「推し活」という明るい依存症

「まるで幼い少女である」と言えば聞こえはよいが、その姿は成人して10年以上は経っているであろう成人女性である。好きなアニメや漫画のキャラクターの人形なりを持ち歩いて、大事にしているという。西部邁ゼミナールでよく耳にした「文明の小児病」もここまで来ているのかと唖然とする。

上田と女が吠える夜、彼女たちは、たいそう明るく、嬉しそうに自らの「推し」を語る。いかにもオタクらしく、瑣事に至るまで丁寧に、遂には興奮して絶頂して絶叫する(人を推している暇があれば、タレントとして推されるようにならんかいというツッコミは措いておく)。

或る元グラビアアイドル(山崎静代に言わせれば尻軽女)は、「推し」のために仕事をして金を稼ぎ、それを貢ぐのが生きがいであるという趣旨のことを言う。「趣味のために、頑張って働く」。こう言えば、聞こえはよいだろうが、人生は趣味だけが目的ではない。また、そもそも「推し活」なるものは、趣味と言えるのだろうか(TVショー的な誇張があるにしても)。

サブカルチャーの文化それ自体の価値について、それが劣ったものであると言いたいのではない(大半はすぐ忘れられるが)。問題にしたいのは、その幼稚な享受形態である。「推し活」の主要コースは、コンテンツを享受し、コンテンツに関連したグッズを購入すること、そして興奮すること、興奮を分かち合って、興奮を強化することである。

ごくごくありふれた趣味(Hobby)と比較してみる。草野球でも公民館の将棋クラブでも生け花教室でもいい。これらに共通するのは、プロフェッショナルなり師範なりが存在し、その技芸の見事さに感心し、それを真似ようとする精神(アマチュアリズム)である。

「推し活」「推し事」にはこの精神はない。基本的に興奮に始まって興奮に終わる。この興奮における「忘我」にうつつを抜かしているのが、「推し活」の実践者であり、その「忘我」の虜になって使命感を誤想しているのが「推し事」の従事者である。

果ては、「棺桶にグッズを入れる、入れない」で絶叫し合う。考えてみてほしい、往生せんとする老婆が子供向けの絵本を嬉しそうに抱えて独り興奮している姿を。異常な興奮が常識を鈍らせている。

良き家族、良き友人、良き趣味、我々が関心を抱く対象は様々あり、一点に依存することはない。そういった言わば網の目の内に、我々は支え合って生きている。「推し」が全ての人々は、その網の中にいることを忘れて、今日も忘我を味わっていることだろう。

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