何者

 ———僕は何者なんだろう。
 六畳間の南北を貫くように敷かれた布団から黒い頭だけを出して、目を覚ましてから五分余り呆然していたら、段々と忘れていた自我の感覚が思い出されてきた。つい先刻まで何か不思議な夢を見ていたようだが覚えていない。師走の冷たい空気が外からドアの隙間を縫って部屋に入り込んで、朝は殊に冷えるから起き上がる気が湧かない。薄目で時計を見た。疾くに明るいのに四時を指している。大方止まっているようだ。僕はここで漸く起き上がった。
 抱えるように頭を手で触ると、矢張り酷い寝癖なのがわかった。水で湿らせるついでに、僕は洋卓の下についている棚———といってもただ足の中腹に板がかかっているだけの粗末なものある———から、小さな自立式の鏡を取り出して、上から覗き込むように顔を見た。
 僕はおおよそ毎日自分の顔を鏡で見るけれども、時々このような頭の冴えない朝の時分に自分の顔を見ると、鏡に映っているこの男は本当に僕なのだろうかと思うことがある。全体この顔のどこが僕を成していて、どこまで切り取ったり変形さしたりしたら僕じゃなくなるんだろうかと思う。ある時にはこの鏡に映っている人間は一体誰なんだろうかと思う。それどころか、これは本当に人間だろうかと思うことさえある。
 こういう自我の浮遊というべき感覚は朝だけでなくて夜も同様にやってくる。他の人間がどうかしらないが、僕は瞼を閉じて眠りにつくまでの時間に必ず心臓の鼓動を感じる。中学生の頃に体育の時間か何かで心拍数を真面目に測った時に、人より鼓動が早いということを知ってからというもの、寝るときにうつ伏せになったり、手を当てたりして、心拍数を測ってみることがある。その中で時々この振動は本当に僕のものだろうかと不安になることがある。鼓動の増えたり減ったりが、僕の感情や生命現象にのみ従属しているだろうかと思う。心臓が他人のように、はたまた機械のように振る舞うんじゃないかと恐ろしくなる。
 
 昔から僕は自分というものの感覚が大変薄かった。誰かの意見に合わせたり、自分というものを偽装したりする方が自分を露出させるより自然だった。
 大人になってから、ついに僕は何だか僕を永久に見失ってしまったような感覚に襲われた。自分の本当のところが、僕の中のどこを探しても見つからないような気がしてならない。僕でさえ、僕を引っ張り出してやれないくらい、自分の感覚が滲んでしまった。
 代わりに現れたのは自尊心の檻だった。それは元から僕の周りに建てられていたが、だんだん檻の中の僕が薄く小さくなるにつれて、檻そのものが僕を騙るようになった。それはほとんど、というより完全に僕であって、僕も他人もそれを僕だと思っている。そうして僕はますます自分というものがわからなくなってしまったのである。

 僕は鏡を見ながら寝癖を直した。僕が僕らしくあるために寝癖くらいきちんと直しておくべきである。まだ身体が冷えていて着替える気は起きなかったから、背中を南の窓に向け、太陽の光を背中に浴びせた。三枚着ていた服の内側から身体がじんわり熱くなる。僕は自分の前にできた、床に落ちた黒い影を眺めた。

 この世に解らない人間より危険なものはない。僕は自分の顔を鏡で見ると、霊か妖の類の前に座っているような心持ちがする。心臓の鼓動に手を当てると、時限爆弾の針の音を間近に聞いているように感じる。
 僕は永久に普通になれないのだろうかと不安になった。何者でもない僕は、つまり自分を全く理解できないのである。この奇妙な事実を、詩的・芸術的といって変人という外面を纏って仕舞えば、それまでであるが、こんな虚しいことはない。何者でもないそれをあたかも他人のように拵えて、もう実際はなくなってしまった本当の自分が観察している風にしているだけなのである。
 僕はずっと普通になりたかった。物心がついた頃から、普通というものを意識して、周りには気付かれないように普通に近づけるようにしていた。そうして僕は自分を普通だと思い込んでいたが、周りは僕を変だと言った。僕が普通を目指すほど周りは僕のことを奇妙だと言った。僕はこの時くらいから、自分というものと、周りが見ている僕との違いがあることを知って、自分だと思っていたものが、自分ではなかったと思い知った。
 大学へ入学してから、筑波の森の中で静かに暮らすのがささやかな目標であった。そして今その目標は確かに達成されていて、それに対して喜びを感じる時もある。静かにキャンパスに赴き、ひっそりと帰り、狭い部屋に籠って好きなことをする。あまりにも平和で幸福である。それでもこの目標の事を悉皆忘れて、賑やかで浮ついた暮らしを羨んでしまう日があるのは、矢張り普通を渇望しているからに他ならない。孤立こそしていないが、将来家庭や自らの社会を持って忙しくなるだろう知人たちを想像すると、孤立というものはもうすぐそこまできているのかもしれない。

 自分にくっついている真っ黒い影を、眩しい光をすこしでも浴びるたびに意識しながら、惨めに不幸を感ずるのは酔狂である。酔狂であれば真面目に人を好くことは最初から不可能である。僕は僕を好いてやらなくちゃならない。それが何者であろうと。

 僕は太陽に焼かれて背中が焦げる思いがした。影は依然明らかに立っている。自分を焼き尽くして灰にする以外に、この真っ黒い影を消し去ってしまえないのが恨めしくなった。そしてこの黒い影を何らかの方法で消し去れたのなら、僕はいよいよ何者でもなくなってしまうのである。
 大きな欠伸をしてから、窓を開けると、冷たい風がびゅうびゅう体を吹いた。僕はまた頭を抱えるように手を持ち上げて、ふと足下の影を見ると、たしかに寝癖のない頭が映ったと思うと、二度目の風が吹いて影を揺らした。


 僕は一体何者になるんだろう———
 

 

 

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