木になりたい

 蒸し暑い季節になってきました。この頃は飯がすぐ腐るからいけません。先日は炊き込みご飯を腐らせました。たった一日置いていただけなのに、米にぬるぬるとした舌触りがして驚きました。

 しかしまだ夜中は涼しいですから、昼間と比べるとかえって良い気分です。特に夜中に出かけて田圃の付近を通りすぎるときは、蛙のげこげこと鳴く声が沢山聞こえて愉快です。部屋へ戻ると途端に聞こえなくなって寂しいくらいです。日も伸びて、あまり暗い気分に陥りませんが、暗い気分とはまた違った、ある種明るさを含有した奇怪で衝動的な気分になることがあります。

 先日の真っ暗な夜にはこう考えました。
 将来について漸々考える年歯になって、将来のために多くの不安や絶望に相対しながら、それより遥かに微量な安心や希望を糧に生きていくのならば、私はいっそ木にでもなりたいと思うのです。何を思案するのでもなく、弁ずるのでもなく、葉を風任せに揺らして歌う木になって、鳥や虫を愛でる慈愛の心とのみ暮らしたいのです。俗世間の匂いのしない美しい自然と同化したいのです。
 私は陰鬱な心持ちの折、よくこの衝動に駆られます。昨夜は月を見て駆られました。宵闇の中で、針葉樹の頭頂の間から、真円ともつかず、欠けているともつかない丸みのある月が見えたときに、ああ美しいと思いました。月の光が闇夜の濃緑を照らしているのがこの上なく美しく見えました。この美と一つになりたいと思いました。この願いは、暗に私がこの美からは懸隔されているということをはっきりと示しているのです。この美の中に扮するにはあまりに醜いということを、月の光は見抜くように私の額を刺しました。私はこの月によって、私の後背の手の届かない辺りの所から、衝動が、虚無への衝動が、自然と一体化せねばならぬという衝動が、だんだん私の頭の方へ上がってきて、精神を支配するのを感じました。あいにく私は昨夜この衝動に打ち負けることはありませんでした。だから私は醜いのです。
 理想を言えば、この衝動に身を任せてみたいと思うのです。虚無へ心身の一切を打ち遣っておいて、屠所へ向かう羊の歩みの如く、ゆらゆらと木の根へ向かうのです。それから、私は木にもたれ掛かって座り込んで、永久に動かなくなりたいのです。頭にも、胸にも、手のひらにも意識がなくなって、木々と面した背中だけが意識されるのです。呼吸は次第に浅くなって、瞬きさえしなくなります。虫が私の体を這います。風が私を吹きます。拍動はゆっくりになって、血圧は下がり、私の血管がほとんど維管束と接続していくうちに、ゆっくりと脳は全ての思考を停止します。葉は揺れて歌います。月がそれを照らします。私の意識は既に木の中にあるのです。そうして私は至上の幸福感と充足感に包まれながら生き絶えて、朽ちて、虚無となり、木となり、美と一体化するのです。


人の脳というものは興味深いもので、幻覚や夢、統合失調症、タルパ、もっと軽微なもので言えば、信じること、そして疑うことに例示されるような大変奇妙で幻想のような現象を可能にする唯一の臓器です。私は脳によって、こういう陶酔的な能動死でさえも実現できると本気に思うのです。あなたはどう思いますか。

 少し非人情が過ぎましたが、もう少し続きます。

 先に、炊き込みご飯を腐らせたと言いました。具が沢山ある分、普通の白飯よりも微生物の栄養源が豊富で腐りやすいそうです。微生物は正に自然の好例です。自然の代表物である森林は、土壌や生物に計り知れないほど微生物を蓄えています。自然の神秘の動力は微生物であり、彼らが森の血液を循環させているのです。自然の神髄は間違いなく微生物の力でしょう。したがって自然の真髄を沢山含んだ、腐敗した炊き込みご飯は自然と一般と言っても差し支えないでしょう。私はこれを嚥下して、消化器官に取り込むことで、少なくとも腹痛に襲われる少しの時間は、自然と一体化できるでしょう。可笑しいですか。私は本気にこれを言うのです。全く本気に言いますが、ただし気が触れたと思わないでください。腐敗物を食して自然と一体化できるとは思いますが、そのために腹痛に悩まされることは遂にしませんでしたから。もっと言うと、私は虫が苦手です。自然が好きなのに、足の多かったり矢鱈に長かったりする虫が苦手です。
 もう少し軽便に、死と共に木になるよりも、草むらや林に寝っ転がるだけで自然と一つになりたいと思うのです。
 畢竟、どういうことかわかりますか。勝手なのです。美と一つになりたいと言うのは、私の勝手な欲望なのです。逃避したいのです。人間から逃げたいのです。自分から逃げたいのです。そういう勝手を、自然の美というもので上皮を塗り固めて見た目だけ綺麗にして安心しているのです。
 ある種の明るさはここにあります。私は私の逃避欲が、暗愚な自尊心が、自然の美によって包装されることで心底安心するのです。美の装丁のない私のこころは形もなければ色もありません。自然の美によって上皮だけでも包むことによって、初めて私のこころは形を得て、私の心は勝手な欲望だということが私に理解されるのです。包装すらなければ、私は私がわからないままだったのですから、私はどれだけ醜いものを持っていたのだと知らしめられようとも安心するのです。空虚な私にとって、自然は私に、ああここに心があったと教えてくれるのです。つまりは私の心が安らぐと言うのです。醜い心が少しでも安らいで浄化されていくのです。

 妙な話です。私は自分を知るために、自然と一体化すること、それに付随する矛盾を利用する不器用な手段を用いています。

 不器用な手段はもう一つあります。それは生産です。20歳を過ぎてから消費にのみ身体を浸しているのがどれほど良い気分でも耐えられなくなりました。何かを生産していないと気が済まない。生産の糧になることをしていないと気が済まないのです。
 何かを作ることはすなわち単純化した自分の複製を作ることです。もしくは自分の分画を得ることと同じです。私は私の生産したもの、および生産する過程において初めて鏡で自分のこころの姿を見ることができるのです。私の創作物を理解して愛してもらうと言うことはすなわち私を理解して愛してもらうことと全く同義なのです。

 片輪な私はこうやって私を知ります。健全な人は、自分を知る必要がないほど、自分の形をはっきり把握しているか、そもそも知る必要がないのでしょう。私はこれらの術を不器用な方法と言いましたが、健全な人よりも遥かに高潔で、奇特な方法だと自負しています。ここで知る自分は決して誰かの押し付けた自分の像ではなくて、自分そのものなのですから。

 多少行き過ぎた話でした。そういえば、大学に良いところを見つけました。喫茶店のある欅通りの交差点から大学構内へ入ると、左に松美池があります。丁度博士号の頭だけ見えるくらいのところです。その辺りの歩道から見て、あそこの木と池の調子が、ミレーの描いたようなオフィーリアの浮かぶ様子に当てはまるような角度があるのです。生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だという言葉が、あそこを通るたびに思い出されます。

 もう時期梅雨になります。雨が降ります。あまり憂鬱にならないようにしてください。

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