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数人って何人?

 こんにちは、須恵村すえむらです。

 本日は、割と最近実際にあったこと、そしてそこで考えたことです。
(※実際にあったことなので、少しフェイクを入れています)


三百十人


 ある企業の人事担当の方が、自社で行われた勉強会について話題にしていました。
 そこで聞き手が「具体的にはどれぐらいの方が参加なさったのですか?」と聞きました。
 それに答えた人事担当者いわく、「三百十人だったので、全社員の〇%くらいですね」とのこと。
 (傍点筆者)

 ここまでなら、よくあるインタビュー風景なのですが、この後聞き手は勉強会について再度質問したいことがあったようで、話題が戻りました。

「先ほどお話しいただいた勉強会には、330人の方が参加されたということですが…」

 これを読んでいる方は、文字で追っているので、特に違和感があると思います。
 すなわち「え、そこまで具体的に言ってなかったよね?」と。

 私もほんの数分前に聞いた“音”ですし、書き起こした記録は目の前にあるので、すぐにさかのぼれます。「ちゃんと」と言ったらおかしいけれど、「三百数十」と言っていました。

 これはまあ、確定の数字がすぐに出てこないけれど、少なくとも310人よりは多かったかな?程度のつもりでこう答えたのでしょう。
 杉下右京さんや刑事コロンボくらい“細かいことが気になる”タイプなら、「すうというのは具体的にどの程度ですか?なぜ曖昧におっしゃるのですか?」という確認が、その場であってしかるべきです。
 しかし聞いている方も、そこはそれほど重要でないと考えるからこそ、ひっかかりもしないし、質問も確認もしなかったのだと思われます。

 にもかかわらず、どうやら聞き手さんは「すう=3(2でも4でも5でもなく…)」と、聞いた瞬間に脳内変換してしまったようです。
 話者は「330人」と特定されたことに対し、「私はそんなことは言っていません(または「そんなこと言いましたっけ?)」という訂正をせず、そのまま質問に答えただけだったので、「あれ?自分330って言ったっけ?まあいいや」で流した感じだったのでしょう。

思い込みの激しい小学生女子


 ふと、昔読んだ玖保キリコさんの『シニカルヒステリーアワー』のエピソードを思い出しました。

 作中最も癖強くせつよキャラであるツネコちゃんが、クラスの女子リーダー格のシーちゃんに、冬休みの過ごし方を質問します。
 するとシーちゃんは、「ドイツに遊びにいく」と答えます。
 意外な答えが気になったクラスメートたちに、なぜドイツなのかを聞かれ、「おじいちゃんがドイツ人だから」と答えますが、みんな本気にしませんでした。

 本編を読まないと正しいニュアンスが伝わらないと思いますが、ツネコちゃんは「自分大好き、自分最強」なキャラクターなのと、80年代の話ゆえ、外国が絡むとちょっと格上かくうえ的な価値観があるのかな?あたりを踏まえるといいでしょう。
 シーちゃんは面倒見がよい優等生で、大柄だけれど特に美少女というわけではなく、どちらかというと地味系。「“そんな子”のおじいちゃんがドイツ人のわけがない。シーちゃんは珍しく冗談を言っているのだ」とみんな解釈します。

 といっても、小ばかにしてそう考えたのはツネコちゃんだけで、ほかの子たちはイレギュラーな状況に戸惑っている程度の感じでした。

 シーちゃんはそんな同級生たちの意向はどこ吹く風で、予定どおり渡独し、親戚の子たちと遊んだこと、ドイツ語を少し覚えたこと、リンゴのケーキがおいしかったので、つくってあげたいということを手紙に書き綴ります。
 一方その頃シーちゃんを除く同級生の面々は、「シーちゃんは多分、青森の親戚の家に行って、お土産にリンゴを持ち帰るだろう」などと考えていました…的な話です。

 青森というのは、ツネコちゃんだったかそれ以外だったか忘れましたが、「青森かどっか・・・・なんじゃないの?」と適当に言ったことが、なぜか“事実”として定着しただけで、シーちゃん自身は青森というワードすら一度も出していなかったのです。

 後日、日本のシーちゃんのもとをドイツ人のおじいちゃん(**下記注)が訪れます。
 同級生たちは、たまたま祖父母と歩いていたシーちゃんが会って、「ドイツの話、本当だったんだ」と、ツネコちゃんを除く一同は納得。
 「そういえば色が白い」「体格がいい」「目とか髪の色も薄い」と、シーちゃんの身体的特徴を心の中で吟味するのでした。

**
ここだけに着目すると、シーちゃんは「ドイツ人のクオーター」と思いそうですが、シーちゃんのご両親は、父親が「ドイツ人父と日本人母のハーフ(最近はダブルというそうですが)」で、母親が「日本人父とドイツ人母のハーフ」的な設定だったので、厳密にはクオーターではなかったと記憶しています(組み合わせは逆だったかも)。

 1人納得いかないツネコちゃんは、家に帰ってから、「自分にも外国人の先祖とかいないのか?」と母親にしつこく聞き、いつものようにしかられて…というオチでした。

言語コミュニケーションに大切なこと


 こういう話って、日常の中に結構ありませんか?
 本人がきちんと説明しているはずなのに、なぜか誰かが適当に言った想像や事実誤認の方が「事実」として扱われやすくなること。

 人に絶対に伝わるように、わずかな遺漏もなく説明をしようとすれば、自然と言葉数が多くなります。
 すると、そこから適当にピックアップしたワードだけ読んで「わかったような気になる」人というのが、一定数出てくるものでしょう。
 逆に、説明が少な過ぎて誤解を招くことももちろんありますが、それは想像で留めずに「どういうこと?」と聞けばいいんですよね。ましてや「どうせ冗談言っている」って、さすがに判断が雑過ぎます。

 しかも冒頭に紹介した「数」の場合、人によって捉え方が微妙にずれる言葉なので、それぞれのイメージをイメージとして持つのはいいとして、あくまで「すうすうでしかない」という解釈ができないと、全く無意味なぼかし言葉になる上に、ややこしいことになります。

 言語バーバルコミュニケーションに必要なのは、語彙力よりもむしろ、「大ざっぱと細かいの使い分け」かもしれません。

 いや、大抵の人には“それ”ができているからこそ、そこそこうまく人付き合いができているんだと思いますが、理解が雑だったり、決めつけがひどかったりする人の方が、なぜか「声が大きい」ってのもありがちですよね。


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