非人情になりきれない

 どうしても人は非人情になりきれないらしい。走ってばかりいるような考の僕は、勘定すると多分今までの人生で横になっている時間の方が圧倒的に長い。例え、死んで漸く落ち着くんだと思い付いても、まだまだ二十歳と思い出して横になって寝てしまう。こうなると不文の刑罰も、オブリージュも全く無力である。
 鷹揚な心の内は「煦々たる春日に背中をあぶって、縁側に花の影と共に寝転んでいるのが天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸もしていたくない。畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮らしてみたい。」
 まさにこうである。

 汚い事も当然するし、不摂生もする。芸術においても、高尚でありたいと思いながら、卑俗な絵も人並みに描きたい。芸術は自己表現に始まり自己表現に終わるものであると心得ていながら、そこに他者の評価が入る隙は一切無いと心得ていながら、自己本位を生命とすると心得ていながら、作品に評価がつくとなんだか凄く嬉しいものである。いいねは嬉しい。

 評価されることが目的になる前におっと危ないと手を引いてくれる存在はこれもまた自己の中から来るのだから全部ひっくるめて認めていかなきゃならん。矛盾とは違う。むしろ両方が存在する重ね合わせの状態である。何かの切掛で発露したときに、どちらの状態か判然とする。それまではどっちも存在する。量子的心情である。すると僕の心理は線型同次微分方程式で表される現象で、僕を成す心理の集合は線型結合について、すなわちスカラー倍と和算について閉じている。

 世界は複雑極まって、相対する心理も常に複雑になるから、端から端まで知りたいがために、小説を途中から読めるような純粋な非人情はなかなか出てこない。殆ど常に増幅されたり足されたりしたものとして存在する。

 たまにはもつれる。僕は相手のやりとりでエンタングルメントが解消されて外に出た心理から、はじめて心の内の心理を知るのだ。外に出るのが非人情かもしれないし、心の内が非人情かもしれない。

 非人情にはなりきれない。いつなるかもわからない。他の心理も、ただ重ね合わせとしては存在している。自己が沢山あったり、よくわからなくなったりするのは全くこれが為である。矛盾では無い。道化でも無い。

 

---追記---

 「見えている世界と、見えない世界は明確に結び付いている。見えない心が正の感情を持ったなら、見えている世界の、表情やら所作は必ず正になる。負についてもまた同様である。だから暗い人、張りがない人とは付き合うべからず。不幸になるのは明確である」

 と拝聴した。僕には首肯し難かった。僕は表情が無いときにも心は幸福に満ちている場合があるし、笑っていたって心の奥で、嘲っていたりする。豊かに感受性を持っているが、感情が無いと昔から言われる。平生に、純粋に笑った後に、馬鹿にするなとからかわれることがある。
 畢竟ずるに、非人情になりきれないで書いたように、心はそんなに簡単なスカラーではない。と思うのだ。

 但し、もっと小さい、自分の気がつかないくらいのほんの小さな点で、心が正しく現実に発露しているのかもしれない。その点は確かにそうかもしれない。だったら気を付けなければならない。

「問題は、決してゼロから生じない。無視出来るほど微小な問題が、心の歪みが、徐々に大きくなって、無視出来ないほどの問題に繋がるのだ。」

 これは大いに賛成である。だから先の小さな心の発露も、やがて大きな発露になるのかもしれない。そう単純にいかないのが心でもある。こんな一本道で発露するなら、既にいくつかの場合の自己は檻を抜け出している筈である。

 

 そういえば、『檻』や『カナヘビの轢死体』、『雨と芸術的感性』では「僕」やら「俺」といった一人称が多分出てこない。これは、意図したものではなかったが、これらの文章、特に『檻』の場合は、十割自分の本当のものとは一寸言い切る自信が無かった。すなわち自己を晒すのに躊躇はないが、本当に出来ないこともある。変わるのを恐れているとか、そういう野暮なもんではない。ということである。
 だから多分一人称が自然と消えたのである。






 

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