がきれいだと思われたいというスケベ心はこれっぽっちもないので、その件はこれ以上問題にしません。

読めますよね?ね?
丸山薫『汽車にのつて』より 大好きな詩の一説です

 「医者は大抵字が汚い」というのは、多分カルテの走り書きのことを言っているのでしょうか。
 カルテに書き込んでいる風景は、医者にかかったことのある方なら、必ず一度は目にしているものですが、覗き込まれたときに患者が読むことができないように、患者に読み取られにくい外国語を交えたり、あえて乱雑に書いたりしているという話は(真偽はともかく)よく聞くところです。
 というか、要するに「走り書き」ってことでしょう。

 それはさておき、オジサマの医者=頭がいいという短絡発想も、この際問題にはしません。
 もちろん、まるっきりのバカでは当然試験もパスしないし、その職に就いてからも日々の勉強が重要なお仕事ですから、なおのことです。
 しかにここにも「お勉強ができるだけのバカ、人格のなっていない医者も必ずいる」というツッコミをする方がいらっしゃるでしょう。

 それらをぜんぶ踏まえた上で最も問題あほかだと思うのは、それを口にしたときに、自分のせいぜい半分の年齢の小娘に「こいつバカじゃねーの」と思われる可能性を、全く想像できないという点にあります。

 このオジサマは、人にバカと思われてもへっちゃらかというと、私を頭っから使えないペーペー扱いしている物言いからすると(ほかにもいろいろと腹の立つことを言われました)、自分がバカだと思われるのはお好みでないと見受けました。
 だって割と多くの人は、自分が貶されたら腹立つ部分めがけて、他人に対しても攻撃してきませんか?そういうことです。

人間の知性とは


 自分は物を余り知らないと自覚している人がいたとします。

 その人が物知りになりたいと思ったら、今ほど知識や情報を詰め込むのが容易な時代はないでしょうから、そういうものを片っ端から吸収すればいいだけです。

 余計な知識は必要ないから、自分に必要なものだけ集めていこうというのも一つの見識です。

 知らないし、知る必要も感じるけど、諸事情によりついていけないという人もいますが、そういう人が、自分のよく知らないことについて言及せざるを得ないとき、「不勉強だから、間違っているかもしれないけど」とか、「こういうことを言うと笑われそうだけど」とか、「参考意見として聞いてほしいけど」などと添えることがありますが、こういう一言にこそ、何ともいえない「知性」を感じます。
 もっとも近年は、学会の場などで「素人質問で恐縮ですが」と高度な質問をする専門家という目撃例がSNS等で散見されていますので、こういう枕詞もうのみにはできないようですが。

 程度問題ですが、他人から頭がいい人だと思われた方がまあ気持ちはいいと思います。
 あんなバカにバカだと思われても構わないと思わせるような人と接することもありますが、自分がバカだと思っている人物にバカだと思われるのは屈辱だという考え方も、否定できません。

 何ひとつ発展的なことは言えないけれど、他人からバカだと思われたくない…から、ちっとはましなこと言おう、ましなことしよう――そういう気持ちこそが、確実に人間としての知性を支えていると思います。

おまけ


 参考までに、このオジサマとのやりとりは1990年代の出来事です。
 太田あやさんの本『東大合格生のノートはかならず美しい』が話題になったのは2008年でした。
 あの書名を初めて見たとき、「あのオジサマに意識改革は起こったろうか…」なんてことは、全く思い浮かびもしませんでしたが。


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